77話『ユーリ、故郷に戻り、家族と再会する』 その3
「入るんじゃあねえ!」
奥から飛んできた、ドスの効いた声が俺とタルテの鼓膜を串刺して、動きを封じ込めた。
「いつも言ってんだろ! 厨房に入る時は体を綺麗にしとけって!」
高速で野菜を切り刻んでいる声の主――横幅の広い、割烹着姿のハゲたおっさんが、こっちに目もくれず怒鳴りつけてくる。
「それが久しぶりに再会した息子に浴びせる言葉かよ、親父。お帰りぐらい言えよな」
「やかましい! 言い訳すんじゃあねえ! さっさと風呂にでも入って来い!」
……相変わらずだな、あのハゲ親父。
ったく、しょうがねえ。ああなっちまったらテコでも動かねえからな。
一旦出直すか……
「ユーリ」
と、親父とは別の懐かしい声が、俺の名を呼んだ。
「あ……母ちゃん」
親父の横でやっていた洗い物を止め、前掛けで手を拭きながらこちらにやってくる母親の姿は、全く変わっていなかった。
いや、また少しふくよかになったような気がするけど。
「お帰り。よく無事に戻ってきたねぇ」
「ああ、出てった時と同じく元気だよ」
懐かしさを噛み締めながらそう答えたが、母親の表情にはどこか素直に受け取ってはもらえなかったような陰りがあった。
「……色々あったみたいだねぇ」
お見通しってか。参ったな。
「でも、良いこともあったみたいだねぇ」
としみじみしていたら、今度はパッと顔が明るくなった。
言うまでもなく、母親はタルテの方を見ていた。
「ごめんなさいねぇ。うちの人、変に頑固だから。急にびっくりしたでしょう?」
「いえ、そんな。あ、申し遅れました。わたし、タルテ=ベイクィーツと申します」
「あらあらご丁寧に。この子の母親のナラタです。あっちにいる頑固亭主が父親のギリね」
母ちゃんの方は愛想よく一礼したが、親父の方は変わらず野菜を切り続けている。
「何やってんだ! さっさと風呂に入らねえか! お前もボサっとしてねえでさっさと沸かして来い!」
あまつさえ、更に声量を上げてどやしてくる始末。
「はいはい。それじゃあ準備しましょうかね」
母ちゃんは怒りもせず、まるで動じていない。
確かにこんなのは平常運転だけどさ。
「……許してあげてねタルテちゃん、あれでも気を遣ってるつもりなのよ。不器用だから伝わりにくいけど」
「は、はい」
「お風呂の準備ができるまで、居間で休んでなさい。ところでアザミとは帰る途中で会わなかったの?」
アザミとは妹のことだ。
「いや、会ってないな」
答えると「そうなの」とだけ返され、懐かしの居間に通された。
「タルテちゃんも自分の家だと思って遠慮なくくつろいでね。あとお風呂だけど、まだ一緒に入っちゃダメよ。ちゃんと別々に入るのよ」
「分かってるよ」
まだってなんだよまだって。
居間を出ていく母親の背中に、心の声で突っ込みを入れた。
2人きりになると、部屋の余計にシンとしている感が強くなって、何か話さなきゃという思いが強くなる。
別に気まずいって訳じゃないんだけど。
とりあえず2人して道中でもらったお菓子でも適当につまむことにしたけど、それでも無言のままではいられない。
「空白の皿の本拠地とかに比べたら狭いよな」
「そんなことないわよ。落ち着ける、素敵な場所だと思うわ」
「お前の胸の中みたいにか」
そう言ってみたら、湯気でも出そうな勢いで顔を真っ赤にされた。
つーか言った俺自身、死ぬほど恥ずかしい。
「悪い悪い」
本当は素敵な落ち着いた気分を味わってみたかったが、場所を考えて自重しておいた。
「ううん。……それにしてもユーリって、やっぱりお母様似だったのね」
「やっぱ似てるか?」
「ええ、一目見た瞬間、すぐに分かったわ」
「どの辺が? ちょっと触って教えてみてくれよ」
バカね、なんて言われたが、満更でもないらしく、顔を近づけて、
「目元のところとか……上唇の形とか」
細く綺麗な指先で、そっと触れてくる。
至近距離に映る長いまつ毛が微かに震えているのも相まって、やけに挑発的な触り方に感じられてならなかった。
これは……あれか。
うーん、まあいいか、これくらいは。
念の為、つぶらない程度に目を細めてみたら、タルテの方も同じことをしてきた。
よし、確認完了。やろう。
とした瞬間、ドン、とやけに大きな足音がして、思わず必要以上に目をおっ広げてしまった。
慌てて音のした方を振り向くと、そこに立っていたのは、腕組みをしてこちらにじっと視線を注いでいる、年頃の女の子……
「お、おおアザミか。久しぶりだな、帰ったぞ」
というか妹だった。
やべえやべえ、未遂とはいえ、しっかり見られちまってたよな。
教育上あまりよろしくなかったかもしれない。
「買い物行ってたんだって? お疲れさん。お前も元気にやってたか」
見た所、弟と同様、しっかりと成長しているようだ。
「……お帰りなさい」
行為に対して特に指摘してくるでもなかったが、やけに無愛想というか、随分と反応が薄いな。
思春期ならではの複雑な心境ってやつか?
家族に反抗したいお年頃ってやつか?
それとも……今の場面が原因か?
「はじめまして、タルテといいます」
「……兄さんの妹のアザミです」
もうちょっと明るく言ってもらいたかったが、とりあえず挨拶はしたから良しとするか。
そういやアザミの奴、呼び方が変わったな。
家を出る前は"お兄ちゃん"だったのに。
まあ大人に近付けばそうなるか。
「あたし、お母さんたち手伝ってくるから」
色々思いを巡らせているうちに、妹は素っ気ない態度のまま、ぷいっといなくなってしまった。
うーん、年頃の女の子ってのは難しい。
流石にこの後は、距離を近づけるような真似はお互いできなかった。
なのでしばらく適当に雑談しながら時間を潰していた。
そうしていると、風呂を沸かしてくれた母ちゃんがやってきたので、順番に入り、疲れと汗を流した。
「あーさっぱりした」
「ちゃんと疲れと汚れを落としてきたかい?」
「ああ、やっぱ家風呂はいいよな」
「それじゃあ早速ユーリには店を手伝ってもらおうかね。そろそろ夜の営業時間だからね。今日は従業員が皆休みだから、猫の手も借りたいんだよ」
「は? 帰ってきたばっかだぞ俺。疲れてる息子を労うでもなく、いきなりこき使うのかよ」
「父ちゃんも言ってたけど、そんなヤワだったら、旅なんかできてないだろ? いいからさっさと用意したした! ほら急いで!」
「あの、わたしもお手伝いさせて下さい」
「いいのよ~タルテちゃんは。ここでゆっくり休んでいてね」
何だこの差は。
「本人が手伝いたいって言ってんだから、使ってやれよ。心配しなくても有能だぜ。それと看板娘もいた方が客受けもすんだろ」
「まあ、この子ったら。……それじゃあ悪いけど、お願いできる?」
「はい、喜んで」
タルテがああ答えてしまった以上、俺だけごねる訳にもいかない。
やれやれ、しょうがねえか。