81話『シィスの胸の高鳴り』 その1
「報告は以上となります」
「うむ、御苦労だった。……よく今回も無事に帰ってきたね、シィス」
「大変だったでしょう? 今日はあなたの好きなお寿司にしましょうね」
この人達が、厳格な上司から優しい父母に戻る瞬間が昔から好きだった。
「ありがとうございます、お父さん、お母さん」
仕事中とそうでない時で呼び方を使い分けるのにも、すっかり慣れた。
こんな性格だから、つい最近までは頻繁に間違えて、よく怒られたりもしたけれど。
今回は流石に疲れる任務だった。
期間も長期だったし、内容もこれまでにないくらい過酷だったと思う。
世界のあちこちを飛び回り、要人級の重要人物や凶悪な大犯罪者と接触し、ツァイの王宮からミヤベナ大監獄にまで潜入して……
しかし、不思議と充実感のようなものを感じていたのも事実だ。
本来、このような仕事に身を置く者が感じてはならない感情で、これまでは一度も感じたことがなかったのに。
理由は分かっている。
アニン=ドルフに幾度も手合わせがしたいと焚きつけられたのと、それとユーリ=ウォーニーの存在のせいだ。
前者は簡単に説明できる。
勝算が薄いからとずっと拒み続けてはいたが、実際の所は自分の中にも彼女と同様、己の力量を試したい感情が存在していた。それだけだ。
後者は何だろうか。
自分と恋愛感情は無縁のものだし、彼の掲げる飢餓救済の信念にもさして関心はないというのに。
気が付くと、彼のことを考えてしまっている時がある。
とはいえ、特に問題はない。
この程度の違和感、無視してしまって構わないだろう。
ただ、皆と友達になりたかったとは明確に思っていた。
ほとんどが任務の成り行き上での行動だったが、一行と過ごせて楽しかったのは事実だから。
もっと共に話をしたり、食事をしたり、"さっかぁ"なる遊びをしたり……色々なことをして、親しくなりたかった。
このような仕事をしていては、望むべくもないことだが。
「どうしたの? 元気がないみたいだけど」
「いいえ、そんなことはありませんよお母さん」
「ならいいわ。さあ、こちらへいらっしゃい」
「ごめんな。辛い仕事ばかりさせてしまって」
「いえ、私には合っていますから」
しかし、嘆きたくなどはならない。
両親には恵まれているし、道場の人達も概ねまともだ。
私は、大丈夫だ。寂しくはない。
ユーリ=ウォーニーらと別れて実家の道場へ帰還し、任務完了の報告を済ませた後、心ゆくまで食事や家族団欒を楽しみ、睡眠を取ると、やや低調気味だった私の体調はすぐに完全な状態へと回復した。
どんな環境下でも眠れる体質にはなっていたが、やはり最も熟睡できて寛げるのは実家だと実感する。
新たに浮上した問題は、次の任務までの空いた時間をどのように埋めるかだ。
今回の任務が長期に渡ったからか、両親は私に気を遣って、いつもより長めの空白期間と、沢山のお小遣い……ではなく報酬を与えてくれた。
その気持ちは非常に有難いが、少々手持無沙汰になってしまうのも事実だ。
国外へ遠出するほどの余裕は、恐らくないだろう。
とは言っても、今回の任務の道中で旅行や観光も行ってしまったようなものなので、贅沢は言えない。
そうなると選択肢は自ずと、内へ向いた余暇の潰し方となるが、生憎私にはあまり合っていないのである。
例えば、外見から誤解されやすいが、私は必要なこと以外における、娯楽としての読書が苦手だ。
誇張抜きで、少し読み進めるだけで意識が遠のいていくほどに。
料理に関してはもっと壊滅的で、己の生存に必要な食糧採取や最低限の調理は出来るが、タルテ=ベイクィーツのような技量は望むべくもない。
過去にどれだけ訓練しても向上しなかった辺り、才覚が欠落しているのだろう。
益々選択肢は狭まっていき、結局いつもと同じように、道場で稽古をしたり、門下生の指導をするぐらいしか、することがないという事実に気付く。
ああ、そうだ。報告日誌の追記修正もしなければ。
両親からまた指摘があったんだった。
それで多少は時間が潰せるだろうか。
このまま、任務しか生き甲斐のない人間になってしまうのだろうか。
それを考えている暇も、日誌を書き直している猶予も、道場で稽古や指導を行う時間さえもないということを、ある日突然万人の頭の中へ響いてきた"声"が知らしめた。
流石に驚かずにはいられなかった。
ソルテルネ=ウォルドーと、アニン=ドルフが仕留めたはずの大犯罪者・スール=ストレングが生きていただけでなく、全世界に破滅を振りまこうとしているとは。
更に、世界各地で悪魔が攻撃を仕掛けており、更には"餓死に至る病"なる正体不明の伝染病も広がっているという情報も周知されたことで、道場の人間だけでなく、町の人々も動揺を隠せていなかった。
今の所はまだ混乱・恐慌にまでは進行していないが、そうなるのも時間の問題だろう。
悪魔に関しては、実物を見たことはないが、聞いたことはある。
血肉の通わない、金属の体を持つ異形の化物。
確かユーリ=ウォーニー一行も一度、フラセースの聖都近くの森で交戦した経験があったはずだ。
それよりも別に、気になる点があった。
私を含め、道場の人間に施された精神防壁の影響を受けずに声が届いてきた点だ。
とりあえず、現在判明している事実から導き出されるのは、ユーリ=ウォーニーの持つ特殊な"力"とはまた種類を異にしたものだということだが……
語りかけてきた場所であるインスタルトと関連性があるのだろうか。
残念なことに、謎を解明している暇さえなかった。
「シィス、すまない。新たな任務だ」
"声"の後、ほどなくして父が、表情を温和なものから冷厳なそれへと変えて、告げた。
「はい」
私も、立場を娘から一介の諜報員へと変えて、答えた。
「ショルジンで、強大な力を持った女が暴れているという情報が入った。"悪魔"ではなく、"女"だ。事実関係を確認した上で、制圧に当たって欲しい」
「はい、直ちに向かいます」
「お前を単独で指名したのには理由がある。前回の任務で、ユーリ=ウォーニーの家族を調査したな?」
その後、父の口から出た言葉は、予想だにしないものだった。
「……説明は以上だ」
「承知しました、師範」
内容はどうあれ、任務を与えられた以上、遂行する以外道はない。
例え相手が、ユーリ=ウォーニーの母親だったとしても。
「お前独りに任せてしまうが、頼んだぞ」
「はい」
本心を押し殺す時、父はいつも、唇を軽く引き締める仕草をする。
そうする意図が分かるから、私も、気にせず頑張れる。
「……私も、しばらく道場を空けることになるだろう」
「師範もですか?」
「顧客や各地に派遣している他の人員から、続々と報告が入ってきている。……突如、悪魔が襲来し、攻撃を仕掛けてきていると。先日全ての人間の頭の中に聞こえてきたスール=ストレングの発言は、真実だったようだ。
支援を要請された以上、引き受けない訳にはいかない。お前を単独で向かわせてしまうのは、人員を割けないという理由もあるのだ。またしばらく会えなくなるが……」
「互いに無事でいられるよう、また皆で食事ができるように、尽力します。師範も、お気を付けて」
私はいつも道場を離れる時、これが今生の別れになるかもしれないと覚悟しているつもりだ。
しかし、どうしても名残惜しさというか、女々しい未練を、毎回完全に消し切れずにいた。
本当は……