63話『ユーリ、5層における地獄の日々』 その4
「おい、大丈夫か。……誰か! 薬持ってねえか!? あと医者呼べ医者!」
闇雲に言ってる訳じゃない。
きっと医者がどこかにいるはずだ。
実は先日、俺も原因不明の伝染病にかかってとんでもない目に遭ったからだ。
なのにどうして今はこうして無事でいられているのか。
答えは単純、知らない間に薬を投与されたからだ。
これも食事と同様、きっとあのブタ大臣辺りが、簡単に俺を死なせないために薬を与えるよう指示したんだろう。
「早く呼べっつってんだろ! 死んじまうぞ!」
誰も耳を貸さないどころか、嘲笑されるだけだと分かっていても、言い続けずにはいられなかった。
「おい、しっかりしろ! 気を強く持て!」
苦しんでるこいつに対してもだ。
気休めにもならないのは承知しているが、何もしないよりはマシだ。
助けたい、力になりたいという気持ちを捨てられない。
……そうするのは正直、俺自身が救われたいからだ。
どんな相手でもいいから、人との繋がりが欲しいと。
「げほっ、げほっ……ぇぇぇっ!」
しかし、これまでの経験で分かる。
この男は……もうダメだ。
仮にグリーンライトが使えたとしても、病気相手ではどうにもならない。
今の俺にできるのは、うなされて虚空に伸ばされた手を握ってやることぐらいだった。
俺だって万能の神様じゃないし、救えなくても仕方がないと、意識の表面で思ってはいる。
なのに、自動的に心の底へ罪悪感が蓄積されていく。
救えなかった無力感が、刻み込まれていく。
男の命が段々とか細くなっていって……やがて、消えた。
「おい、クソ虫」
男の死と拍子を合わせて、猿が声をかけてきた。
「いつもみたく片付けとけ」
何をだ、と尋ねるまでもなくなっていた。
そう、誰もやりたがらない死体処理も、突然命じられる仕事として押し付けられている。
「くそったれ……」
情けないくらい震えている両脚を、必死で前に動かす。
精神的な意味での穢れは、割とすぐに慣れた。
というか今の環境自体が物理的に汚れすぎていて、気にしている場合じゃない。
脚が震えているのは、体力や筋力が落ちている上、単純に背負っている死体が重いからだ。
この5層に、墓場なんてお上品なものは存在しない。
死んだ囚人は全て、"自由への道"と呼ばれている場所で葬る決まりになっている。
とんだ欺瞞に満ちた命名だ。
"自由への道"とは、監房となっている空洞と隣接した場所にある地底湖だ。
狭く、真っ暗な穴を通り抜けると、小さな空間に出る。
天井は3~4メーンほどと低く、ほとんどが水で覆われている床面積もさほど広くはない。
暗闇のせいか元から濁っているのか、水は底の見えないドス黒さで、この5層を象徴しているように思えてならない。
これまで数え切れないほどの死者を飲み込んできたはずなのに、不思議と何の臭いもせず、そして誰一人として浮かび上がってきてもいない。
どうなってるんだ。
この水底には魔物か何かが棲んでいて、放り込まれる端から死体を跡形もなく食らっているんじゃないだろうか。
気にはなるが、確かめようとは思えない。
それよりも……ゴクリと、本能的に喉を鳴らしてしまう。
無害そうだから、飲んでも差し支えないんじゃないかと、頭のどこかから囁き声が聞こえる。
「……それは無しだっつってんだろ」
頬を強く張って、何とか踏み止まる。
下手打って死にでもしたらどうする。
もっとも、今後も耐えられる保証はないが。
渇きの恐ろしさは体験済みだからな。
いざとなれば雑巾から絞った水だろうが、自分の血や出した小便だろうが、何でもいいから飲みたくなってしまう。
そう考えると、今はまだ理性が働いている分大丈夫かと、欲望を制御することができた。
さて、弔ってやるか。
花も線香もないけど、悪く思うなよ。
代わりに死体を沈める前、いつも合掌するようにしている。
前世から現在に至るまで、特定の宗教を信仰してる訳じゃないけど、大事なのは心のこもり方だろう。
誰にも悼まれないってのも可哀想だからな。
……何よりそうするのは、俺自身が人間をやめないための防衛手段でもあった。
短い祈りを捧げ終えた後、少しずつ冷たくなり始めてきた男の体を、暗黒の湖へ放り込む。
派手な水しぶきが上がり、すぐに沈んで見えなくなっていく。
あっちの世界へ行けるかは分からねえけど、もし上手く行ったら次はマシな人間に生まれ変わって、飢えとは無縁の人生を送れるといいな。
死体の処分だけでなく、時には俺自身が囚人の命を奪うよう強要されたこともあった。
死刑の執行……最も辛い強制労働だった。
監獄である以上、死刑の執行があるのはごく自然なことだが、その仕組みがいささかいびつだった。
基本的に死刑が行われるのは3層以下の囚人に限られてて、執行するのは監獄側の人間だが、5層に関しては囚人同士でやらせることもあるようだ。
不満逸らしのため、監獄側の人間の手間を省くため、娯楽のため。
そして、執行される側とする側の両方に精神的苦痛を味わわせるため……
5層の死刑執行施設は監房洞穴のすぐ近くにあり、見世物になるよう、観覧席が歌劇場のような構造で周囲に設けられている。
あらゆる階層の囚人から、歓声と狂騒、非難と野次を浴びながら、俺は殺した。
何人も、何人も――
手段は様々だ。
切れ味の悪い斧で首を斬らされたり、磔にされた囚人の足元に火をつけさせられたり、手足を拘束された囚人の顔を死ぬまで水に浸けさせたり、素手での絞殺を強要されたり……
気に食わない奴らだったら特に罪悪感もなく、少しは溜飲も下がっただろうが、執行相手はそれらとはまるで真逆の人々、しかも女ばかりだった。
相手は死刑囚なんだからしょうがない。
俺がやらずとも、遅かれ早かれ死ぬ身なんだ。
別に人間を殺した経験がない訳じゃない。
かつては"人切り包丁のユーリ"なんて呼ばれてたこともあるくらいだ。
…………。
……なんて言い聞かせても、ダメだった。
凄まじい嫌悪感、抵抗感が、嘔吐という物理的な現象を伴ってやってきて、死骸を食い散らかす何万何億の蛆のように心身を蝕む。
心の中で「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も詫びながら命を奪っても、何の慰めにもならなかった。
むしろ、どうして今までの俺は大丈夫だったんだ?
俺は、おかしかったのか?
女としての面影をわずかしか残していない汚れきった顔が、媚び、憎しみ、呼吸できない苦しみ、死への絶望――混沌でグシャグシャに歪む過程を至近距離で見ていても、答えは得られなかった。
分からない。
誰か教えてくれ。
前世の記憶を取り戻した時点で、俺の魂はもう穢れきっちまってたのか?
執行を終えたその足で"自由への道"に向かい、死体を沈めた後、漆黒の水に問いかけてみても、答えはなかった。
答えがないどころか、敵からの追い込みは容赦なく、終わりなく続く。
生かさず殺さずでは緊張が解けるとでも考えているのか、時折深い理由もなく懲罰を受けさせられることもあった。
懲罰にあたり、毎回もっともらしくも実際は薄っぺらい理由が付加される。
直近の言いがかりは、死刑の執行に遅滞があったからというものだった。
こっちの世界は魔法や薬などの回復手段が充実しているからか、肉体より精神を痛めつける拷問が多いようだ。
具体的には、狭く、暗く、寒い場所にずっと裸のまま立たされたり、眠らせないよう、何日も延々と邪教の説法を聞かされたり……
感覚が麻痺していくのに、痛みや寒さ、熱といった不快感はハッキリ残るのを初めて知った。
それと、前世でも味わったが、苦しいまま体感時間が引き伸ばされるのはやっぱり地獄だ。
死ぬんじゃないかというより、死ねないんじゃないかという考え方の方が遥かに苦痛で、恐ろしい。
ただ、死刑の片棒を担がされるのよりはマシだった。
傷付くのは自分だけだから。