59話『アニン、復讐の剣を放つ』 その1
どうして今俺達は、こんな状況に身を置いているんだろう。
「遠慮は要らぬ。存分に味わうが良い」
暗殺するはずだった相手から、何のお咎めも無しに、食事を振る舞われている。
おかしい。どう考えてもおかしい。
困惑しているのは俺だけじゃない。
アニンやシィスも同様だ。
経緯をざっとおさらいしてみる。
ロトの屋敷を出て、特別な経路を辿って帝都の外へ移動して、秘密の抜け道へ入って……
そう、潜入自体はすんなり進んで、宮殿の奥深くにある皇帝の部屋に着くまでは上手く行ったんだ。
問題はそこからだった。
「朕の命を盗りに参ったか」
「!?」
何と、部屋にはまだ灯りがついてただけじゃなく、眠っているはずの皇帝がしっかり目を覚ましていたんだ。
しかも平時着ていると思われる、数多の金銀宝石を散りばめた丈の長い衣服や冠を身につけたまま。
まるで俺達が来るのをあらかじめ知っていたかのようだ。
「ほう、今宵の客は中々の手練れのようだな。ジャージアめ」
どうなってるんだ?
目でシィスに尋ねるが、困惑した視線の揺らぎが戻ってくる。
計画が既にばれていたのか、もしくは裏切り者が……?
いや、んなこと考えてる場合じゃねえ。
さっさと仕事を済ますか、もしくは逃げ……
「退くでない。朕の命、奪いに参ったのであろう。来るが良い」
えっ?
「兵どもを呼んで捕えなどせぬ。久しぶりの戯れだ、存分に朕を愉しませい」
小柄で肥満体型な皇帝の口から放たれたのは、まるで予想もつかない言葉だった。
妙に高い声、抑揚のついた口調で、挑発するように暗殺を催促してくる。
意味が分からない。
空白の皿からはこんな情報、提供されなかったぞ。
……違う違う、だから余計なことを考えるな。
この状況、考えようによっては好機だ。
というかどの道やらなきゃ後がない。
よし、皇帝には悪いが、いきなりレッドブルームで攻撃して……
「すまぬ」
ブルートークを使ってないというのに、俺の考えを読んだかのように、アニンが一歩前へ進み出た。
「先の打ち合わせ通り、まず私に任せて欲しい」
「んなこと言ってる場合じゃ……」
「頼む」
言うと同時に、腰の剣を抜き放つ。
ダメだ、あれは聞き入れない目だ。
……しょうがねえな。
手で返事を伝えると、アニンは細めていた目をわずかに緩め、
「感謝する。"血"に巻き込まれぬよう、2人は"盾"で身を守っているがいい」
"盾"が何の隠語かはすぐに分かった。
「貴腐血統も知っているようだな」
「皇帝陛下、我が剣にて、御命頂戴仕る」
「心地良い闘気だ。愉しめるのならば人数は問わぬ、さあ女剣士よ、朕に仮借なく致命の太刀を浴びせい。そして、この穢れし血にて簡単に死してくれるな」
「御心配には及びませぬ。貴腐血統への備え、怠っておりませぬゆえ」
「ホーッホホホ、そうかそうか! 尚の事愉しみであるぞ!」
アニンの言葉はハッタリじゃない。
計画実行までの猶予期間に種明かしをしてもらったんだけど、答えは、チョラッキオの市場で買った壺だ。
実はあれ、特殊な道具らしく、中に自分の血を入れてしばらく寝かせ、それを飲み干すことで、"血"に関わるあらゆる毒や魔法などに対する耐性を獲得できるらしい。
ライクのおっさんが使った"血詰めの呪詛"を無効化できたのもそのためだ。
定期的に続けないと免疫が消えてしまうらしいが、貴腐血統をも無効化できるほど強力なんだとか。
確か売ってくれたおっちゃんはフラセースの遺跡で見つけたって言ってたけど、本当はツァイで作られたものらしい。
貴腐血統を持つ権力者を討つためか、或いは権力者が"血詰めの呪詛"などによる暗殺から命を守るためか、作られた理由まではアニンにも分からないそうだが。
『この壺と出会えたのも、天の導きかも知れぬな』
そんなことを言っていたのを、ふと思い出す。
とにかく、アニンが貴腐血統でやられることはない、というのだけは事実だ。
ここはひとまず防御に徹し、黙って見守るしかない。
ちなみに過程の関係上、壺1つにつき1人しか耐性を得られないため、俺達が恩恵にあずかるゆとりはなかった。
闘気こそ放っているものの、アニンは冷静なようだ。
父親を死に追いやり、家族が散り散りになる原因を作った大元と相対しても、怒りに身を任せず、いつも通り凪いだ湖面のような精神状態を維持している。
大したもんだ。
もし俺があいつの立場だったら、あんな風に落ち着いていられる自信はない。
「来るがいい」
「参る」
しかしその後繰り広げられたのは、絶句するような展開だった。
「いかがした」
「……!」
悪人だろうと魔物だろうと、これまであらゆる敵を斬り、制圧してきたアニンの剣が、皇帝には全く通用しなかったのだ。
電光の如き速さと疾風の如き鋭さを併せ持った剣が、かすりもしない。
事前に聞かされてはいたものの、皇帝の実力が、まさかあれほどにも凄まじいとは。
「相当の修練と実戦を重ねたのであろう。悪くはない。だが、これでは到底朕の命には届かぬぞ」
あまつさえ、首に迫った剣を白刃取りしてさえ見せた。
一見背の低い鈍重そうな肥満体、しかも糸目のオッサンにしか見えねえってのに、とんでもねえ相手だ。
「この太刀筋、ササ流だな。"技"はどうした」
しかも流派の特定まで……こりゃあやばいんじゃねえか?
「流石は陛下、御慧眼、感服致します」
でも、アニンは一切の焦りを見せなかった。
力を込めた両腕をギリギリと震わせつつも、余裕を含ませた言葉まで吐いてみせた。
「下らぬ世辞はやめい。これほどの技量と気を持ちながら使えぬ訳ではあるまい。出し惜しみで朕を愚弄するのならば、その首を……」
皇帝の言葉が、途中で止まった。
……えっ、何が起こった?
俺自身、その原因を理解するのに時間を要してしまった。
結果だけを語ると、アニンが、掴まれていたはずの剣を、一瞬の内に皇帝の体へと食い込ませていた。
解せないのは、その過程だ。
ガッチリ白刃取りされていて、容易くは動かせそうになかったはずの剣が、いつの間にか皇帝の肩から体内へとめり込んでいた。
腕力でどうこうしたとは思えない。
剣を引き抜き、一太刀浴びせるまでの過程が、完全に抜け落ちていたのが不思議だ。
俺は絶対見逃していない。
一体何をどうやったんだ?
まあいいや、後で本人に聞こう。
とにかく、ついに一撃食らわせることができた。
「……!」
が、安堵はできない。
皇帝の体から噴き出した鮮血が、部屋のあちこちに飛び散ったのを見て、俺は再び驚かされた。
赤い液体が、まるで超強力な酸のように、あるいは猛毒のように、じゅわじゅわと不気味な音を立てながら、調度品も壁も床も、あらゆるものを汚し、蝕み、溶かしていく。
あれが貴腐血統か。
例外は皇帝自身、そして精血の壺によって耐性を得たアニン。
どうやら壺の効果に偽りはなく、本当に大丈夫みたいで、ホッとする。
いや、安心するのはまだ早い。
かなり深く斬り込めたみたいだけど、貴腐血統には再生能力がある。
早く追撃を……
「"天上秘幻"か」
「!?」
ここまで冷静だったアニンの表情に、初めて焦りの色が浮かんだ。
そうなるのも無理はない。
あいつは俺よりも遥かに戦闘経験を重ねている訳だから、余計なお世話を焼かずとも、当然すかさず追撃を仕掛けていた。
出し惜しみなしの、あの回避不能と思われる技をだ。
しかし。
2度目は完全に見切られてしまっており、再び両手で刀身を挟んで止められていた。
「その若さで奥義を使えるとは、大したものよな。また我が威光に目を眩まさず、加減も躊躇も無く挑んだ所も褒めて遣わそう」
淡々と言う皇帝の傷が、段々と塞がっていく。
おい、やべえんじゃねえかこの戦況。
「皇帝の座を手に入れた時を思い出す。あの時も、ササ流奥義を以て我が身に迫る剣士がおったわ。彼奴よりも鋭い太刀ではあったが、同じ技で朕の命、取る事は能わぬぞ」
「くっ……!」
皇帝が喋っている間にもアニンは幾度も奥義を叩き込むが、もう見切られてしまったようで、全てかすり傷さえつけられず無効化されてしまっていた。
しかも、奥義だけあって気や精神力の消耗が激しいのか、明らかに疲労の色が見え始めてくる。
いくら何でも、これ以上任せるのは危ないよな。止めねえと。