59話『アニン、復讐の剣を放つ』 その3
この時俺の中に湧き起こった感情は、驚きと言うより、納得に近い。
欠けていた嵌め絵が全て当てはまったような……
やっぱりあの男は、皇子だったのかと。
「理解出来ぬか」
「いえ。ロト……ジャージア様が、父君であらせられる陛下を暗殺しようとしているのは一種の親孝行。子として父を超えるため、そして何より、より強い者が上に立ち、より強い国を造るため。それを感じ、陛下は喜んでいらっしゃるのでしょう」
「その通り。弱き者は強き者の糧となり、またその者も更に強き者の糧となる。この摂理に則ることでツァイは成長してきたのだ。他国の王共は"破滅を齎す考え"と理解を示さぬがな。いや、理解出来ぬのか」
今のやり取りは事前に教えられてはいなかったものの、その辺の考え方についても、納得はできないがもう頭では理解できていた。
「ホーッホホホホ!」
一人満足げに頷いていると思ったら、今度は突然、口に含んだ食べ物を卓上に撒き散らしながら甲高い笑い声を発する。
「その方、頭の巡りも悪くはないな。気に入ったぞ!」
「恐縮です」
「その方ら、我が配下になれ」
来た。
ここからがそろそろ本題、山場だ。
「そこの女2名もだ。片方とは戯れておらぬが、これまでの所作のみで凡愚でないことは分かる。案ずるな、朕の夜伽などさせぬ」
「……大変光栄なお話ではありますが、お引き受け致しかねます」
「そう答えるよう、予め命じられているのであろう」
色々な意味でとっくに見透かしているんだろう。
皇帝はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「だが今の言葉は、息子の描く物語に付き合ってやったゆえではなく、朕の本心と理解せい」
は? 何だって?
「重ねて命ずる。心して答えよ。その方ら3名、我が配下になれば、その力に応じた望みの地位、金、望むがままくれてやろう。今の言葉を脳裡に焼き付けた上で、選べ」
この俺やアニンが、地位や金なんかでホイホイ裏切ると思ってんのか。
ましてや大切な奴らが人質に取られてんだぞ。
「……」
答えは決まっているのに、心臓の高鳴りや、体中に滲む汗、背骨そのものに来る寒気が抑えられない。
それほどに、卓を挟んだ向こう側から押し寄せてくる、皇帝の無言の圧力は凄まじかった。
「ふん、見上げた忠誠心よな。それとも、近しい者を虜囚の身にでもされたか」
返答に窮している俺達を見て、皇帝はつまらなさそうに言う。
「……!」
「憂いとならぬよう、朕が手を下すか?」
と、次の瞬間、凄まじい殺気を放ってきた。
何だこのドス黒さ……今まで会った誰よりも……!
俺の体を含めて、空間全体が小刻みに震えて……!
まるで殺気が鬼や悪魔の形を取って、はっきり目視できるみたいだ……!
「ッ!」
皇帝がいきなり、手元にあった空の取り皿を俺に投げつけてきた。
が、反射的に腕をかざすことで顔面への直撃だけは何とか阻止できた。
どうして動けたのか、はっきりした所は自分自身分からない。
強いて言うなら、生存本能、といった表現が一番近い。
「ほんの戯れよ。楽にせい」
ふっと、皇帝が殺気を解いた。
震えが止まり、空気も軽くなる。
「替えの効かぬものまで簡単に処断しては、真に強靭な軍は作れぬ。完全に恐怖に拘束されずにいた点は褒めて遣わす。それに免じ保留とする」
正直、先程の兵士のような目に遭わされるのではないかと危惧していたので、安堵する。
それと同時に、食器を投げんじゃねえよという思いが込み上げてきて、すぐ言えなかった自分が嫌になる。
落ち着きが戻ってくると視野も広くなって、目につかなかったものが気になってしまう。
すなわち、皇帝の食べ方の汚さ。
お世辞にも綺麗だとは思えない。
尊き身分のお方ってのは、その辺の作法は完璧だと思ってたんだが。
しかしいくら俺でも、この状況でそれを指摘できる勇気はない。
「話を変える」
ずずと汚い音を立てて羹を啜っていた皇帝が、いきなりそんなことを言った。
それは別に問題なかった。
問題だったのは、
「それにしても不味い」
無造作に匙を放り投げた上に、咀嚼していた口中の食べ物を、痰みたく床へ吐き捨てたことだ。
「火を通しすぎな上、塩も多い。作った料理人は死刑だな」
今、目の前の人間は、何をした?
ふつふつと急激に、俺の中で耐え難い怒りが沸騰し始める。
恐怖はほぼ上塗りされていた。
「いかがした」
敏感なことに、こっちの気配に気付いたみたいだが、どうでもいい。
「……食べ物を粗末にして、いいと思ってるんですか」
「ユーリ殿」
「ユーリさん」
左右から諌める意味合いの声色が耳に入る。
堪えた方が得策だってのが分からないほど馬鹿じゃない。
でも、どうしてもこれだけは我慢ならなかった。
我慢してはいけないと思った。
「何故怒っておる」
「これだけの料理を、こんな真夜中に作るのに! 一体どれだけの人間が! どれだけの労力をかけたと思ってるんですか!」
「知らぬな。全人民の頂点に座す朕が左様な些事、把握する必要もなかろう」
「些事も匙もねえんだよ! そんなことも把握できねえ奴が皇帝なんか名乗んな!」
「ユーリさん、まずいですよ……!」
「うっせえ! こいつは食い物を吐き捨てやがったんだぞ! 許せるか!」
「朕の行いに関係なく、この料理が下々へ行き渡ることなど無いのだぞ」
ダメだ。分かってたけど、根本的な価値観が違いすぎる。
ハナから説得できるなんて思ってねえが……喋ってるだけでますますムカついてくる。
「そちの怒りの源泉、朕には凡そ理解し難いが……押し通したくば、力で従わせてみせよ」
上等じゃねえか。
それがツァイ流なんだよな。
だったらお望み通り……
「ッラァッ!」
レッドブルームをたらふく頬張れるよう、顔面にぶっ放す!
火事がどうとか関係ねえ。
喉も胃袋も、炎で満杯にしてやる!
餓狼の力は空腹感と比例するから、怒りで威力が底上げされる訳じゃないのは忘れていない。
メシを食わされて効果が落ちた分は、回数で補う!
「へ、陛下!?」
突然、主君の顔面が炎で包まれるのを見て、控えていた給仕が激しく動揺し始める。
悪いが気を配ってる場合じゃねえし、精神的にもあまり気にしてられねえ。
この野郎だけは許せねえ!
貴腐血統もろとも蒸発させて……
「良い。下がっておれ」
皇帝の静かな声が、何とか消火しようと駆け寄ってきた給仕を制した。
まさか……レッドブルームでも仕留められねえのか!?
「くそっ……!」
皇帝を包んでいた炎が、段々と消えていく。
俺が手を抜いた訳じゃない。
恐らく、貴腐血統の超再生力が原因だ。
「よもや斯様な切り札を隠し持っていたとはな。それもそちが持つ力の一端か。中々に美味だったぞ。この料理よりもな」
嫌味のつもりかよ。
こうなるのを分かっていたのか、アニンは剣を抜くどころか席を立ちもせず、無言で皇帝を見据え続けていた。
完全に消火し、露わになった皇帝の顔には、軽い火傷さえなかった。
「朕に心中怖気づいていたかと思えば、そのような度し難い理由で怒り、刃向う。ホホホ、面白い。ますます気に入った」
怒ったり咎めるどころか、皇帝は嬉しそうに甲高い声で笑う。
度し難いのはこっちの方だ。
「陛下、発言をお許し願います」
話す機を窺っていたのか、アニンがらしくもない神妙さでそっと言葉を差し挟んだ。
「ホホホ……む? 申してみよ」
「陛下は、ドルフの名を覚えておいででしょうか」
「……懐かしい名を出しおる」
笑いの余韻を残しながら、皇帝は酒の入った杯を一気に傾け、大げさに息を吐く。
アニンは別段不快感を出すことなく、皇帝を見つめたまま、静かに告げた。
「申し遅れた事をお許し下さい。我が名はアニン=ドルフ。かつて前皇帝に仕えし、ヤウゴ=ドルフ将軍が一女にございます」
わずかな間、皇帝が思索する素振りを見せる。
そしてその後、突然これまでより更に甲高い声でバカ笑いし始めた。
「……ホーッホホホホ! そうか、そちはドルフ将軍の娘か! 道理で同じササ流を用い、太刀筋も似ている訳だ。ホーホホ! 愉快愉快! ドルフ家の者が、こうして再び我が命を奪いに現れたとは……まこと悦ばしいぞ!
誇りに思えい。父も中々の達人だったが、先刻のそちは確実に父を超えていた。ドルフ将軍も生きておれば、素晴らしい孝行娘を持てたと喜んでいたであろう」
飲食も忘れるほどに皇帝がまくし立てるのを、アニンは静かに傾聴していた。
「だが、仇討ちに訪れるには、些か遅すぎるのではないか。そこまでじっくり刃を研がねばならぬほどなまくらだったか」
「……本心を打ち明けますと、陛下に対し、さほどの恨みを抱いてはおりませぬ。怨恨よりも、幼少の私にとって高き壁であった父を討った陛下を超えたい、という感情の方が上回っていたのです。とはいえ、我が剣が未熟で鈍いが為、長い時をかけて陛下をお待たせしてしまった事を否定は致しませぬ」
「偽りを申してはおらぬようだな」
「私とてツァイの民であり、帝国の禄を食む将軍であった父に育てられた身。帝国に根差す摂理、理解出来ぬ訳ではございませぬ」
それを聞いて、ずしりと、胸に重しを乗せられたような気持ちになる。
アニン、お前もなのか?
やっぱりお前も、これまでは単に義理で付き合ってくれただけで、本質的には変わってなかったってことか?