83話『アニン、雑音の剣を振るう』 その1
ユーリ殿と離れても、我が剣が鈍り、致命的な遅れを取ることはなかった。
いや、むしろ迅さも、鋭さも増しているように感ぜられる。
なのに、物足りなさがずっと続いている。
重要な一つを欠いているようだった。
「――"天上秘幻"、新たなる剣を用いながら、よう完全に己の物とした」
「師には感謝の言葉もありませぬ」
「儂は何もしとらんぞい」
ユーリ殿から離れた私はひとまず、ラフィネにある地租人の工房で剣をもう一度新しく鍛え直してもらい、その後はツァイのとある山奥で隠遁生活を送り続けている師の下へと戻り、再度己を見つめ直していた。
老いてなお温厚篤実の師は、物腰柔らかに私を迎え入れてはくれたものの、稽古をつけてくれることはなかった。
「新たなる剣と技、己自身で鍛え直せい」
それを無責任となじれるほど、私は他力本願ではないと思っている。
そもそも、幼き頃からそうだ。
教えを頂いたのは型や、己を巡る気を知る方法など最低限の手ほどきだけで、後は弟子自身で勝手に学びを深めさせる。
それが、我が師の方針だった。
私がやっていたことも、あの時とほとんど変わらなかった。
木々、緑の空気、滝、土、枯葉、鳥の囀り、獣の遠吠え、空、雨、星、太陽、雲……
この秘境を構成する全てに、目を、鼻を、耳を、肌を預けながら剣を振り……
気を練り上げ……
技を確かめ……
体や、剣との声無き対話を繰り返す。
師の方針にも、数え切れぬほど繰り返してきた基礎的な修行にも、不満は無い。
むしろ楽しいし、自分にも合っているやり方だと思う。
賭博のように射幸心を煽られたり、戦闘のように興奮を伴うものとは趣を異にした、静かな喜びが心地良い。
時には笑みさえ漏らしてしまうほどに。
初めて行うかのように、飽きることなく、いつまでも繰り返せる。
そのような姿勢でいた方が効果も覿面であることを、私は知っている。
もっとも、上手く行くから楽しい、という訳でもないのだが。
さほどの時間もかからず、新しい剣を手足の一部のように、以前の剣と同じように扱え、ササ流奥義"天上秘幻"を含めて、技を思い出させることができた。
奥義と言えば、結局、ユーリ殿に正体を話しそびれたまま別れてしまったな。
師に口止めされていたでもなく、そこまで勿体付けるようなものでも無かったのだが、討つべき仇のことで頭が一杯になっていた余り、つい尋ねられても秘匿してしまっていた。
奥義・天上秘幻の正体とは――
一切の予備動作なく剣を繰り出すと同時に、極限まで研ぎ澄ませた気によってほんの一瞬、剣の実体そのものを消し、回避も防御も無効にする、といったもの。
幻覚の類ではなく本当に剣を消してしまうため、他者からすれば、過程が抜け落ちた、極めて不自然で不可解な剣撃にしか見えないだろう。
また、消す拍子を細かく変えることでより謎を深め、更には正体を見極められても防御を困難にさせられもする。
奥義と言ってもこの程度のもので、魔法が起こすような大々的な力に比べれば可愛いものだ。
惜しまず話してやるべきだったかもしれない。
すまぬ、ユーリ殿。
……貴殿は今、何をしている?
想い合うタルテ殿と、上手くやれているか?
あの御両人のこと、手を繋ぐ程度のことで満足してしまっているかも知れぬ。
良い年頃の男女が、純真無垢なことだ。
と言うより、焦れったい……
おっと、これ以上は私が踏み込むべき領分ではないな。
全ては過ぎ去った過去の出来事。
想像上の現在。
御両人の仲や過程が如何なものであれ、私にはもう関係はなく、どうしようもない。
私のすることは、己の剣をより鋭く、強くしなやかに磨き、鍛え抜くのみ。
それを真っ先に振るいたかった相手――母を無残なモノへと変貌させたスール=ストレングは空、或いは海の藻屑となり、父を討ち破ったカオヤ=キンダック皇帝は息子の魔法で塩と化してしまったが……
それでも、修行を止めなどしない。
私は、剣が好きなのだから。
好き。
……好き、か。
違和感。
おかしい。
何故かずっと、心の一番奥の方がざわついている。
静かな、しかし確実に存在を主張する雑音が鳴り止まない。
どうしてこんなにも、他人のことが気にかかっている?
父母や弟を喪った時と似ている、この感覚。
あの時ほど痛みも悲しみも激しくはないが……
振り払おうとすればするほど、かえって色濃く立ち込めることは理解している。
ゆえにそっとそのままにしているのだが、そうしていても収まる気配がない。
良くないのは、その雑音が、剣にわずかな綻びを生じさせてしまっていることだ。
無意識下で握りに力みや、剣筋に歪みなどを起こしてしまっている。
大勢には影響はない。
仮に今の状態で仕合ったとて、大抵の相手に後れを取りはしないだろう。
しかし強敵相手では確実に命取りとなる誤差。
何より、剣を極めようとする上では絶対に見過ごしてはならない。
私としてはそちらの方が遥かに大きな問題だ。
しかし、中々上手く修正や消去ができない。
いくら夢中に剣を振るっても、滝に打たれ無心に至ろうとしても、思い出してしまうのだ。
最後の一手を詰められぬまま、今日に至っている。
「――苦心しておるようじゃな」
人の母からではなく、まるでそこが生まれながらの居場所だったのではと錯覚してしまうほど、日がな一日滝の前で石像の如く坐していた師が突然に、正確に射抜いてきたものだから、
「……仰る通りです」
思わず返答に間を置いてしまった。
的確に言い当てられたとなれば、尚更だ。
尋ねてきたにも関わらず、師は、続きを口にされなかった。
伸びきった眉毛の奥に押し込められた、開いているのか定かではない双眸を覗き込んでみたが、曇った鏡にそうしたのと同様な心持ちになるだけだった。
いつものことだが、解せない部分をお持ちな方だ。
しかし、最後にお会いした時と比較して、未だ衰えを見せていないことは、時折傍らの剣を撫でる程度の些細な所作からも、嫌というほど伝わってくる。
師は、微動だにせず坐していても、剣だけはしっかりと傍らに置いていた。
「……良く育っておるの」
「は?」
「特に乳の張りや、尻の膨らみが、こう……」
「御冗談を」
こちらの方も、全く衰える様子がない。
とはいえ、このような発言さえも、溢れんばかりの生命力の表明たらんと解釈してしまうのは弟子の甘さだろうか。
師は、圧倒的に強いままだ。
今の、心技体漲った自分でも勝てるかどうか……
いや、或いは一太刀……
「ならば手合わせしてみるか。試してみてもよかろう」
またも正確にこちらの心中を射抜きつつ、音も無く立ち上がる師の動きに、声に、不覚にも一瞬言葉を失ってしまった。
幾ら頼んでみても軽くあしらわれ、悪戯に闘気を飛ばして誘ってみても無視されるばかりだったというのに、今この時になってどのような風の吹き回しだろうか。
「早よせい。儂の気が変わってしまうぞい」
「はっ、胸を借りさせてもらいます」
「むしろ儂に貸してくれぬか。一度くらいぱふぱふっとさせてくれぬかのう」
「……私を打ち負かした後、お好きになさればよろしいでしょう」
自棄で言ったのではない。
己を追い込むためだ。
折角の機会、互いに全力で当たらねば勿体無い。
師は、にやりと笑って跳躍し……空中で一回転、張り出した岩場の先端、極めて不安定な足場に着地した。
背中を一筋、冷たい汗が伝う。
だが、そうこなくては。
私もまた、自然と笑ってしまっていた。
最後になるかも知れぬ、真剣での師との手合わせ、存分に楽しむとしよう。
力強く、絶え間なく水を迸らせる雄大な滝を背負う師の小さな老体を、余さず目に収める。
そこからほんの微か滲み出る気を、漏らさず肌に感じる。
師は、ほとんど下ろしているに等しいくらいに脱力した、下段の構えを取っている。
対して私は、上段の構えを取る。
『構えそのものに深い意味はない。囚われるでない』
幼き頃、師に叩き込まれた言葉を思い出す。
その通りだと、この時改めて認識する。
水鏡の如き、まるで己の姿を全て見透かされているような立ち振る舞い。
一切の隙がない――どうしたものか。
昔は打ち込めばかわされ、止められ、待っていれば先を取られて打ち込まれるで、どうしようもなかった。
おっと、考えすぎるな。
思考に囚われすぎるもまた、構えに囚われすぎるに等しい。
知らず知らず、硬くなりがちだった肩や肚を緩めたのと同時に、眼前の師が消失し、滝のみが残った。