89話『大悪魔に挑むものたち』 その3
あなたを喪って以来、私の心には虚無が棲み続けています。
洋の民でないことなど関係なく、心から愛していたあなた。
あなたの魂は今、この大海に、或いはこの空に偏在しているのでしょうか。
いつまでも引きずっている私を、どうかお許し下さい。
そして……ユーリさん。
川を漂う落葉同士が触れ合うような、ほんのわずかな関わりだったというのに、あなたに夫の影を重ねてしまい、申し訳ありません。
あなたを惑わせてしまい、申し訳ありません。
……でも、もし夫との間に子をなしていたなら、きっとあなたのような素敵な……
いけない、これ以上は。
今の私は、ミネラータの海巫女。
全てを海に捧げしもの。
大悪魔・ミーボルートを討つもの。
役目を全うする覚悟はとうにできている。
後悔はない。
恐怖も、さほどない。
こうして夜の海を独り寄る辺なく漂っているのと等しく、むしろ安堵感の方が勝っているかもしれない。
大義名分の下に命を落とせるのならば、と……
不埒な思いを抱きながら、私は今も、大悪魔・ミーボルートを探し続けている。
洋の民に備わる性質として、"海の意志"と同調できる力がある。
海の意志とは、世界中の海そのもの。
無限大に等しき水量に宿りし無数の魂、世界そのもの。
我々洋の民が肉体を持って生まれる前の源であり、命尽きた後に還っていく場所。
その根源と繋がることで、私達は海にまつわるあらゆる情報を把握できる。
更に海巫女に選ばれると、その範囲は世界中へと……
ミスティラさんと別れて以後、ずっと大悪魔の行方を探し続けてはいるが、中々探知できずにいた。
一体、いかなる手段を用いて探知から逃れているのか。
考えても仕方がない。
ただ凪のように心を鎮め、沈め、研ぎ澄ませ、波動の揺らぎを探し続けるのみ。
…………。
…………。
…………。
私の気質として元来備わっていた執念深さというか、淡々と一念に引きずられる性質が、この時ほど役に立ったと思ったことはない。
頭の中に投影されていた世界の海、そのほんの一部、一滴に過ぎないような場所に生じた、わずかな揺らぎ。
……いた!
しかも……私が今いる場所のすぐ近く?
フラセースのある大陸からそう遠くない、西の海……
"影"が不鮮明すぎてよく分からないけど、また聖都か四大聖地を攻撃したのだろうか。
理由はどうあれ、これはまたとない好機!
「アブラハネの杖よ……雲車を成せ……大悪魔の下へと疾駆せよ」
雲車をもって全速力で向かえば、すぐに発見地点まで向かえる。
加えて……
「海の意志よ、我々の大いなる母にして父よ、大悪魔を鎖す檻をお貸し下さい」
海の意志と同調すれば、魔法を行使せずとも、遠隔で波濤を引き起こす程度は容易。
更に、局地的であれば海水の性質を変化させることも可能。
私が到着するまでの間、粘性を増した海水によって、動きを封じられれば……
ミスティラさんが不在でも……私独りでも、事ここに至っては戦うより道は無し!
大悪魔・ミーボルートは、未だ波濤の檻に閉じ込められたままだった。
しかし、大人しくしているはずもなく……
水の檻の内で赤熱しているのが、夜の海に映え……不気味であるのと同じくらい、美しいとさえ感じてしまった。
そして、これほど接近したことでよく分かる。
フラセースに住まう人間や竜たちの反撃に遭ったのか、大分弱体化していることが。
しかしそれでも、以前ミネラータを襲撃した時よりも強大な力を有している。
やはり極めて危険な存在……しかし援軍を呼ぶ猶予はない。
それに同胞を呼び寄せた所で、犠牲が増えるだけだろう。あの時のように。
「…………!」
改めて独り戦う覚悟を固めていると、ミーボルートを覆い包んだ海水が、全てを吹き飛ばし、破壊する爆風へと化した。
当然、私にも襲いかかってくるが、展開していた水の防御膜が全てを掃ってくれる。
「大悪魔・ミーボルート……お前は何を思い、何を感じ、大量破壊、大量殺戮を繰り返すのですか」
煙る視界の先に映る、赤色を纏った漆黒の影に問いかけてみても、返答はなし。
それどころか、右腕から炎を放ってくる始末。
「やはり、人の心を、言葉を、持たぬ存在と言うのですか」
かつてエピア様も振るいし魔具、火喰いの剣・ギャスコを持ってすれば、大悪魔の炎と言えど、無効化するなど造作もないこと。
「なれば……永劫の眠りに沈みなさい!」
更に、この剣ならば、熱や炎の防御を断ち、一閃見舞うことも可能。
そう、もう"絶界の深淵"による再封印など考えてはいけない。
それは問題の先延ばしにしかならない。
命が惜しいからではない。
私の命など、いくらでも差し出す。
命を差し出してでも、ここで大悪魔を討つ!
――――!
その時、海の意志が、新たな強い揺らぎを私の脳内に告げた。
凄まじい速度で、何かがこちらへ接近している。
答えを探す間もなく、フラセースのある東の方角から、夜の闇よりも暗い色と、一瞬大悪魔と誤認しかねない造形をしたモノが、空気を切り裂いて突如現れた。
不可思議な存在だった。
全身をくまなく覆った甲冑からは数多の怨念が放たれているが、その内側からは私に対する敵意、殺意は感じない。
敵対する意志はないと見て差し支えないだろう。
「貴女は洋の民か。アブラハネの杖と火喰いの剣・ギャスコを手にしている所から、海巫女と見受けたが」
正体を捉えあぐねていると、くぐもった声で、先に男が話しかけてきた。
音色の揺らぎから、花精や地祖人ではなく、人間だということが分かった。
「はい。この2つの魔具の意志により、若輩ながら海巫女の役目を仰せつかりました、フェリエと申します」
「ふむ。私はロト……いや、ジャージア=キンダック。ツァイ帝国の皇帝だ」
「皇帝、陛下」
「畏まる必要はない。礼に拘っているような状況でもあるまい」
仰る通り、この会話は、大悪魔の猛攻をお互いいなしながら行っている。
「私も独自にミーボルートの追跡を行っていたのだが、まさかこのような形で援軍を得られるとはな」
皇帝の方も、私と同じような思考を辿っていたようだ。
他に兵を引き連れてはいない所も、その証左といえる。
「ツァイとミネラータの国家関係、今は置いておくとしよう。我々が今成すべきは」
「大悪魔の打倒、ですね。お力添え、深く感謝致します、皇帝陛下」
伝わってくる力の波動から、援軍としては申し分ない存在だと、すぐに理解できた。
「貴様も帝都と同じく、塩と変えてやりたい所だが」
ツァイの帝都・ペンバンが"顧みる罰と顧みぬ罪"の魔法によって、前皇帝もろとも全て塩と化した情報は耳にしている。
しかし今再びあの魔法をこの場で再現するには、色々と不足があるはず……
「――物言わぬ歴程、雄弁なる瞬きの綺羅、幾星霜を経て、再び顕現し、権勢を振るえ、"英霊再臨"」
皇帝が代わりに発動させたのは、夜空を条件とした強大な魔法。
"英霊再臨"……まさか上級魔法さえも初級のように素早く、容易く発動させてしまうとは。
しかもこれほどの数……
人馬一体となった騎士や、32の目を持つ巨人、大砲を据えた空飛ぶ船が次々具現化されていく。
いずれも夜空に輝く星々の配置と伝承を結びつけた古の英霊たち。
それらが実体を持ち、次々と大悪魔への攻撃を開始した。
大悪魔も高い機動力と火力をもって応戦し、瞬く間に海上が、大戦場へと変わる。
恐らく皇帝が飛行しているのは風系統の魔法、"解放の羽化"によるものだろう。
2つの魔法を使用し続けながら、皇帝自身もまた重ねて強大な魔法を次々と繰り出していた。
私も支援に回るべきか……
「我がソバコンワの鎧、貴腐血統の前に防衛は無用。御身を守るがよろしかろう」
皇帝の言は虚勢ではないようだ。
大悪魔の放つ爆炎に飲み込まれても、炎を収束した刃に切り裂かれても、まるで意に介していない。
あらゆる毒を弾き、瞬く間に傷を塞ぐ……ツァイ皇家に代々伝わる貴腐血統のことは、私も知っている。
皇帝はそれと、身に纏っているソバコンワの鎧なるものを利用し、不死性を活かして持久戦に持ち込もうとしているようだ。
「来たれ蒼の涯より、唸れ白の飛沫より、駛走するは"蒼鳴りの剣"!」
更には攻撃にも転じている。
海風を纏った巨大な風の刃が、大悪魔の片足を切り裂いた。
……強い。
弱肉強食の掟で一国を統べる王とはいえ、たった1人でここまでかの大悪魔を追い込めるとは。
これでは、私の出る幕は……
いや、ある。
海巫女として忘れてはならない、重大な仕事が。
その時に備えて、魔力を高めることに専念しなければ。