95話『抗うもの』 その1
駆ける。
誰もいない塔の中を、わたしは駆けている。
時折、塔が崩れ落ちるのではと思えるほどの激しい振動が起こっても、駆けるのをやめない。
大丈夫、さっきのように、ちゃんとユーリはブルートークで確認を取ってくれるから。
わたしは、進まないといけない。
『ジェリーを探しに行ってくれ』
ユーリとの約束を守るために。
ジェリーを助けに行くために。
まずは外を探すべく、とにかく下へ下へと向かう。
本当は……分かっている。
あの子が無事でいる可能性は、決して高くはない。
あんな高い所から外に落ちてしまえば……
でも、わたしは信じる。
ユーリの言葉を。ジェリーの強さを。
ジェリーは、きっと生きている。
だからわたしは、わたしのできることを全力でやるだけ。
考えている暇なんかないくらい目いっぱい走っていても、隙を見て邪念が入り込んでくる。
他のみんなの……生き死にについて。
あの人が……ユーリが前の世界にいた時のお母様が投げつけてきた言葉が、鮮明に蘇る。
アニンと、シィスさん……
あの人は"殺した"と口にしていたし、ユーリもそれを信じていたみたいだけど……果たして本当にそうだろうか。
根拠はないけれど、ジェリーと同じように、実はまだ生きているんじゃないかって、信じてみてもいいと思う。
ただし、深く考えないがための現実逃避に過ぎないと誰かに言われれば、否定はできない。
細かく分析しようとしてしまえば、わたしはきっと動きを鈍らせてしまう。
どちらにしても、今わたしのするべきことは、まずはジェリーを探して、保護すること。
もっと、もっと急がないと。
道順は全て覚えている。
引き返すには、そのまま逆を辿っていけばいい。
この十字路を右に曲がって、あの階段を下りれば……
ここまでは無事に戻ってこられた。
ユーリやジェリーといっしょに戦った、巨大な悪魔……魔王がいた場所。
激しい戦いの傷痕を刻んだままの、見たこともないおかしなモノがたくさん置かれていた、広い部屋。
悪魔の死体もそのまま残っていたけど、動き出すものは誰もいないみたいだ。
立ち止まってる場合じゃない。
早く出よう。
足に力を入れ直して、再び駆け出そうとした時だった。
火山が噴火するように、前方の床が爆発した。
また、あの2人の攻撃の余波が?
それとも悪魔が?
ううん……違う!
「み~つけた」
粘り気のある声と共に、開けられた穴から姿を現したのは……ユーリの、お母様だった。
「ウロチョロしやがって、こっちは疲れてるってのに、手間かけさせんなよな。あ~だりぃ」
確かに、傷こそないものの、相手は息を切らしていて、顔色も良くない。
もう服というより、散々使い倒した雑巾のようになっている布を、止めどなく流れる脂汗で貼り付けているような状態だ。
でも……この人がここに現れたということは、ユーリは……どうしたの?
2人で戦っていたんじゃ……
灯りかけた幾つかの疑問は全て、思考ごと吹き飛ばされてしまった。
「クソ重たくてめんどくさかったけど、あんたのためにお土産を持ってきたのよ。はい、まずはこれ」
そう、醜怪極まりない悪意によって。
……あの人が、両手に持ってるものは……なに?
金属的な硬い、乾いた高音が鳴る。
相手が私の前に放り投げてきたものは……ユーリがいつも背負っていた、大包丁。
正確には、その残骸。
刀身の半分から先ぐらいがぽっきりと折れていて、刺突には使えなくなっていた。
もうこの時点で、立っていられなさそうだった。
認識できないというより、認識したくないと表現した方が正しい。
目の前の相手から顔を背け、目を閉じてしまいそうだった。
でも、できずにいた。
「それと、もう1個」
や、やめて……見せないで。
声に出せないまま、手ばかりが溺れた時のように空を切る。
でも、いくら懇願したところで、この相手がやめるはずもない。
「……こっちは、あんたのだ~いすきな悠里ちゃんよ!」
「……ひっ!」
想像する間もなく、もう片方の腕で投げ捨ててきたのは……
……変わり果ててしまった、彼の……
「感謝しなさいよ。ちゃんと再会させてあげたんだから。嬉しいでしょ? ねえ嬉しいでしょ? キャハハハハ!」
「……うっ」
「あっははは! すっげえいい顔! すっげえいいゲロ! グッチャグチャにしてやった甲斐があったわ~!」
そんな……そんな……
「ウソ……でしょ? 偽者なんでしょ? だって、あなたがそんなボロボロになるはずないじゃない! すぐに治せるグリーンライトがあるじゃない!
あなたが……死ぬはず、ないじゃない……」
「もしもぉ~し? 話しかけてもダメよぉ~? 悠里ちゃんはもう死んでるのよ~? 見て分かんなぁい? 手足は減らしたしぃ、お腹の中はカラッポだしぃ、頭の所もカットしちゃってるでしょぉ?
これがほんとのダイエット、カロリーオフってやつ? ギャハハハ! 私上手い! 上手いこと言っちゃった!」
……いや。
もう……いや。
みんな……みんな死んで……ユーリまで……
体に力が入らない。
お腹の中が、頭の中が、熱した鉄棒を押し入れられて無理矢理かき回されたみたいにおかしい。
吐くのが止められない。
涙が止まらない。
そんな……あれが……最後のお別れなんて……
「だ~いじょぶよぉ? あんたもすぐあの世に送ってやるからさぁ。あ、でも転生しちゃったら離れ離れになっちゃうかもねぇ?」
おかしい。
もう、心も体も、完全に折れてしまっているはずなのに。
この力強いものは、何なんだろう。
体の奥の奥から、心の底の底から、体液とは違う熱いものが湧き上がってくる。
どんなに汚くてもいい、みっともなくてもいい、立ち上がれと、抗いがたい強制力で命令してくる。
これは……怒り?
大好きな人や、友人を殺され、侮辱された怒り。
母親の務めをまるで果たそうとしないことへの怒り。
でも、それだけじゃない。
純粋な怒りじゃなくて、もっと別の気持ちも混ざっている。
自分で言葉にするのは恥ずかしいけど、もっと誇り高い概念。
ここでわたしまでもが倒れたら、世界が大変なことになってしまう。
あの人が第2のスール=ストレングになるのは火を見るよりも明らか。
そんなことを、させる訳にはいかない。
ユーリたちが必死に救おうとした世界を、世界に生きる人たちを、この人の好き勝手になんかさせてはいけない。
わたしが……ユーリの意志を継いで、ヒーローになる!
「お? 何だよその反抗的な目つきは」
「……悪かったわね。わたしは生まれつき、こういう目つきなのよ」
今までの自分だったら、怖い相手にこんなことを感じも、言いもしなかっただろう。
弱さに押し潰されたまま、泣き崩れ、吐くものを吐き散らして、黙って殺されていたと思う。
わたしがここまで変われたのは、みんなのおかげ。
大切な人たちが、わたしを強くしてくれた。
いい格好をしたいからじゃない。
ユーリのやってきたことを、無駄にしたくないから。
ミスティラやアニン、シィスさんたちと、肩を並べる存在でありたいから。
「随分強気じゃねえの。私とやろうってのかよ」
だから……
「そうだって言ったら、どうするのよ」
わたしは、戦う!
あの人が、ユーリのお母様であろうと、関係ない。
ううん、実の子にあんなことをするような人を、わたしは認めない!