89話『大悪魔に挑むものたち』 その4
わずかずつではあるが、皇帝は確実に、大悪魔を追い詰めていた。
しかし、このまま順調に戦いが終わるなどとは、到底思えなかった。
皇帝もまた同様の思いを抱いているから、決して手を緩めていないのだろう。
「――途切れなき律動、途切れる生命の灯、眠りの床、目覚めなき青の夢、太古の再現、生命の始まりにして終わり、忘れられた地相、"停滞山脈"!」
魔力の衰えなど一切感じさせず、皇帝は再び最上級魔法を放ち、海上に巨大な氷山を生み出し、大悪魔を貫きながらその中へと閉じ込めた。
その時だった。
ひとときの静けさを取り戻した夜の海に、再び音が鳴り始める。
キコキコ、キシキシと、軋むような音。
正体も、原因も、考えるまでもなく理解できた。
炸裂音と共に、氷山を切り裂いて大悪魔が飛び出す。
ここまでは予想の範疇。
予想外だったのは、その後。
大悪魔を象る人型が、不気味な音を立てながら崩れていく。
ついに回復が追い付かないほどの致命傷を負わせたのだろうか。
……いや、違う。
正確には……己の意志で変形している?
手足が縮み、胴体が伸びていき……
「……!?」
人型から、異形の怪物へと変わっていく!
あの姿は……一体!?
伝承にも残っていない!
どの魔物にも当てはまらない姿……
強いて喩えるならば、蛇の胴体に蜥蜴の尾、馬のような首の先には深海魚のような顔と、様々な生物の特徴が表れている。
大悪魔・ミーボルートの持つ特徴として伝えられているのは、自己修復能力と無限の炎を生み出す力。
まさか、このような特性まで隠し持っていたなんて……
「来るぞッ!」
皇帝の声が響いた瞬間、大悪魔の姿が消えた。
先程までとは比較にならないほどの速さ――そう感じたのと同時に、鈍い衝撃音。
大悪魔の体当たりを直撃した皇帝が、水平線の彼方へと吹き飛ばされていた。
何という威力――そう感じたのと同時に、視界が真っ赤に染まる。
こちらへ向き直った大悪魔が、大小不揃いの牙を剥き出しにした口から、炎を吐き出していた。
今までにないほどの、凄まじい炎……!
ギャスコで受け止め……
「……ああっ!」
……受け止め、切れない!?
1つ、2つと刀身にヒビが入ったかと思うと、たちまちギャスコが……
「離脱しろ!」
皇帝の声と、咄嗟に盾として差し込んでくれた船の英霊がなければ、私は焼き尽くされていたでしょう。
すんでの所で、雲車を起動させてその場を離脱できた。
しかし、エピア様の振るいし魔具の片方を、このような形で失ってしまうとは……申し訳が立たない……
「申し訳ありません皇帝陛下。お陰様で助かりました」
「寿命がほんの僅か、伸びただけかも知れんがな」
復帰していた皇帝の姿は、痛々しく損傷していた。
全身を覆っていた漆黒の甲冑の腹部装甲が砕け、青紫色に染まった皮膚を露出していた。
つい先程の打撃だけが原因には見えなかった。
……まさか、甲冑を身につけた"代償"だろうか
「今のミーボルートは、我々の実力を大きく上回っている」
私の視線を無視して、皇帝は淡々と述べる。
皇帝が呼び出した英霊が、瞬く間に蹴散らされていくのも、それを裏付けていた。
海水による防御壁も、今の大悪魔にとっては紙に等しい。
気休めにさえならない。
だからと言って海中に逃げ込んでしまえば、大悪魔はこの場を離れ、再び世界各地に大破壊をもたらしにかかるだろう。
それだけは何としても避けなければならなかった。
「最早我々の手に負える相手ではなくなった」
皇帝の言葉の意図は、すぐに理解できた。
口惜しさが込み上げてくる。
自分の覚悟を踏みにじられたことに対してではない。
そのようなものを持ち合わせているほど、私は自尊心が高くない。
また問題の先送りを……同じことを繰り返さなければならない――
すなわち、再度"絶界の深淵"を用いて、大悪魔・ミーボルートを海の底へ封じなければならない。
残された同胞たちに、また潜在的な恐怖を植え付けなければならなくなるのか。
「致し方無きこと。我々に力が無いのが悪い」
皇帝は、にべもなく言った。
続けて、何の感情も乗せず、淡々と、
「私が時間を稼ぐ。貴女は"絶界の深淵"の発動に専念せよ。そして準備が整い次第、私もろともで構わぬ、放て。
我が立場、一切考慮する必要は無い。弱肉強食、必要とあらば誰であろうと何であろうと、勝者の為の糧となるが摂理。それは私も例外ではない」
次善の策を告げた。
……もう、選択の余地はない。
「……承知しました。先の緊急回避で多少失ってしまったとはいえ、既に我が内にて必要な魔力はほとんど充填してあります。もう暫し、私に攻撃が届かぬよう、お願い致します」
「任せるがいい」
言うが早く、皇帝は再び"英霊再臨"を用いて、時間稼ぎを始めた。
洋の民のみに開かれ、海巫女のみに許される秘伝の魔法――"絶界の深淵"を用いるにあたり、最も必要とされるものは……魔力そのものではなく、海巫女たる己の命。
命そのものを魔力に溶け込ませる。
魔力を、命に見立てる。
英霊たちが次々と撃破されていくのを、皇帝が魔法で嵐を引き起こすのを、虚ろに認識しながら、己の精神を海と一体化させていく。
強大な力を持つさしもの皇帝も、流石に限界が近付いているのだろう。
飛行速度は目に見えて落ち、打撃や炎を受けて甲冑はほぼ大破状態になっていた。
しかし、皇帝を取り巻く負の感情の力は、更に強まっているように感じられた。
「心無き大悪魔よ。貴様に見えるか、聞こえるか、この怨嗟の声が。怨恨渦巻く大嵐が!」
そんな皇帝の呼びかけに呼応して、今まで周囲に留まっていただけの念が、一気に解放された。
「認識出来るか否か、そこは問題ではない。ただ動くな、そして海巫女に抱かれ、再び永き眠りに就け!」
皇帝の肉体が、漆黒の霧に覆われ、
「行いは巡り巡って跳ね返る……これも摂理か……」
瞬く間に白骨化し、海中に没していった。
あれは既に抜け殻。
皇帝の現在の本体は……
あの、大悪魔を包み込んでいる、色も形もない、無風の、熱くも冷たくもない、無数の怨念。
魔法の発動準備に入る前だったなら、あれを目にしただけで恐怖心に身を竦ませ、下手をすれば正気を欠いてすらいただろう。
それほどに強烈な波動を、そして"縛鎖の呪符"数百枚にも匹敵するような、圧倒的な拘束力を有していた。
さしもの強大な大悪魔も、海上で身を捩らせることすら出来ずにいた。
「よくぞやって下さいました、ジャージア=キンダック皇帝陛下。貴方様のお働き、例え歴史や人々の記憶に残されずとも、海の意志が永久に覚えておりましょう」
発動させるは……今。
「共に堕ちましょう。閉ざされましょう」
全てから隔絶された深き海の牢獄を象徴するかのように、"絶界の深淵"に詠唱はない。
加えて、海巫女でありさえすれば、発動自体もさほど難しいものではない。
まるで、いつでも生贄になれるかのように。
「さようなら」
――"絶界の深淵"。
視界が、消失した。
闇。
何も見えない。
意識が徐々に水と化して、薄らいでいく……
時間の感覚が、消えていく……
過去と未来と現在が、同一化していく……
それでも、大悪魔を、この虚無の牢獄へと閉じ込めるのに成功したのは知覚できた。
良かった。
海巫女として最低限の役目は果たせた。
褒めて下さいますか、あなた……
…………!?
…………そんな……
ミーボルートは、ここまで……
ああ、皇帝が遺した呪縛を振り解き……
この、"絶界の深淵"まで……
我々が全てを賭した成果まで打ち砕かれたというのに、もはや深い絶望さえ喚起できないほど、私は私を失いつつあった。
失敗したにも関わらず、安らぎばかりが込み上げてくる。
海の意志への同化だけに起因するものではない。
わずかな自我が、ようやく逝けると、考えてしまっている。
夫の向かった場所へ、私も向かえる。
私は、海巫女失格だ。
海から遠ざかっていく大悪魔。
お前は、どこへ向かおうとしている。
まだ、破壊を、殺戮を繰り返すというの?
忘れないで。
世界は、私のように惰弱ではない。
我が存在が大海原となろうとも、希望は……まだ残されている。
ミスティラさん……もう1人の、巫女……
申し訳ありません……
異形の姿から引き戻すことはでき、無限の力の源も断てはしましたが……
私は、ここまでです……
後を……どうか、頼みます……
私の代わりに……大悪魔を……