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63話『ユーリ、5層における地獄の日々』 その1

 どこか怪物の遠吠えにも似た鐘の音が、過酷な1日の始まりを告げる合図だ。

 この音を聴くたび、憂鬱な感情が浮かび上がるようにすっかり条件付けされてしまっていた。


 落とされてからどれだけ日数が経ったか、よく覚えてはいない。

 嫌というほど思い知らされているのは……5層での生活は、苦しかったってことだ。


「オラッ、いつまで寝てやがるゴミ虫! とっとと起きやがれ!」


 怒声と共に頭部目がけて飛んできた蹴りを、痛みが最小限になるように受ける。

 避けたり防いだりすれば逆上されて、更に不利益を被るのを"学習"したからだ。

 それ以前に、当たらないようにするのも億劫になってきていた。


 こめかみに走る痛みを感じながら、デコボコした固い岩から身を起こす。

 寝床なんて到底呼べない所だが、それでもここでまだ寝ていたいという気持ちが、心を支配している。

 ……作業、行きたくねえな。


 眠気というより、疲れが取れない。

 体が重い。

 睡眠時間が短く、眠りの質も悪い。


「さっさとしろこのクソ虫! 今日もまた、たっぷり仕事をしてもらうからよ」


 同じ5層の囚人だってのに看守面しやがって。

 もっとも、こいつだけに限った話じゃないが。


「まずは眠気覚ましに、いつも通り便所掃除をやってもらうかな」


 断ると私刑にかけられる。

 さりとて素直に肯定もできない。

 逡巡している内に、なし崩しにやらざるを得なくなる。


「他の連中が使う前に、きれ~いにしとけよ」


 亡者のように蠢き出す囚人たちの間をすり抜け、空間の片隅に設置された便所へと向かう。

 以前、あのクソ大臣の腰巾着から聞いたように、5層には監房というものがなく、空洞をそのまま使って囚人たちを押し込んでいる。

 他の連中が朝メシを受け取りに行く間、俺は掃除をさせられるって訳だ。


 ここに来るたび、重たい気が更に重たくなる。

 こんな場所、便所だなんて到底呼べねえだろ。

 空洞の端に出来た亀裂に穴を開けた木の板を通し、そこから用を足すようになっている、極めて粗末な作りだ。

 人目を遮る仕切りなんてものは存在しない。

 排泄という極めて私的な行為でさえ隠せないなんて、人権も何もあったもんじゃない。


 亀裂がどのくらいの深さなのかは分からないが、激しい不快感を催す悪臭が、暗闇から絶え間なく湧き上がってくる。


 掃除というのは、この木の板を綺麗にすることを指す。

 みんなちゃんと狙いを付けないうえに大小兼用だから、そりゃもうよろしくないことになっている。

 一体どこから現れるのか、不快害虫もお伴にくっついている。


 何よりふざけてるのは、道具を使わず素手でやらなければならないって点だ。

 こんなもん道具や洗剤を使っても落ちる訳がねえだろと、いつも思う。

 奴らの目的が本当に清掃を意図してるんじゃなく、単に俺へ嫌がらせをしたいだけだと分かっていても。


 なので、クソ真面目に掃除をやったりなんかせず、フリだけで済ませるようにしている。

 どうせ連中はそこまで見ちゃいない。

 適当に苦しんでいる演技でもしときゃ、勝手に溜飲を下げてくれる。


 偽りの掃除が終わると、他の囚人がぞろぞろとやってきて、大小問わず用を足し始める。

 誰も彼も、周りの目なんか気にしちゃいない。

 まるで家畜の群れみたいだと、一段と濃くなった悪臭を嗅ぎながらいつも思う。


「おーいクソ虫! また汚れちまってるだろうから掃除しとけよ!」


 背中越しに声が降りかかる。

 これもまた、いつものことだ。

 奴らはわざと囚人が便所を使う前に掃除をさせ、そして大勢が使い終わった後にもう一度掃除をさせてくる。


 ま、真面目にやったりなんかしねえけど。

 この時点では、奴らも基本的には監視が緩い。

 何故なら今の時間帯は朝メシで、俺をいじめて愉しむより、自分の空腹を紛らわせる方を優先してるって訳だ。


 向こう側から、喜びや怒りなど、様々な感情が入り混じった声がする。

 また少ない食い物を奪い合ってるんだろうな。

 振り返る気も失せる。


 一度止めに入ろうとしたら、全員から物理的に袋叩きにされ、散々な目に遭ったことを思い出す。

 あれ以来、無策で止めに入ろうとは思えなくなった。

 黙って見過ごすのは自分の信念にもとる行為であるってのは重々承知してるが、結果を出せなきゃ意味がない。


 餓狼の力が使えれば制圧も容易いが……生憎5層に堕ちて、着ていた衣服を奪い取られても、この首輪までは取られなかった。

 ついでに外してくれりゃいいのに。




 掃除が終わるか終わらないかを決めるのは便所の状態ではなく、お目付け役様の御心次第だ。


「あ~美味かった。悪いなぁ、おめえの分、無くなっちまったよ」


 戻ってくるなり、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて言う。

 機嫌がいいってことは、今日は上手く食糧を確保できたんだな。


「便所は……おい、綺麗になってねぇじゃねぇか」

「……すいません」


 このやり取りも日常茶飯事だ。

 機嫌が悪い時はもっとめんどくせえやり取りが増えるが、今日はとりあえず大丈夫だろう。


「ま、いいや。行くぞ。今日もしっかり働いてもらわねえとなぁ?」


 案の定だった。

 にしても、どうしてまあ抜け抜けとほざけるんだか。

 お前だって労働させられる身だろうが。

 下に見られる人間ができて、あっちの世界で言う所の贖罪の山羊ができてそんなに嬉しいか。

 おめでたいこった。


 心の中でとはいえ、こんな悪態をつけるなら、まだ大丈夫だと自己分析している。

 だが、いつまで持つかは分からない。

 重ね重ねになるが、柄にもなく未来が不安になっちまうくらい、この後待ち受けている"労働"は、本当に過酷だった。




 今日は一体何をやらされるんだか。

 一向に麻痺してくれない空腹感に苛立ちながら、ゾロゾロと亡者の行進の如く作業場へ進んでいく囚人の列の最後尾に加わってみたが、すぐさま後頭部を殴られて引き離される。

 この時点で「ああ、今日はあれか」と察しがついた。


 監視役の男や看守に連れられ、囚人の列とは全く別の方向――更に地下へと潜っていく。


「おめえもバカな奴だよなぁ。ナトゥ様に逆らわなきゃ、1層で快適な監獄生活が遅れてたのによぉ」

「……」


 背後を歩く男が俺の背中を突っつき、嘲笑って言う。

 看守が私語を咎める様子はない。

 でも俺が口を開けば、こいつらは俺だけを殴ってくる。

 なので黙らざるを得なくなる。


「何とか言えよ、おめぇよぉ!」


 強くなり始める背中の痛みに耐えるべく、意識をそらす。


 5層に落ちてそれなりの日数が経過したが、あれ以来ブタ大臣の姿を見ていない。

 腰巾着のジジイの方は時々やってきて、最初の時の慇懃さはどこへやら、敬語も使わず嫌味を言ったりしてきていた。

 どこまでも小物だ。覚えてろよクソジジイ。


 で、ブタ大臣やジジイの代わりに張り切って俺をいびり倒してやがるのが、起きるなり俺にちょっかいかけてきたこいつ……名前は何だったっけ。

 そういや聞いてないな。覚える気もないけど。

 どことなく猿っぽいから猿でいいや。

 この猿がわざわざ付きっ切りに近い感じで俺の"お世話"をしていらっしゃるのは、ブタからの命令だろうか。

 命令といえば、俺に"特別に"回されるのが特にきつい仕事ばかりなのは、きっとそういうことなんだろう。


 考えているうちに、仕事場へ到着した。


「5層囚人、ユーリ=ウォーニー! 本日貴様に与える仕事は、この場所の掘削作業である! 直ちにかかれッ!」


 小さな火石の欠片が頼りない灯を散らす、暗く広い洞穴に着くなり、看守がバカでかい声を響かせ、命令してくる。

 がらんとした空間に、俺以外の囚人(猿もそうだが)はいない。

 あるのは、錆び付いてボロボロのつるはしや、穴の開いた手押し車といった、道具とも呼べないようなガラクタばかり。


 こんなもんで作業なんかできるわけねえだろ。

 とは思わない。

 何故なら、今から俺がやらされるのは、作業とはとても言えない……

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