89話『大悪魔に挑むものたち』 その2
「……御無事ですか、御老人」
「せ、聖騎士様……お体は」
「私のことは心配要りません。この程度、訓練では日常茶飯事です。さあ、早くこの場をお離れなさい」
嘘をつくのは少しばかり気が引けたが、この場合は許される嘘であろう。
とりあえず、老人を救助できて本当に良かった。
……しかし、この負傷では戦いの足手まといになってしまうか。
背面の火傷はともかく、瓦礫がぶつかり、突き刺さった影響で左目が塞がり、右脚も折れてしまったようだ。
仕方あるまい、一旦回復を行って……
「……!」
奴にとっては優先的に私を始末したい訳ではなく、たまたま着地した場所がここであったというだけの話なのであろうが、私にとっては最悪の展開だった。
あろうことか、先程まで空にいたはずの大悪魔が、私の目の前に降り立ったのだ。
もっと悪いことに、大悪魔の次なる標的は、私に定められたようだ。
兜の隙間から覗く赤い双眸が、不気味に点滅していた。
この世界に生を受けてから十数年、これほど明確に"死"を突きつけられ、意識した瞬間があっただろうか。
これまで体験してきた訓練、実戦の中に潜んでいたものを遥かに超越する、圧倒的な重厚さ。
問答無用の終わり。
どうする?
怖い。
私は、ここで死ぬのか。
父上、母上、兄上、先立つ不孝をお許し下さい。
あの大悪魔を取り巻いている、忌まわしげに揺らめく炎に焼かれ、私は……
……待て。
この程度か?
死の直前は、生誕から現在までに連なる無数の思い出が瞬間的に想起され、流れていく体験をすると聞いたが……そのような現象、全く起こらぬではないか。
むしろやたらと静かで、落ち着いているではないか。
おまけにやたら長々とこのように思考できているではないか。
本当に怖いのか?
怖いのは、大悪魔か?
力を出し切らず、何も出来ずに死にゆくことの方が、よほど怖くはないか?
……ならば、何をすればいい?
……決まっている。
前へ出ろ。
前へ出るのだ。
命ある限り、前へ!
恐れるな!
「……うおおおおっ!」
魔法やウォルドー式剣術を練り上げる猶予は無い。
間合いを詰める脚も無い。
出来ることは……我が剣・ラギオルに全てを賭け、"気"だけを注ぎ込み――貫くのみ!
どこを狙う?
どこを狙えば、奴を……
あそこだ、仲間が抉り、自己修復が始まっている、右の肩口だ!
片目で上手く照準、距離感が掴めなかろうと関係ない。
貫く!
何千何万と繰り返した突きを、修練で養った己の感覚と技術を信じろ!
行け!
「……よし!」
剣先から放った鋭き気の奔流が、寸分違わず標的を突き刺し、小爆発を引き起こした。
そして、薄く滲み、明瞭さを欠き始めた視界が、わずかながら大悪魔がその身を揺すらせたのを、確かに映した。
――ここが、瀬戸際!
気を込め直せ。
もう一度、貫け。
全てを込めろ。
「……ぐっ!」
敵もまた、反撃を試みてくる。
放たれる火の玉が体を焼く。
怯むな。
痛みを忘れろ。
再生が追い付かないくらい、疾く……強く、何度も、何度も!
「……ウォルドー従騎士を援護しろ!」
遠くで微かに聞こえる声。
こちらの手を止めるような強大な攻撃が来ないのは、仲間たちのお陰のようだ。
有難い、助かります。
一閃見舞う度、命が削られていくのが自覚できた。
五感がどんどん鈍くなっていく。
構わぬ。
それでも……私は…………命ある、限り…………
……む?
大悪魔の、手が……大砲のように、変形した?
いかん……あれは、極めて危険だ。
何とかしなければ……
しかし、もうほとんど、気力が……
右腕の感覚も、もう……
かくなる上は、この……ラギオルを……
「…………はっ!?」
どういうことだ。
先程まで大悪魔と対峙していたというのに、何故私は横たわって、布製の天井を見上げている?
しかも、頭の中は平時の通り明晰で、しっかり思考もできる。
……そうか、私は、まだ生きているのか。
周囲の状況を認識していくと、我が頭脳は次々と答えを算出していく。
ここは、騎士団が市街地に作った天幕の中だ。
隙間から覗き見える様子からして……ラファエ区か。
こうして傷の治療を施された上で寝かされていたということは……当面の危難は去ったと見ていいのだろう。
となると、これ以上のんびり眠っている暇は無い。
「む」
我が愛剣・ラギオルがどこにも見当たらぬ。
外に置きっ放しになっているのだろうか。後で回収せねば。
「おお、ウォルドー従騎士! 目を覚ましたか!」
天幕の外へ出るなり、すぐ近くにいた同じ聖騎士団の先輩が、弾んだ声をあげた。
いつもは厳しい方だというのに、この時はやけに優しげに見えた。
「はい。申し訳ありません、戦いの最中に意識を失うなど……」
「何を言う。お前のお陰で、あの大悪魔を退けられたというのに」
「退けた……?」
「なんだ、覚えていないのか」
先輩から伺った話によると、どうやら私が投げつけたラギオルが上手い具合に大悪魔に突き刺さり、それによる負傷が原因で大悪魔は空の彼方へ撤退していったらしい。
ラギオルが手元に無かったのはそれが原因か。
正直、意識を失う直前の記憶はほとんど残っていなかった。
「我々が束になっても成し得なかったことを、まさか半人前のお前が独力で成すとはな。本当に良くやったぞ。もう半人前扱いは出来ぬな」
「いえ、運が良かっただけかと。ただ無我夢中でした。『せめて勇ましく前に出て死ぬ』と……」
謙遜ではない。本心からそう思っていた。
それに、仕留められなかった以上、果たして任務を達成したと言えるだろうか。
私がもっと攻撃を継続できていたならば……
「あの」
ふと、遠慮がちな声がした方向を見ると、先刻救助した老人たちが立っていた。
傍にいる若い男女たちは、御家族だろうか。
「どうしてもお前に礼を言いたいと仰っていた方々だ」
「ラレット様、本当にありがとうございました」
「お陰様で、こうやって無事に父が助かりました」
「何とお礼を申し上げればいいか……」
「……いえ、聖都、聖竜、聖国民の三聖に仕える聖騎士として、当然の役目を果たしただけのこと。むしろ被害を食い止められず、申し訳……」
「馬鹿者」
そこまで口にした所で、先輩に頭を叩かれた。
数瞬遅れて、その意図を理解する。
「……先の発言、後半部分はお忘れ下さい。代わりにこれからも皆様の為、粉骨砕身、尽くして参ります。皆様から頂戴したお言葉、任務にあたり誠に励みになります。ありがとうございます」
そうだ、壊滅だけは免れることができた。
救えなかった民もいたが、このように救えた民もいる。
結果を粛々と受け入れ、次はもっと適切な対応が取れるよう、来襲に備えなければならぬ。
「堅苦しいな。万事そのように振る舞えば良いというものではない。それではまだまだ半人前だぞ」
厳しい先輩のそのような物言いを耳にして、ユーリ=ウォーニーも仮にこの場にいたら同じようなことを言うのではないかと私は思った。