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64話『ユーリ、地獄の底で再会する』 その2

「あれれぇ? どうしちゃったのぉ? 好きなようにしていいんだよぉ。悪いことをするんじゃないし、どうやっても大丈夫だから、ね? あたし、慣れてるもん」


 メニマが、下から両手を伸ばして俺の頬に添えてくる。

 掌の温かさが与えたのは、安心や赦しではなく、罪悪感や恐怖。


「あっ」


 思わず、彼女の手を払いのけてしまう。

 謝罪を口にするよりも先に、別の思考が湧いてくる。


 ……慣れてる?


 中々客を取れなかったと嘆いていたのに?

 ここに来てから慣れたってのか?


 母乳。

 膨らんでいない腹。


 疑問を混ぜて、改めて彼女の現在の姿を認識、推察してしまうと、今度は強烈な悪寒が襲いかかってきた。

 醒めた、を通り越して、凍り付くように寒い。


 前世の記憶が、次々と浮かんできて、敵から間合いを取る時のように飛びずさってしまう。

 その時背中と後頭部を壁にぶつけてしまったが、痛みなんてどうでもよかった。


 俺は、何てことをしようとしちまったんだ。

 絶対正義も誇りも信念もクソもない。


 寒さが収まらない。

 自己嫌悪が止まらない。


 俺は……結局、あの人達と同類じゃねえか。

 性欲に負けた、ただの情けない獣だ。

 生まれ変わっても逃げられないってのか?

 最悪だ……勝手に盛り上がって、勝手にしぼんで……救いようがない……


「ユリちゃん……」

「……ごめん」


 意味がないと分かりつつも、詫びずにはいられなかった。


「謝らないで。ユリちゃんは全然悪くないんだよぉ」


 服を着直しながら、メニマは柔らかな微笑みを見せた。


「それにね、嬉しかったんだよぉ。やっとユリちゃんが、あたしを女の子だと思ってくれたなぁって」

「言うな。頼むから、それ以上は……」


 分かってる。

 止めたのは彼女を気遣ったからじゃなく、自己憐憫だ。


 メニマはそれ以上、この件に関して触れないでいてくれた。


「お水、飲みましょうねぇ」


 ただ、水の入った小さな杯を、屈託ない笑顔で差し出してくるのみだった。


「……ああ。いただきます」


 水は、全細胞が歓喜するほど美味かった。






 一滴一滴を味わうように飲んでいる間、メニマは何も言わなかった。

 聖母を象った石像のように、ただ側で微笑んで見守ってくれていた。


「ごちそうさま」

「はぁい」


 水を飲み終えて、ようやく少し冷静になれた気がする。

 とりあえずは大丈夫だ。もうメニマを襲わずに済むだろう。


「……聞いてもいいか」

「なぁにぃ?」

「さっきは聞きそびれちまったけど、何でお前がこんな所にいるんだ」

「……聖都の娼館街に、いられなくなっちゃったんだぁ」

「それって……」

「うん、ユリちゃんがお友達を紹介してくれた日は大丈夫だったんだけどねぇ、あの後、全然お客様を取れなくってさぁ、"もう使えない"ってゆわれて、ここに売られちゃったんだよねぇ」

「何だと!?」

「しょうがないよぉ。他の人達もゆってたけど、あたしに器量がないのが悪いんだから。自己責任、だよねぇ」


 まるで運命を受け入れているかのような口ぶりだが、俺には自分の心を守るために、あえて他人事のように語っているようにしか思えなかった。


「でもね、ここでの生活も最悪じゃないかなって。最初はね、また売られちゃったぁって落ち込んだけど、今はそんなに悪くないかなぁって思ってるのぉ。お給料は出ないけどぉ、ちゃんと食べ物や飲み物はもらえるし……ってごめんね! 今のユリちゃんにこんなこと言っちゃって」

「いや、気にすんな。お前は、囚人として入れられたって訳じゃあないんだな」

「そうだよぉ」


 その点にだけは少しだけ安堵する。

 囚人でなく下働きなら、簡単には処分されずに済むはずだ。


 メニマの他にも、俺を餓死させないよう、不定期ながらわずかな水を運びにくる下働きの人間は何人かいた。

 だがどいつもこいつも無愛想を通り越して人形みたいな連中で、こっちが何を訴えかけても完全無視を貫いていた。


 ……本当に良かったのか?

 笑うメニマを見ていても、素直にそうは思えなかった。


「これまで生きてて、要らない子だってゆわれることばっかだったけどね、ここはみんなが必要だってゆってくれるんだよねぇ。それが幸せ……うん、あれぇ? 幸せってなんだろねぇ?」


 とぼけているんじゃなく、メニマは本当に幸せの意味を分かっていないようだった。


「あぁ、でもねぇ、赤ちゃんにもう会えなくなっちゃった時は、悲しかったなぁ。いっぱい泣いちゃったなぁ」

「分かった、もう言わなくていい」


 何でそんな態度なんだと問い詰める資格も、そもそも憤る資格さえない。

 でも、これ以上喋らせたらダメだと思った。

 そして、彼女にこんな理不尽な運命を強いた存在全てが許せなかった。


 一番許せないのは、無力で、そういう存在と同類な自分だ。


「ごめんな、嫌なことを聞いて」

「謝るの禁止!だよぉユリちゃん。"ひぃろぉ"さんなんでしょぉ? 尚更謝っちゃダメだよぉ」

「……!」


 メニマは何気なく口にしただけなのかもしれないけど、俺の胸には物凄く鮮烈に響いた。

 ヒーローという、こっちの世界にはない言葉。


 そうだ、俺はヒーローになるんだ。

 ヒーローで在り続けるんだ。

 誓っただろ。

 他に誰に対してでもなく、自分自身の魂に。


 いつまでもウジウジ悩んでいたってしょうがねえ。

 何も解決しねえし、取り消せもしねえ。

 誰も助けられねえ。


 痛みは捨てなくていい。

 やったことを、なかったことにはできない。

 全部飲み込んで、もう一度立ち上がれ!


「……はは、そうだよな。俺、ヒーローになるんだよな」

「うん、そうだよぉ」


 自分以外の人間から言われたからこそ、立ち直れたんだろう。


「ありがとな、メニマ」

「ぅん? どうしてお礼言うのぉ?」

「恩人だからだよ」

「恩人?」

「なあメニマ。先入観とか出来る出来ないを取っ払って、正直に答えてくれ」

「なぁに?」

「お前、このままでいいと、本当に思ってるか?」

「え……」

「この大監獄から出て、自由になりたくないのか?」


 問うと、メニマの表情が、時の流れから切り離されたかのように、人差し指を唇の端に当てたまま固まった。


「…………」


 一切目を逸らさず、見つめながら待っていると、やがて唇や両目の間がピクピクと震え出し、


「……そりゃぁ、出たいし、自由にもなりたいよぉ」


 ポロリと漏らした。


「でも、でもぉ、期待しない方が楽なんだもん。今まで生きてきて、いいことなんてなかったしぃ。ほんとはね、王子様なんてあたしの所に来るはずないって分かってたよ。でもぉ……そ、そうゆう風に、か、考えて、ないとぉ……」


 笑顔を作ったまま、涙や鼻水を垂れ流すメニマのことを、おかしいだなんてとても思えなかった。

 こうでもしないと、心の器が持ち堪えられなかったんだ。


「に、にははは……ぐっ、ひぐっ……」

「助ける」

「には?」

「今の俺が言っても何の説得力もねえけど……俺はお前の王子様にはなれない。俺、好きな人がいるんだ。だけど代わりに、お前を救うヒーローになるよ。ちょうど今、お前が俺を救ってくれたように、俺がお前を助ける」

「ユリちゃん……」

「疑ってもいい。信じてくれなくてもいい。結果で証明するから」


 ヒーローって言っても、これは信念とか正義とか、そんな高潔なもんじゃない。

 もっと利己的で汚い……罪滅ぼしだ。


 決して簡単なことじゃない、いや、限りなく不可能に近いのは分かってる。

 でも、やらなきゃいけない。

 やるんだ。

 どんな手段を使ってでも、何を失ってでも……


 こいつを……救う!


「やっぱりねぇ。何となくだけど、分かってたよぉ。ユリちゃん、他に好きな人がいるんだろうなって」

「ごめん。あんなこと……」

「いいよぉ、ユリちゃんは悪くないんだってばぁ。聖都にいた頃は、奥さんや恋人がいるのに娼館街に来てる男の人、いっぱいいたよぉ……あれ、そうゆう問題じゃないねぇ、にはは。

 でも、いいなぁ。ユリちゃんに想われてる女の人は、幸せだねぇ」

「……どうだろうな」


 こんな甲斐性無しの、心がすぐ浮付く、情けない奴じゃあな。

 おっと、今は自分を否定してる場合じゃねえ。

 とりあえずこの窮地を……


「会いたかったぞ、ユーリ=ウォーニー!」

「ひゃっ!」

「あ?」


 不意にバカでかく響く、俺の名前を呼ぶ声に、俺もメニマも思わず飛び上がってしまった。

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