79話『新たなる悪魔、世界に語りかける』 その3
――ともあれ、あの時ばかりは流石にもう終わりだと思ったわ。周囲は何もなく、誰もいない海、海、海。おまけに泳ぐことはおろか、身動きもできない。
でも、あの時は、このまま終わりを迎えてしまってもいいかなって思ったの。この世界で最も愛した男に殺されるのは、とても幸せなことだから。そう、あの時確かにあたしは死にかけていたし、諦めて受け入れようとした。
……その時だったわ。悪魔があたしの目の前に現れたのは。
普段だったら問答無用でブチ殺していたのだけれど、当時のあたしは一切抵抗できなかった。いきなり空から降ってきた、ウミヘビやミミズみたくクネクネした細長い悪魔に、体を貪られることしかできなかったわ。
……普通だったら、とても不愉快極まりない行為だって思うでしょう? 愛する人以外のものを受け入れても、幸せを感じることなんてできないのは、皆さんもよく分かるはずよ。
でも、事実は違ったのよ。悪魔に体を貪られ、取り込まれている最中、あたしが感じていたのは、紛れもない愛だったのよ。
同時に理解できたわ。これこそが"本当の愛"だって。皆が忌み嫌う悪魔にこそ、愛は眠っていたの。
これって大発見よね。本当に、言葉なんかじゃあ言い表せないくらい素敵な感覚だったわ。強いて例えるならそうね、絶対的な安心と、緩やかな快感がやってくるのに近いかしら。
元より分かるとは思ってなかったが、スールの発言が段々と理解の範疇を越えてきた。
――ここからが本題よ。よく聞いてね。こんな素敵な愛を、あたしだけが独占するのはとてもずるいことだと思わない?
あたしは思ったわ。だって愛は全てに分け隔てなく与えられるものだから。
だからあたしが、世界の皆もその愛を受け入れられるよう、お手伝いしてあげる。もちろん人間だけじゃないわ。全ての種族に対して平等にね。
「なっ……!」
――今あたし、色々とインスタルトのことをお勉強しているの。仕組みを解明したら、すぐにでも皆も同じように幸せにしてあげるから、もうしばらく待っててね。この"愛の悪魔"を世界中にブチ撒いてあげるわ。最初は怖いでしょうし、痛みもあるかもしれないけど、大丈夫。すぐに多幸感に変わっていくから。
それに、悪いお話じゃあないと思うの。悪魔と1つになってしまえば、痛みも、苦しみも、眠気からも、そして空腹や渇きからも解放されてしまうのよ。これって素晴らしいことだと思わないかしら? もう生きるために奪い合う必要も、争う必要もなくなるのよ。
例えようのない嫌悪感が、芯から体を、心を冷やす。
そんなことを、許せる訳ねえだろうが!
――ねぇ、これを聞いているであろう、愛しのソルテルネ。あたし、もうあなた個人だけを愛せなくなってしまったわ。あなたへの愛は変わらないけど、今のあたしはもっと広く、深く、大きな愛で動いているの。
でも……もし会いたければ、ここまで来てくれても一向に構わないわよ。アニンちゃん……だったかしら? あなたもね。期待に応えられるかどうかまでは保証できないけれど。
周囲に結界みたいなものが張られているから、直接インスタルトに乗り込むのは難しいかもしれないけれど、頑張って"道"を見つけてみてちょうだい。
おいおい、全世界に個人名をバラ撒くんじゃねえよ。
個人情報保護なんて概念がないであろうこっちの世界で突っ込んでも意味ないだろうが。
――話が個人的になりすぎちゃったわね。じゃあ、そういうことで世界の皆さん。もうしばらく辛抱してちょうだい。愛してるわ。以上、元・人間の大犯罪者、現・悪魔が混ざった愛の死者・スール=ストレングがお送りしました~。
「……じょ、冗談じゃねえ! 何抜かしてやがんだあのオカマ!」
「事態は更に深刻になってしまいましたね。スール=ストレングまでもが関わってくるとは」
全くだ。
ただでさえ悪魔は降ってくる、餓死に至る病が蔓延している、ミーボルートが復活しかけている、それと前世の母親が記憶を取り戻して何かしでかそうとしていると、厄介事が次々やってきてるってのに、この上あの化物がとんでもねえ思想に目覚めて災難振りまこうとしてるとか……
「ったく、とんでもねえ状況だな。絶体絶命の数え役満じゃねえか」
「そうですね、歴史上未だかつてない危機的状況と言えるでしょう」
心なしか、さしものトスト様の声にも張りがないように聞こえた。
「今のスールの発言、トスト様はどう思われましたか?」
「断じて認める訳には行きません」
しかし、尋ねてみたら力強い即答が返ってきた。
「ですよね。俺も同意見です。奴の言うことは一見非の打ち所がない正論のようですけど、それが幸せなことだなんてとても思えない。自然の摂理を否定する行為が正しいとは思えないです」
「気が合いますね。私も同じことを考えていましたよ。そうですね、"理"というものは非常に大事だと、私も思います」
「恐縮っす」
そうだ、ここで絶望している暇はない。
どんな困難があろうと、全ての問題を打破して、世界に平和と秩序を取り戻さねえと。
正確には、前向きに考えていたというよりも、妙に落ち着いていたというか、どこか他人事のように捉えていた。
何故なら……死は必ずしも終わりを意味しないことを既に体験しているからだ。
心のどこかで、そこまで深刻には考えられない自分が、確実に存在していた。
すぐにあっちの世界へ生まれ変われるのか、それとも他の星へ行くのか、長い間生まれ変わりの順番待ちをさせられるのか、あるいはもう二度と転生できなくなるのか、それは分からないが。
なんせ、死んでから生まれ変わる前の期間の記憶が、綺麗さっぱり抜け落ちてるからな。
「わたしも……少しでも役に立てるように、頑張るわ。わたしだって、世界を守りたいもの」
とはいえ、好き好んで死にたいだなんて欠片も思ってない。
だって単純に、今目の前にいる大好きな人と、離れ離れになんかなりたくないもんな。
「よく言ったぜタルテ。それでこそ俺の……だ、大好きな……人だってばよ」
「バ、バカね」
「あのー、背中でいちゃいちゃされると、むず痒くなってしまうのですが」
「す、すみません!」
「ははは、冗談です。きっと悪魔と融合してしまえば、そのような感情もやり取りも出来なくなってしまう。そうならないためにも頑張りましょう」
いつの間にか俺達はツァイのある大陸を越え、海を越え、フラセースのあるヨーシック大陸にまで差しかかっていた。
「そういえばトスト様は、インスタルトの中のことをご存知なんですか?」
「スール=ストレングの方が詳しいとは思いますが、かなり昔に、一度入ったことがあります。当時は障壁が張られておらず、高度も低かったため、風竜でも到達は可能でした。
彼女……一応彼女としておきましょう。先程言ったように、現時点での我々の文明では到底成し得ないようなものが沢山ある、不思議な場所でした。本格的な調査を進めたかったのですが、中にいた悪魔の妨害や、障壁により、今は侵入できなくなってしまいました。
あ、一応他の方には内緒にしておいて下さいね。表向きは誰も足を踏み入れたことがない場所、ということになっていますから」
冗談めかして言うトスト様をよそに、俺の頭の中では別の推理が進行していた。
インスタルトの中では、あっちの世界よりも遥かに進んだ科学文明が発達しているんじゃないだろうか。
悪魔の姿を見るに、あながち的外れではないと思う。
ただし、あっちの世界と関連があるのか、一体誰がそんなものを持ち込んだのか、あるいは作り上げたのかまではさっぱり分からないが。
「見て!」
タルテの声が、推理を中断させた。
「……酷いな」
彼女が指差した下――フラセースの国土のあちこちから、火の手や黒煙が上がっているのが見えた。
更には、左方向の遥か彼方に浮遊する固形物があり、そこから黒点がパラパラと落下しているのがほんの微か確認できた。
確かに、インスタルトから次々と悪魔が降り注いでいるようだ。
「口惜しいですが、直接乗り込むことは敵いません。今は民達の力を信じましょう。まずすべきは、あなた方を聖都までお連れすること。どうかご辛抱を」
元凶を視界に捉えときながら何もできねえなんて……こんなにムカつくことはない。
更に速度を上げたトスト様の背に乗りながら、俺は無念を抱いていた。