22話『コクスの大森林』 その2
「中はけっこう暗いのね……あっジェリー、一人で先に行ったら危ないわよ!」
「だいじょうぶだよ、ジェリーにまかせて」
自信たっぷりにそう言われても、やっぱり単独で先行させる訳にはいかない。
俺達は慌てて後を追う。
「……!?」
森の中に足を踏み入れた瞬間、空気が変化したのを肌で感じた。
嫌な感じはしないし、気温が急激に変化した訳でもない。
が、目に見えない存在が第六感に干渉してくるような……
「どうしたの? 早くいこっ」
ジェリーは別段気にしていないようだ。
ということは、悪意を含んだ存在ではなく多分自然に宿る精霊か、土地に満ちている何らかの"力"が原因だろう。
「おう、悪い悪い。なあジェリー、俺と手繋いでくれないか? 一緒に歩こうぜ」
「うん、いいよ」
疑いもせず、あっさり承諾してくれた。
ふわふわと柔らかく温かい右手を左手で握る。
よし、これで不測の事態があっても守ることができる。
「さて、まずはどこを目指すか……ここからずっと北にある池か」
地図と睨めっこしながらアニンが言う。
「そうね。そこが一番近い目印みたいだし、休憩もできるわね」
「では行くか。ご覧の通り方位磁石は役に立たぬようだ、方角を間違えぬよう慎重に進まねば。気が付けば見当違いの方向にずれていた、ということは森の中ではまま起こるゆえ」
見せられた方位磁石は、グルグルと回り続けるばかりだった。
「足元も不確かだ。気を付けてゆこう」
一応、元・道みたいなものはあるにはあったが、それを覆い隠し、あるいは破壊するかのように、左右から木の根が張り出したり、草が生えたりしている。
まるで森が、人の立入を歓迎していないかのように。
「自然の仕業なのに、やけに不自然だな」
「……うまいこと言ったつもり?」
タルテの冷ややかな評価はともかく、宿の人間の"トラトリアの里までは道がない"という話は本当だったようだ。
馬車が通れるように道を作ってもいつの間にか消えて無くなってしまう、と。
ジェリー曰く「自然や精霊さんがいやがってるからなの」というのが理由らしい。
"生きている森"とも言われている所以は、ここから来ているのだろう。
里の人間が別に排他的でなくとも、植物や精霊は違うってことか。
こりゃ確かに馬車じゃ進めないよな。
「ちょっと道をきいてくるね」
ふとジェリーが、俺の手を引いたまま、横にそびえている大樹のそばまで歩いていく。
そして空いている左手を幹に当てながら、囁きかけるように話しかけ始めた。
「……ねえ、ジェリーたち、行きたいところがあるの。道をおしえて」
その行為を笑うのはおろか、微笑ましい気持ちにさえならなかった。
何故ならジェリーは、花精の血を引いているからだ。
「……うん、うん……そうなの、とおいからよくわからないの。……うん、ありがとう」
「ね、ねえ、あれ……!」
タルテが驚きの声を上げる。
ジェリーの会話が終わると、森の木々が自発的に枝を曲げ始めたのを見たからだ。
こちらですよと、手で案内しているかのように、おしなべて奥の一定方向に伸びて続いている。
「すごいわねジェリー、木とお話できるなんて」
「えへへ……でも、ママはもっとすごいんだよ。ほかのばしょに生えてる木やお花ともおはなしできるって言ってたから」
「助かるぜ森。ありがとな森……って俺が言って伝わるのか?」
「ことばは分からないと思うけど、きもちは伝わってるんじゃないかな」
「なら良かった」
大森林の中を歩いていると、天井の高い巨大な建物内にいるみたいに錯覚させられる。
俺達や苔むした木の幹や根、岩などに向けられて、遥か頭上から微かに差し込んでくる木漏れ日は神聖さすら含んでいるかのようだ。
ほとんど日が当たらないからか、まだ温暖期のはずなのに少し涼しいくらいである。
歩き続けるにはこのくらいがちょうどいい。
奥へ進み始めてから、自然と誰も喋らなくなった。
そのため、森の静けさが更に強調される。
タルテもアニンも、別に極端に気を張り詰めてる訳じゃないみたいだ。
耳を澄ませて自分たちの足音、葉ずれや小鳥のさえずりを聞き、それと鼻で濃密な緑の香りを楽しんでいるようである。
アニンまでそうしているのは、今の所邪気を感じてないからだろう。
意図的に遠ざけてくれているのか、魔物にも全く出くわしていない。
時々足元が不安定になることさえ除けば、本当に森を散策してるようなものだ。
この分なら、あまり迷わずに里まで行けそうだな。
だが、ここが決して平和なだけの森でないことは進んでいくうちに理解できた。
進路の脇に、一見しただけでは分かりにくい崖や沼地があったり、更にはあちこちで遭難した人間のなれの果てだろう白骨死体まで目にしてしまう。
ジェリーがいなかったら非常に厄介なことになってただろう。
ただ、このように順調に進んでも一日で辿り着けるほど、トラトリアの里は近くなかった。
最初の休憩場所として目指していた池に辿り着くまでにも、想定してたよりも多く時間がかかっちまった。
「森の導きがあるとはいえ、日没後に移動するのは危険だ。今日はここで野営するとしよう」
まだ夜が来るまでには時間があったが、俺達は池の近くで野営の準備に入り始めた。
俺は焚火に使う木を集め、アニンは天幕を張り、タルテとジェリーは水を用意する。
「この池の水、きれいだけど、飲めるのかしら」
一見透明な池を覗き込んでタルテが言う。
水石を節約しておきたいんだろう。
「だいじょうぶだって」
例の如く、木から助言を得たジェリーが答える。
「そう。じゃあ食事にも使っちゃいましょうか」
「ジェリー、こっちもいいか。この森の枯木って薪に使ってもいいのか、聞いて欲しいんだけど」
「使ってもだいじょうぶだよ。おうちでもそうだったけど、生きてくのにひつようなら分けてくれるんだって」
「そっか。助かるぜ森、ありがとな森」
そんなこんなで森の助けと恵みを得て、円滑に野営の準備を進められた。
「あー腹減った、早いとこメシにしようや」
「あんたってばいつもそれね」
「それが俺のアイデンティティだからな」
「なによ、それ」
今日の晩メシにはボエム・リタで買った食糧を使ったため、準備や調理にさほど時間はかからない。
鮭のオリーブオイル漬、青カビチーズ、干しりんご、それと塩味の効いたパンが献立だ。
「やっぱパンは新鮮なうちに食うのがいいよな」
付け合わせの様々な味を順々に楽しみながらパンをかじると、これまた美味いんだよな。
それに加えて、こうやって皆で火を囲むと気分が落ち着く。
素晴らしいひと時だ。
「はい、お茶。朝買った葉っぱ、さっそく使ってみたのよ」
「お、あんがと」
タルテが渡してくれた、湯気の立つお茶を一すすりすると、優しい苦味がゆっくりと口に広がりながら喉から胃に流れていく。
「お前、お茶を淹れるのも上手いよな」
「な、なによ急に。誰が淹れてもあんまり変わらないわよ」
そんなことを言いながらも満更ではなさそうだ。
俺達の脇で燃えている火が、それをくっきり映して教えてくれる。
「おや、ジェリーはもうおねむか?」
既に食べ終えてお茶をちびちびやっていたジェリーは、時折体を揺らしながら目蓋を重たげにしていた。
早起きしたうえいつもより活発に動いてたから、そうなるのも自然なことだろう。
加えて腹も満たされ、体も温まれば、誰だって睡魔に襲われる。俺だってそうなる。
「うにゅ……まだ、だいじょう、ぶ」
陥落は時間の問題だった。
その前にアニンがジェリーの両手から杯をそっと回収しつつ、あらかじめ横に置いてあった毛布を手繰り寄せる。