82話『ミスティラ、苦く、甘く、熱く、虚ろな想い』 その3
人の決意とは、人外から嘲笑われねばならない決まりでも存在するのでしょうか。
スール=ストレングの声が響いた翌日の夜。
エピアの檻に封ぜられし大悪魔――ミーボルートが、永き眠りより醒めてしまったという、耳にするだけで身体が灰と化しそうな禍々しい報せが届いてしまったのです。
洋の民の方々より漏れ聞こえた情報によると、既に四大聖地の一角たるテルプは壊滅。
そして……大悪魔は……ここ、ミネラータを目指している、と。
嗚呼、何たること!
現在では記録の中のみの出来事となった惨劇が、また繰り返されようというのですか!?
何としてもミーボルートの暴虐を阻止せんと、厳重な防衛・迎撃態勢が敷かれる中、わたくしたちは、与えられた宿でただ時を待つことしかできませんでした。
さながら外の喧騒を止まり木にて傍観する、籠の中の鳥。
せめて雑用でもと申し出たのですが、追い立てられてしまったのです。
やはり洋の民というものは概して自立的な性格が強いようですわね。
ゲマイさんも、洋の民も、ミネラータからの脱出を一切口になさいませんでした。
都を覆う防衛機能を強化したために浮上ができないことだけが理由ではありません。
少なくともわたくしや、ゲマイさんにとっては。
パンの1かけらでさえ、逃げるなどという考えを抱きはしませんでした。
それ以前に、世界中に危機が差し迫っているこの状況下、一体何処へ逃げようと言うのでしょうか。
都の高い場所に設置された太陽石が、眩しき光を放ち始めた頃。
まるで濃霧の如く一目瞭然に立ち込めている窓の外の気配に、わたくしの浅い眠りは引き剥がされました。
「ミスティラ様!」
部屋に駆け込んできたゲマイさんの様子で、あらかたの状況を察せてしまいました。
「身支度を致します。しばしお待ち下さいませ」
このような状況下、斯様な猶予はあるのかと思われるかも知れません。
逆です。
このような状況だからこそ、身を清め、整えるのです。
本日が……人生の結尾になるのかも知れないのですから。
普段は所持しているのみの、お母様の形見である髪飾りで髪を纏め上げ、手に馴染む魔力槍を握り締め、外へ。
石像の林立する都の中央広場では、武装した洋の民たちが一様に天蓋を見上げておりました。
理由は単純明快。
平時は一際優美な濃青が掛けられているはずのそこに、不自然な黄昏色が広がり、膜が水飴のように粘り気を帯びていたからです。
数十数百の眼差しは、精霊の……いいえ、比喩は最早不要。
大悪魔の出現に激しく恐怖しておりました。
「ミスティラ様、お下がり下さい!」
「何を仰るのです。今更どこへいようとも同じこと。むしろここで退けば物笑いの種にされますわ。そうでしょう、フェリエさん?」
いつの間にか傍に立っていた盟友に語りかけてみましたが、恐怖の色を混ぜた淡い笑みが戻ってくるのみ。
正確な色を出すべく、返しの筆を振るおうとした時、洋の民衆から悲鳴混じりの声が上がりました。
「くっ……!」
とうとう、強靭なる結界にも限界が訪れてしまったようです。
その膜を激しく溶かされていく音は――さしずめ断末魔。
深き海の壁を綿のように貫き、結界さえも破り、熱湯の雨を降り注がせながら……漆黒の影が、降臨してくる……
これが……覚醒したミーボルート……!
「放ちなさいッ!」
大悪魔が完全に姿を現すよりも先に、洋の民達が、次々と水系統の魔法や矢を放ちましたが……それを卑怯と謗ることなどできようはずがありません。
「手を止めてはなりません! ここで……!」
水の力が大きく強化される地相も加勢し、猛攻と呼ぶに相応しい激しさでしたが……
「軟と硬、可変を紡ぎ、保護を編み、自在を表す"双貌の替え衣"!」
ゲマイさんの、突然の詠唱が完成し、わたくしたちの周囲に氷の防御壁が出現したのと同時に、天から猛炎が襲いかかってきたのです!
何も出来ないどころか、身動きも取れないまま……地上にいた一群が、瞬く間に炎に飲み込まれてしまいました。
わたくしも、ゲマイさんが咄嗟に魔法で防いで下さらなかったら……
先程まで10人以上の洋の民が立っていた場所には、誰の姿も見えなくなっていました。
一気に噴出した悲鳴や恐慌、混乱を咀嚼するかのように、人に酷似した形をした漆黒の影が、背から煙を吐きながら降りてきました。
絵画の中でだけ活動していた存在が、こうして本当に炎を、死を齎すなどと……!
繋ぎ目が無いのではと錯覚するほど曲線的な漆黒の甲冑を纏い、兜の隙間からは2つの瞳が赤く輝くその形貌は、邪悪な騎士……
いいえ、あれは紛れもなく、悪魔!
このような非道許すまじと、突貫したかったのですが……
正直に打ち明けましょう。見えざる枷を填められたかのように、その場から動けませんでした。
殺気や、威圧感の類はまるで感じられませんが……何という禍々しさ!
「助かりましたわ。大悪魔の炎さえ遮断せしめるとは、流石は世界を転戦し、伝説の兵とまで評されたゲマイさんですわね」
「いえ、恐らく力が完全に戻っていないのでしょう。故に拙僧如きの魔法でも阻止できました」
代替として、鼓舞する意図も込めて称賛したのですが、一層の深刻さを以て返答されるのみでした。
ここは、ゲマイさんの冷静さ、慧眼を称えるべきでしたわね。
確かに仰る通り、甲冑には白色の紐――地祖人が作りし魔具、メンレーの紐の切れ端が貼り付き、絡み付いておりました。
健気ささえ感じさせるあれの働きによって、熱が抑えられているのでしょう。
書物には、存在するのみで周囲を灼熱地獄と化したと記されておりましたが、こうして無事でいられるのも、きっとメンレーの紐のおかげ。
地祖人に対して好意的な感情を未だ抱けはしておりませんが、この時ばかりは深く感謝せずにはいられませんわね。
他にも、ミネラータの強力な結界を破るにあたり、少なからず力を使っているのも、わずかながらの弱体化に影響しているかもしれません。
「ま、守りを固めるのです!」
「で、ですが、防ぎ切れるのですか!?」
「ミーボルートを止めねば……!」
「……倒せるのでしょうか」
「あの魔具を持ってくるのです! あれでなければ勝ち目は……!」
「しかし、一体誰が……!?」
先の一撃により、洋の民達は戦意を失いかけるどころか、平素の氷が如き静けさをも溶かしてしまったようです。
フェリエさんもまた、恐怖を隠し切れずにいるようでした。
それらの根源たる大悪魔は、地に降り立つことなく浮遊したまま。
我々を這いずる虫けら程度としか認識していないのか、双眸を忙しなく移動させ、何やら声ならぬ、奇怪な甲高い音を発し――
「!」
住居の集まる方向へと飛び去ってしまいました。
如何な愚鈍、臆病者だったとて、その意図を察するのは容易きこと。
正に悪魔! 悪魔の所業ですわ!
「と……止めろーーっ!」
「歴史を繰り返してはなりません!」
恐怖の痺れに囚われている場合ではありません。
二度と、記されているような惨禍を起こしてはならない。
命を賭してでも、守り、戦うのみ!
「ゲマイさん! わたくしたちも!」
「……承知致しました」
――――。
「ミスティラ様! 次はこちらの負傷者を!」
「承知しましたわ! ……決して分かちがたき絆、活きたいと願う性、増殖と結合、混成の名は"水命の交わり"!」
「うっ……す、すみません、助かりました」
「礼には及びませんわ。さあ、急いで避難を!」
媒体となる水には困らず、魔力の消耗も抑えられ、効力も数倍になる……ミネラータはまさしく水系統の魔法を使うための場所と言っても過言ではありません。
しかし、到底ミーボルートの齎す破壊に追いつけない……!
癒しても癒しても、際限なく負傷者が増えるばかり!
何という、無力、非力……!
「ぎゃああああっ!」
「駄目だ、3-2区画も焼かれた!」
「もう抑え切れません!」
「諦めてはなりません! テルプで散った家族のためにも……!」
我々の決意も、覚悟も、全てを嘲笑するように、大悪魔は都を縦横無尽に飛び回り、位置を変えては右の腕より火炎を放ち、破壊と死をもたらしていく!
美しかった青の都は黒と灰の瓦礫へと、端麗なる洋の民は炭と、虚無へと変わり果てていく……!
必死の応戦もまるで歯が立たず、犠牲は増えるばかり!
……このようなことが、許されて良い筈がありませんわ!
もう我慢なりません!
「……ミスティラ様?」
「わたくしも、前線に立ちますわ」
「何を仰るのです! 負傷者を癒すお役目は……」
「このままでは埒があきませんわ! 大悪魔を討ち払う方が、犠牲は少なく済みましょう。例えこの身を賭してでも……!」
「彼我の力量差が分からぬはずはありますまい。命を粗末にされるなど、ローカリ教の指導者が取るべき態度ではありませんぞ!」
ゲマイさんはあくまでも冷静に、此方の全てを見抜いているようでした。
「お待ち下さい、ミスティラさん」
更にわたくしへ冷水をかけたのは、蒼の瞳に意図を込めて見つめてくるフェリエさん。
「フェリエさん? どうなさったのです? まさか貴女までわたくしを諌めにかかるのですか!?」
「そうなってしまいますね。……未だ一切攻撃を受けていない箇所があることにお気付きでしょうか?」
「それは一体どちらなのですか」
「遺産の祭壇……かつてエピア様が振るった魔具、火喰いの剣・ギャスコとアブラハネの杖が祀られている場所です。まずは生存者をそちらへ誘導させるべきではないでしょうか」
「……仰る通りですわ」
反論の余地など、あろうはずもありません。
猛炎行き交う戦場の中、わたくしどもは指示に従い、生存者を運搬するのでした。