82話『ミスティラ、苦く、甘く、熱く、虚ろな想い』 その2
「この度はよろしくお願い致します」
「貴女は……テルプにいらっしゃった」
「フェリエでございます。お久しぶりですね、ミスティラさん」
なんと、同道されるのは、かつてテルプの温泉にてユーリ様を誑かした年増、もとい、洋の民の女性・フェリエさんだったのです!
嗚呼、何たる偶然! 運命を司る女神も、悪戯なことをなさいますわ!
……とはいえ、わたくしの恋心がこのような結果に成り果てた今、嘆きに身を浸すも、醜き敵意の槍の穂先を向けるも無意味。
「過日は大変失礼致しましたわ。若輩なる我が身ではありますが、誠心誠意此度の任に尽くしますゆえ、どうかご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い致しますわ」
余計なものを全てを捨てた上でわたくしが下座につき、積極的に歩み寄るが礼儀。
「どうかそんなに畏まらずに。私の方こそ、このような機会を設けて頂き、深く感謝しておりますわ」
フェリエさんは、素晴らしいと断言できる女性でした。
かつて"か弱さを売り物にして殿方を籠絡しようとする"などと評してしまった己を恥じたくなる程に。
決して惰弱でも狡猾でもなく、単に控え目なだけな性情。
同時に、愛する御主人を喪われてもなお自己憐憫に堕ちることなく、真剣に異種間の融和を願う洋の民の鑑。
剣を鍛え上げるが如く、言葉を重ね合えば合うほど、より強靭な絆が出来上がっていくことを実感致しました。
わたくしたちと同様に、洋の民と他種族もきっと……
曰く、ご本人もまた、ユーリ様との出会いで変わったのだとか。
やはりあの御方は太陽のよう……万物に遍く光を注ぎ、種を育み……
嗚呼、いけませんわ……油断をすると、すぐに連想し、思いを馳せてしまう……
惰弱だったのは、わたくしの方ですわね。
斯様な出来事を経つつも、航海は順調に進み、とある洋上にて船が停止しました。
四方の全てを水平線に囲まれ、標となるものは何一つ存在しない、凪いだ西の大洋の真中。
この海底に、ミネラータが……
何も無しに彼の正確な場所を知り得ることができるのは、洋の民にのみ読み取れる、潮流とはまた異なった"海の意志"なるものを頼りにしているとのこと。
思索に耽る猶予も無く、フェリエさんとは別の洋の民が竪琴を奏で始め、我々の船を泡で包み、海中へと沈め始めました。
四大聖地のテルプや、エピアの檻へ浸入する時と同様の手段。
想像の通り、というより事前の説明の通りですわね。
確かな技量によって爪弾かれる、厳かで繊細な旋律に耳を傾けながら、世界が、青から暗青、そして黒へと塗り潰されていくのを目にしても、不安に襲われたり、心が揺れ動くことなどありませんでした。
闇など恐れるに足りません。
我が内に在り続けるそれは、より深く、より暗いのですから。
大洋の海中というものは魚類の生息数が少なく、魔物もいないに等しいという発見や、生を受けてから初めてミネラータへ赴くという事実に対しても、然程の感動を覚えはしませんでした。
フェリエさんにとっては久方ぶりの帰郷、といった所でしょうか。
全ての洋の民は生涯に最低1度、ミネラータへ還ることが義務付けられているゆえ。
"還る"という表現が用いられている辺りに、ミネラータが全ての洋の民の故郷であるという特異性が表れておりますわね。
何百、何千メーンもの距離を、音を消して潜り続けていると、やがて下方に微かな青白い光が見えてきました。
エピアの檻の底に眠る大悪魔・ミーボルートを想起させる光景に、さしものわたくしも背に寒い感覚を覚えざるを得ません。
「ミスティラ様」
我が名を口にしたゲマイさんの声は、矢が放たれる直前の弦のように張り詰めておりました。
「この先何があろうと、どうか冷静さを失わずに」
「承知しておりますわ」
全ての洋の民の故郷たる青の都・ミネラータは、聞きしに勝る美しい場所でした。
都の広さや、石で造られた建物の様式こそテルプに設けられた特区と同等同質、しかし歴史の重みが全く異なっておりました。
その象徴たる、天蓋から海溝へと流れ込む大瀑布の迫力たるや、凡そ人智を越えた大いなる理が生んだ創造物の圧倒的な力をひしひしと感じずにはいられません。
逆に人智の領分たる市街地は――神経質とも取れるほど、清められておりました。
海底という土地柄、地上のような草木の緑は確認されませんでしたが、その代替としてでしょうか。
また常に薄く青みがかった視界が、目を覚ましていてもまるで夢の続きを見ているかのような錯覚をもたらしているのが印象的でした。
単純に美しいだけならば、わたくしの心も安らいでいたでしょう。
実際は、緊張という見えざる拘束が、解けないまま。
ゲマイさんが改めて注意を促した理由、先刻承知しておりましたが、実際こうしてミネラータに足を降ろしてみると……
成程、確かに排他的な空気や、見目麗しくはあるものの、判で押したように同じ姿をした蒼色の住民たちの氷柱が如き視線の冷たさが、テルプの特区の比ではありませんわね。
「神聖なるミネラータへ足を踏み入れるなど……」
「汚れた人間め……」
果ては聞こえよがしに誹謗を寄越してくる始末。
ですがわたくしとて、この程度で怯みや怒りを覚えるほど、柔な覚悟でこの場所を訪ねてはおりません。
冷たき壁に閉ざされ、奥にありしもの、必ずや氷解させて見せましょう。
侮蔑の眼差しや言葉は、フェリエさんら穏健派の洋の民にまで向けられておりましたが、ご当人達は気分を害された様子もなく、静かに歩を進めておりました。
家族でもある同胞から敵意を向けられた心中は、わたくし如きでは察するに余りありますが……
家族、とは決して比喩や誇張の類ではなく、洋の民は伝統的に純血主義の少数種族であるため、種族全体を1つの家族と見なす考え方がございます。
そのため苗字の概念がなく、またここミネラータも現在は国家ではありません。
現在では原則的に8名前後の代表者による話し合いで、おおよその方針などを決定しているのだとか。
都と銘打たれているのは、かつて国家としてまとまっていた頃の名残という訳ですわね。
わたくしたちが向かっているのは、まさしくその会議場。
まるで闘技場のような円形、かつすり鉢状をした石造りのそれからは、種の異なるわたくしにとっては、やけに物々しい印象を受けました。
いけませんわ、圧されてしまっては……
決して愉快な内容ではないゆえ、第一次対話の子細につきましては省略させて頂きます。
やはり、根本的な価値観の相違、過去より連綿と続く反抗的な感情は、到底一度の対話で拭い去れるものではなく……
ましてやローカリ教の教義に理解を示して頂くことなど、夢のまた夢。
ただし、まるで取り付く島もなかった訳ではなく、希望が見えなかった訳でもありませんでした。
お父様……教主が職務による多忙の為、直々にミネラータへ赴けなかったことも、説明せずとも既に事由を正確に把握、納得して頂けていました。
それに、ミネラータの中にも、交流を望む方々がいらっしゃったというのが、何よりも大きかったと言えます。
氷壁を布で磨き、摩擦で溶かすが如く困難な労役ではありますが、第二次、第三次と対話を重ね、必ずや……
そのような我々の決意や努力を、ほんの一瞬で御破算にしてしまったのが、突として頭の中に聞こえてきた、あの忌まわしき"声"でした。
そう、悪魔に成り果てた、スール=ストレングの声が!
幻聴や戯言と聞き流すには、余りに真実味を帯びた、そして嫌悪の情を催す内容。
あのような畜生が愛を語るなど……
いいえ、それよりも気にかかったのは、アニンさんや、ラレットさんの兄君でいらっしゃるソルテルネさんの名を口にしていたことの方。
ミヤベナ大監獄にて彼の外道と邂逅、更に一戦交えた話は、既にアニンさんご自身やユーリ様より伺っていたゆえ、交わりがあったことに驚きはございません。
ただ、御二方の心情を思うと……さぞや無念や驚愕、焦燥に苛まれていらっしゃることでしょう。
冷血なようではありますが、今は御二方を気にかけている場合ではありません。
より強大な危急が差し迫っているのですから。
種族を問わず、全世界の生物に遍く声が響いたことによる混乱は、ここミネラータにも波及してしまいました。
各地に押し寄せる悪魔、餓死に至る病の蔓延が周知され、それらの対策や支援準備で対話をしている場合ではないと、追い立てられてしまったのです。
ですが、わたくしどももおいそれと退去する訳には参りません。
現時点ではミネラータは安全ゆえ、保身を図りたいなどという理由からではなく、その対極、助けになるが為に。
陸ではきっとお父様が、ローカリ教が適切な対応を取っているはず。
なればわたくしどもは海底で、適切な対応を。
それこそが最善であり、お父様への最大の孝行と、信じてなりません。