82話『ミスティラ、苦く、甘く、熱く、虚ろな想い』 その1
アビシスの堅牢たる街並みも、メイツ寺院に溢れる活気や慈悲も、まるで変わっておりませんでした。
変わったのは、わたくしの方。
「あっ、ミスティラ様! 戻られたのですか? お帰りなさいませ」
「御苦労様。わたくしの名をしっかりと銘記しているようですわね」
「はい、あの時お叱りを受けたおかげで」
「あの時は少しばかり言葉の刃が鋭すぎたと、反省しておりますわ」
「いえ、そんな」
あの時は入信して日も浅く、頼りなき印象だったこの信徒も、大分落ち着きが身に着いたようですわね。
この方もまた、日々成長しているということでしょう。
「お父様はどちらへいらっしゃるかしら?」
「第一堂におられるかと。御案内致します」
「お気持ちだけ受け取りましょう。わたくしの足で参りますわ。失礼」
美しく清められた、優しき静けさに満ちた境内を進む中、我が胸に満ちるは懐旧の念ではありませんでした。
我が境地は、孤独を覚悟した日からずっと変わらぬまま……
「お父様。たった今、帰還致しましたわ」
「おお、ミスティラか。久しいな。よくぞ帰って来た」
父のお体は、別れの際よりも一層の壮健さを取り戻し、瑞々しい生命力を体内より発しておりました。
「旅を経て、大きく成長したようだな。一目しただけで伝わってきたわ。父として嬉しいぞ」
「はい。ユーリ様のみならず、数々の良き友からも多くを学ばせて頂きました。皆様と同道できて本当に良かったと、胸を張って申し上げられますわ」
「長旅で疲労も溜まっておろう。積もる話もあろうが、まずはしばし静養するが良い」
「労わりのお気持ちだけ頂いておきますわ。身を清め次第、ローカリ教の活動に奉じさせて下さいませ」
「……そうしたいのならば、止めはせぬ。だが、無理はならぬぞ」
父が経緯を仔細に尋ねられなかったのは、わたくしの微細な変化さえもまるで老練の鑑定士が如く見逃さず、同時に慮ってのことでしょう。
「お心遣い感謝致しますわ。では、早速」
無論、情熱のまま、使命に導かれるがまま、己が責務を執行したいという思いが第一でした。
……しかし、それと同じ重さを持つ、天秤に等しく釣り合う存在として、"麻痺させたい"想いもまた、しかと存在していたのです!
慈悲を、贖罪に摩り替え。
博愛を、偏愛に絞り込み。
嗚呼、このような醜き行動が、許されて良いのでしょうか!
いいえ、考えるまでもありませんわね。
とにもかくにも、誰かの助けになるという行為そのものに意味があると、あの御方に教わったではありませんか。
自己憐憫よりも、奉仕という行動を投資し、救済という結果を以て人々に利をもたらす。
働かねば。
身命を、人生を賭し、1人でも多くの餓えし民を救わねば。
…………。
……。
……出来ません。
如何ほどに、心身を疲弊させ、無我を目指そうとも。
見えざる鉄の蓋を被せ、押し込めようとしようとも。
振り切れない!
どうしても、あの御方の存在が……!
かつて過ごした日々が、毎晩のように夢の世界で鮮明に描き出されて。
意識を保っている日中も、隙を縫って忍び込んできて。
熱を帯びた温泉のこと、競竜場で手に汗を握り合ったこと、愛の告白を正面から拒まれたこと……眼前で抱擁され、更にわたくしのみ振り解かれたこと……!
全ての思い出がわたくしを責め苛ませるのです!
ユーリ様にも、タルテにも、一切の責無きこと、承知しております。
強く成長し、己や相手と素直に向き合えるようになった友が結ばれ、幸福を掴み取った事実を祝福したい思いにも一切の偽りはございません。
……しかし!
どうしても、消すことができない……!
あの娘への、煮えたぎる鉛のような嫉妬を!
自己嫌悪に耽溺し、身動きが取れなくなるほど惰弱ではありませんが……御二人の下へ駆け出したい。
駆け出して、三文芝居の悪役が如く、あの御方を攫って、監禁してでも独り占めしてしまいたい。
邪な妄念を、物語として幾ら綴った所で、鎮まりなどしない。
臓腑の全てを掻き乱し、のたうち回りたくなる程の痛苦が、気を緩めた瞬間、我が心を狂わさんと……!
紛らわせるためにラレットさんの下へ向かうなど、到底考えられません。
それは最大の侮辱であると、如何なわたくしとて弁えているつもり。
背負うのみ。
命尽き果てるまで、己が選んだ道を、槍の如く貫くのみ。
終わり無き煩悶に焼き焦がれる日々を送っていたわたくしを冷ましてくれたのは、教団内で持ち上がった1つの話題でした。
それは、ローカリ教の対外活動の一環として、前々より構想として存在していた、洋の民との懇親。
高僧間で段々とその話が具体性を帯び、日取りや人員などの計画も決定し始めていたのを耳にした瞬間、わたくしは突き動かされておりました。
父の居室を訪ね、名乗り出ていたのです。
「お父様。此度の大役、どうかわたくしに申し付け下さいませ」
このようなわたくしからの横槍を、既に想定されていたのでしょうか。
お父様は思いの外、落ち着き払っておりました。
「ミスティラ……良いのか? お前は先日、長旅を終えたばかりの身。再び長旅に……」
「我が身に不足があるのでしたら、無言で引き下がりましょう。我が身を慮ってのことでしたら、どうかお気遣いなく」
「……よくぞ申した。父として誇りに思うぞ。では、お前に任せるとしよう。後日、正式な任命を行う」
そして、こちらの想定よりもずっと早く、簡単に、お認め下さいました。
「お父様の名に、ローカリ教の教義に恥じない働きをして参りますわ」
妄執を振り切りたいがためにのみ、此度の任に名乗り出た訳ではございません。
種族を隔てる壁を強固に、高く積み上げて疎み合うばかりではなく、歩み寄りをすべき、そのような時期に差しかかっていると考えたのです。
無論、それはわたくし個人にも言えること。
これまではローカリ教を認めようとしなかった洋の民や地祖人に対して、まるで好意的感情を抱けなかったこと、否定は出来ません。
果たして、彼らがそう思考するに至った真意を、正確に理解できていたでしょうか。
書物や口伝えだけで、知ったつもりになってはいなかったでしょうか。
真摯に、辛抱強く何度でも、対話を試みてみたくなったのです。
平易な道ではないこと、百も承知しております。
だからこそ、価値があると言えるでしょう。
美しく希少なる原石を得るには険しき場所へ立ち入る必要があるように、より困難な道を歩むことで、己が成長にも繋がると信じているのです。
ですが、決して我らが思想を押し付けることが此度の目的ではございません。
教義の強制は最も恥ずべき行為と、初代教主のメイツ様によって厳しく戒められております。
あくまでも目的は対話であり、友好を深めること。
種族単位での友好に繋がれば、それで充分でしょう。
洋の民は気難しいというか誇り高いというか、俗なるものを非常に嫌う方々。
媚びるための貢物の類は逆効果を招くだけ。
敢えて何かを捧ぐとするならば、誠意、尊重、といった類のものが適格。
ゆえにわたくしが行うべき準備は、洋の民をより深く知ること、寛容さを養っておくことでしょう。
旅立ちまでに、より多くを学ばねば。
…………。
「――それでは、行って参りますわ」
「うむ、実りある対話になることを期待しておるぞ」
新たなる旅立ちの日は、瞬きするように、あっという間に訪れてしまいました。
父と娘の団欒を満足に過ごし切れなかったことは心残りではありますが、父もわたくしも、互いに崇高な使命を帯びた身。
断腸の思いで再び離れねばならないのです。
「ゲマイよ、頼んだぞ」
「承知致しました」
わたくしの他に、ゲマイさんも代表者の1人として、今回の訪問に参加することとなりました。
ゲマイさんは次期教主筆頭と目されているほどのお方。全く異存はございません。
今回の経路は、まずアビシスを発って西進、フラセース西部の港町から船に乗り、そのままミネラータの在る西の大洋へと出る予定となっております。
港町では更に他の同行者、橋渡し役として、元より人間に対し好意的である洋の民と合流する手筈となっておりました。