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63話『ユーリ、5層における地獄の日々』 その5

 人間には環境への適応能力があるっていうが、嘘だ。

 どうあっても慣れようがない環境もある。


 延々と続く空腹感。

 辛い。

 思考力が鈍っていく。

 考えるのが面倒になっていく。

 原初の、本能的な衝動に塗り潰されていく。


 触れたい。

 食いたい。

 寝たい。


 もう、課される強制労働に対する感性も鈍り始めていた。


「久しぶりだな、小僧」


 そんな時だ。

 トチップスのジジイが、ニタニタと笑みを浮かべながら俺の前に現れたのは。


「おい、何とか言えよ。トチップスさんがせっかくいらしてるんだぞ!」

「よい、やめよ。……どうだ、5層の生活は。満喫できているか?」

「…………」


 声を出すのも億劫だった。


「余程堪えているようだな。無理もない」

「へい、お言いつけの通り、徹底的に可愛がってやりました」

「小僧、今日はお前に耳よりな話を持ってきた」


 芝居がかった仕草で、ジジイが指を鳴らす。

 すると、ガラガラと音を立てて何かが運ばれてくる。


「……!」


 く、食い物だ!

 上層の奴らしか食えないような……


「騒がしいぞ! 黙れ! 散れッ!」


 ジジイが、猿を含めてざわめき出す囚人たちに怒鳴りつける。


「全く、クズ共が……さて、ユーリ=ウォーニー。これを存分に飲み食いしたいだろう」


 んな訳ねえだろ、とはとても言えなかった。

 湯気を立て、香辛料をたっぷり効かせた香りを放つ巨大な肉、鮮やかな色彩の瑞々しい野菜、女の肌のように柔らかそうなパン……

 今にも飛びかかって、貪り食ってしまいそうだ。


「鈍り切った頭にも伝わるよう、分かりやすく言ってやろう。『もう2度とナトゥ様に逆らいません』『もう2度と他人に食い物をやるなんて言いません』と誓うなら、食わせてやるぞ。もちろん、これを全部だ」

「……っ」

「それだけではない。すぐにでも5層から出られるようにしてやろうではないか。もうこれ以上苦しい思いはしたくなかろう? 無意味な重労働をせずに済むし、体を綺麗にすることもできる。そして死刑を執行する必要も無くなる。得ばかりだぞ。どうだ、誓ってナトゥ様に服従するか?」


 目の前に差し出されたパンと肉が……もう……


「そうだ。手に取れ。食って誓ってしまえ。ククク……」


 もう……いいかもしれない。

 ここは嘘でも何でも、誓ったふりをして、生き延びることを最優先にしよう。


「…………」

「な……!?」


 ジジイの驚きを見て、俺も驚く。

 自分で取っていた行動に対して。

 脳を無視して、体が勝手に後ずさりしていたのだ。


「この……」


 しかも、喉から舌といった部分まで勝手に動き始める。


「この……絶対正義のヒーローを……なめんなよ。こちとら、一回……餓死してんだ。誰が……誓うかよ」

「……小僧、今、何と言った?」

「何度も……言わすんじゃねえ。頭だけじゃなくて、耳も悪いのかよ……ジジイ」

「……この、愚か者めが!」

「ぐはっ……!」

「後悔するなよ小僧! 今の所業、ナトゥ様に――」


 腹で蠢く激しい不快感と、胃液さえ吐き出せない苦しみと同時に、俺は確実に幸福感も味わっていた。


 どんな美酒美食でも得られない幸福。

 最後の俺の拠り所。

 俺の信念だけは、まだ穢れていなかったのを確認できたから。






 だが、状況は確実に悪くなった。

 ジジイを突っぱねた時以来、次の日も、その次の日も、わずかな水以外、一切のものを口にできなかった。

 そして、懲罰の時のような、暗く、狭く、人も害虫もいない、何もない空虚な部屋で、裸のまま、何もなく、延々と待機させられていた。

 どうやら今度は"動"じゃなく"静"で削りに来たらしい。


 いや、今度こそ俺を殺す気かも知れねえな。

 どうするつもりだろう。

 このまま衰弱死か? それとも野次馬たちの前で死刑執行か?

 あるいは"処分の宴"要員か?

 いずれにしても、大して変わんねえか。


 ……どんな末路にしても、怖いものは怖い。

 苦痛や死への恐怖を完全に捨てることは、できない。


 身体も、心も、命も、己を構成する全てがほとんど削られていた。

 ダシャミエを探さなければ、という気持ちも、大分弱くなっていた。

 唯一の救いは、信念を守り抜いたまま死ねるかもしれないことか。


 どうせ死ぬくらいなら一か八か、餓狼の力を使ってみようかという思いが頭をよぎる。

 だが、まだできなかった。

 まだやれると、頭のどこかから声がする。

 死が確定する直前まで諦めるなと声がする。

 そうだ、希望は捨てねえ。

 

 もし本当にダメそうだったら……その時は、大臣でも誰でも、一人でも多く道連れにしてやる。


 今は耐えて、頑張れ。

 狂うな。正気を維持しろ。

 きっとアニンやシィスも今、このしんどい監獄のどこかで頑張っているはずだ。

 幸い5層にはいないみたいだけど、ちゃんとダシャミエを探れているだろうか。

 仇に対して無謀な戦いを挑んじゃいないだろうか。

 ……俺も人のことは言えねえな。

 無事でいるだろうか。


 飢えているのは、食べ物に対してだけじゃなかった。

 安心できる寝床、睡眠……

 何より、人の掛け値ない優しさや親切、温もりが欲しい。


 寂しい。

 この辛さを、聞いて欲しい。


 常時朦朧としている意識の中、浮かんでくるのは、同じ監獄内にいるはずのアニンやシィスのことじゃなかった。

 浮かぶのは……あいつの……タルテの顔だった。


 笑った顔。

 怒った顔。

 すねた顔。

 悲しい顔。

 優しい顔。

 全てを包み込んでくれるような顔。


 こんな状況でも、未だ色褪せることなく、ぼやけることなく、まるで目の前にいるかのように明確に思い描ける。


 会いたい。

 お前に会いたい。

 会えたら、言いたい。

 言えなかった気持ちを――


 そうだ。

 言いたいことも言えずに死んでたまるか。

 受け入れてもらえるかどうかは別問題だけど……

 死ぬのは、あいつに想いを伝えてからだ。


 ……やっぱり、あの時一旦、信念を……


「……リ……」


 え?


「……ユ……リ……?」


 幻聴か?

 どこからか、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

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