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64話『ユーリ、地獄の底で再会する』 その1

「…………ユリちゃん?」


 ……いや、幻聴じゃない。

 頭じゃなく、鼓膜を通じて聞こえている。


 しかも、覚えがある。

 間延びした喋り方、ふわふわした声……


 そして、俺のことをユリちゃん、なんて呼ぶ奴は、今まで出会った中で1人しか知らない。


「……メニマ!?」

「あぁ~、やっぱりユリちゃんだぁ! 本物だぁ! 久しぶりだねぇ!」


 この暗く狭い部屋の出入口、微かな灯りに照らし出されたのは、かつてフラセース聖国の聖都エル・ロションで出会った女だった。

 知っている人間の姿を、この大監獄の底の底で認識した瞬間、様々な思考がゴチャゴチャに絡まりながら溢れ出す。

 感情までもが邪魔をしてくる。


「お前、どうして……」


 やっとのことで紡ぎ出せたのは、曖昧な問いだった。


「ぅん? ユリちゃんにぃ、お水、持ってきたんだよぉ」

「いや、そうじゃなくて。何でこの監獄、しかも5層にいんだよ。まさか罪を犯したって訳じゃねえだろ?」

「してないよぉ。もしも娼婦が悪いことだったら、ダメだけどねぇ」


 歩み寄るにつれ、メニマの姿がはっきり目視できるようになる。

 最初見た時もかなり痩せ気味ではあったが、あの時よりも更に痩せ細ってしまっていた。

 頬はこけ、手足はやたら骨ばっていた。

 そして、癖の強い髪も、更にモシャモシャになっていた。


「にはは」


 だけど、ただ一つ。

 屈託のない笑顔だけは、全く陰ることなく、変わっていなかった。


 鼻の奥がツンとする。

 なんだこりゃ。どっちだ。

 同情してんのか?

 それとも、単に安堵してるだけか?


「はい、お水だよぉ。喉渇いてるでしょぉ? ちょっとしかなくてごめんねぇ」


 分からない。

 いや、分かってる。

 俺は同情よりも安堵を強く感じている。

 我が身を可愛がっている。


 体が上手く動かない。

 言葉が出ない。

 舌はもつれるばかりで、上下の歯がカチカチと軽く小刻みにぶつかり合う。


「……ぅっ」


 ダメだった。

 もう、抑え切れない。


「……ユリちゃん?」

「……ぁぁぁぁっ……」


 一体どこにそんな水分が残ってんだ。

 出したら勿体ねえだろ。

 そんな最後の抵抗も、まるで無意味だった。


 霞む両目から、止めどなく涙が溢れてくる。

 止まらない。止められない。

 全身が、ガタガタと震える。


 もう、前なんか向けない。

 虫みたく丸まることしかできない。


 情けない。

 こんな無様を晒して……保身を優先しちまって……弱くて……

 俺はもう……ヒーローなんかじゃ……


「うん、よしよし」


 そっと、体を包まれる感触。


「いいんだよぉ」


 頭を撫でられる感触。


 やめろ、やめてくれ。

 そんなに優しくしないでくれ。

 俺が俺でなくなりそうだ。

 全部が崩れてしまいそうだ。


「我慢しないで、いっぱい出して、スッキリしようねぇ」


 体を揺すって意思表示し、逃げようとしたが、包み込む強さが更に増すだけだった。

 恥ずかしさよりも、安心感が更に増した。


 全部が、許された気がした。

 想いが揺らいでしまうことさえも……


 ああ、すごく安心する……

 このままずっと、何も考えず、こうされていたい。


 ――グルルルル……


「あ……」


 図らずも安息を途切れさせたのは、俺の腹の音だった。

 深い安堵感が、緊張を緩めてしまったようだ。


 ふっと見上げると、メニマの笑顔がすぐ近くにあった。

 歯並びの悪さも、全く気にならない。

 それどころか、魅力的にさえ思えてくる。


「にはははは、やっぱりユリちゃん、お腹空いてるんだねぇ。そうだよねぇ、ずっとこんな所に入ってたら、お腹空いちゃうよねぇ。でもごめんねぇ、あたしじゃ、ここから出してあげられないの」


 メニマが、困った顔を作る。


「……あっ、そうだぁ」


 と思ったら、何か思いついたようにハッとした。


「あのねぇ、あたし、おっぱい、出るようになったんだよぉ」

「……え」


 今度は、俺がハッとする番だった。


「それでもちっちゃいまんまだけどねぇ、にはは。……はい、好きなだけ飲んでいいよぉ。お腹空いてるでしょぉ?」


 粗末な囚人服をはだけさせ、上半身をあらわにしたメニマ。

 その姿を見て、弱り切った体内器官が、少しずつ活力を取り戻していくのを感じる。


 血液が、特定の部位に集中していく。

 思考が、ある1つの目的を達成するために鋭さと熱を帯びていく。


 感じているのは、母性でも慈愛でもない。


「……はぁっ……はぁっ……」


 これは……俺が心の奥底では嫌悪していた――性欲。


「ユリちゃん? どうしたのぉ? もしかして、病気なのぉ?」


 死に直面すると、生物としての本能が一層強くなるという。

 本当にその通りだ。

 内側から、抑え切れないほどの荒々しい衝動が溢れ出ている。


 考えられない。

 見せかけの理性が剥がれ落ちていく。

 見ないふりをしてきた、醜い本性が表に出てくる。


 そうだ。

 こっちが本当の俺だ。

 今までの俺は偽物だ。


 腹は膨らんでいない。

 母じゃない。女だ。

 それで充分。


 気が付いたら、獣のように飛びかかり、硬い岩床の上に押し倒していた。


「えっ……えっ?」


 俺のすぐ下で、メニマは戸惑っていた。


 この先、どうやったらいいのか。

 雰囲気とか手順とか。

 分からない。

 どうでもいい。

 本能のまま、食っちまえばいい。

 例え拒まれ、抵抗されても……


「うん、好きにしていいよぉ」


 蠱惑的な囁き。

 聖都で知り合った時はいくら性的な主張をされても、魅力どころか笑いすら込み上げてきたのに。

 今はただ、たまらない。

 性病なんて、どうでもいい。

 貪って、貪って、ぶちまけてやりたい。

 平坦な胸も、浮き出たあばらも、くすんだ色の肌も、肉感的で豊満で、艶めいて見える。

 匂い立つ雌の香りが、更に掻き立てる。


 女だったら別に誰だって良かったんだ。

 捌け口になってくれれば。


 まずはこの小さな胸を存分に……


 ――ど、どうせわたしは大きくなんかないわよ!


「……は?」


 ちょっと待て。

 何で急にタルテのことを思い出した。


 あいつ、すぐにすねるし、結構怒りっぽいし、そのくせ内側に溜め込むし……

 いやだから待て。何であいつのことばっか考えてんだよ。


 おかしい。止まらない。

 またあいつの顔が次々と浮かんでくる。


 でも、いつもとは違って、悲しむ顔や泣いている顔ばかりだった。

 どうしてこんな……黙ってりゃバレやしないってのに。


 咎められている訳でもないってのに。

 勝手な妄想で苦しんでいるだけだってのに。

 あれほど激しかった感情が、体の昂ぶりが、俺を構成する全てがしぼんでいく。

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