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53話『三人は内省する ~タルテの場合~』

 やってしまった――


 それが、彼女と殴り合った後に浮かんだ正直な気持ち。


 先に挑発してきたのはあちらだし、手を出してきたのもあちらから。

 特に自分が悪いとは思っていない。


 にも関わらず、申し訳なさにも近い気持ちが出てきたのは、単にわたし自身の弱さにすぎない。

 もうすっかり、卑屈さが心の奥にまで染み込んでしまっているみたい。


 強くなろうと思って、ここまで色々と頑張ってきたけど、やっぱり根本的な部分では変われていない。

 もう、どうしようもないんだろうか。






 あの人のことは、前々から苦手だった。

 初対面の時点で、わたしとはまるで正反対な人間だということは分かっていた。


 外見もそうだけど、いつでも自信たっぷりで高飛車なところが特に違う。

 どうしてそんなことを平気で口にできるの? とハラハラさせられることも多々あった。


 ……でも、本当は、あのまっすぐすぎるくらいの素直さが羨ましい。

 ううん、憧れていると言っていいかもしれない。


 貴族の生まれである母方から半ば勘当に近い扱いを受けても、生まれに誇りを持てて、一切の屈折した感情もなく両親を愛せて。

 それに……拒まれても、傷ついても、彼にはっきり、積極的に、素直に気持ちを伝えられて。


 自分には到底できそうにない。

 わたしが持っていないものを、あの人はたくさん持っている。

 色々な面で、わたしよりも優れている。

 だから、彼の気持ちがあの人に行っても、仕方ないと思っていた。


 それなのに。


 なぜか嫉妬してしまう。

 あの人だけではなく、他の人が声をかけてきて、彼に近付いてきて……彼が遠ざかってしまうことを想像すると、気持ちを抑え切れなくなる。

 それを自己完結できず、演技で見せないようにもできず、醜い形で表に出してしまう自分が余計に嫌い。


 あの人のように、素直に気持ちを伝えればいいのは分かっている。

 けれどやっぱり、小さい時から入念に植え付けられた自己否定が邪魔をして、どっちつかずの曖昧に終わってしまう。


 どうしてこんな風に生まれてしまったのだろう。

 あんな家に生まれてしまったのだろう。

 本当のお母様とお父様のことを愛してはいるけど、自分の境遇と人格を形作った大元であることを考えてしまうと、時々ふつふつと暗い恨みの気持ちが湧いてくる。


 できるなら教えてほしい。

 どうすれば強くなれるのか。


「……愚かな」


 でも、彼女のような人からすれば、わたしのような人間は見ていてイライラするだけなのだろう。

 だからある意味では、枕を投げつけられても仕方がないと思っていたし、"ユーリを侮辱した"、"臆病者"、"愚鈍"という表現に至ってはもっともだとさえ思った。


 でも、わたしだって何も感じない人形じゃない。

 好き放題言われて、悔しくならないわけがない。


 心の奥底にある、わたしがわたしを維持するための最後の意地のようなものが、罵倒を完全に受け入れて屈服することを拒んでいた。

 そしてそれが、体の変化としてまた表に滲み出てしまう。


 いつもこうだった。

 あの時も、同じことをしてしまった。


 意思に反して、自分の最も好きじゃない部分から滲み出る、熱いのか冷たいのかさえも分からない液体。

 さらに相手を不快にさせるだけだと承知しているのに、固くつぶっても止めようがない。


 せめて代わりに、黙ってこらえていよう。

 という誓いも、まるで意味のないものに終わってしまった。


「薄汚い涙……! 同情を買う何の足しにもなりませんわ! 寺院を汚さないでちょうだい!」


 ――同情を買おうなどと、さもしい真似を……! 薄汚い涙でこの家を汚さないでちょうだい!


 あの人の言葉と、かつて血のつながらない母親から浴びせられた言葉が重なった。

 それを認識した瞬間、意識が遠のいていく。

 すぐに戻ってはこれたけど、その時にはもう、まともにものを考えられる理性は失くなってしまっていた。


「わたしは……わたしは、薄汚くなんかない!」


 どうしてアニンは止めてくれなかったんだろう、という考えも完全に消えていた。

 訂正させたいとか、謝らせたいなんて思いはなく、反射的に吐き出した言葉を証明したい思いもなく、あったのは、自分が怖くなるくらいの暴力的な衝動。

 暴れたかった。この一言が最も適切だと思う。


 後になってから後悔が浮かびこそしたけど、正直……この時は気持ちよかった。

 もちろん痛みはあったし、怖さも消えていなかったけど、妙にスッキリした感覚が、頭と心臓に満ちていたのが不思議。


 それと、事のさなかでは気付けなかったけど、気兼ねなく思ったままの言葉をぶつけられていた。


「お上品ぶってるんじゃないわよ! この牛!」

「挑発したのはそっちでしょう!? 偉そうなこと言ってるんじゃあないわよ! だいたい……」

「このっ……白豚女!」


 汚く荒々しい言葉を、遠慮なく吐き出した自分が、色々な意味でおかしくて仕方ない。

 これじゃあまるで、彼みたい。

 いっしょにいるうちに、伝染ってきちゃったのかな。


 そうね。

 わたしは、ユーリに影響を受けている。

 だって、尊敬しているから。


 それ以上に、ユーリのことが大好きだから。


 最初に出会った時は、はっきり言って"変わった人"ぐらいにしか思ってなかった。

 何の縁もないわたしを助けてくれて、食事までさせてくれて。


 けれど今となっては、わたしの生きる理由そのものだと言っても言いすぎじゃない。

 だから、どれだけ卑屈になっても、自己嫌悪が強まっても、最後の最後では諦めずに生きていられる。

 前を向いて歩いていける。

 彼は誰に対しても同じことをすると分かっていても、好きって気持ちが抑えられない。


 弱く卑屈なわたしが一体何をと、自分でも思う。

 だけど、今最もやりたいこと、生きる理由はこれしか考えられない。


 誰にどれだけ蔑まれても、否定されても。

 この想いだけは、譲れない。


 だからこそ、もっと強くなりたい。

 それと以前、彼と交わした「強くなったら秘密を話す」という約束を果たすためにも。

 彼のことを、もっと知りたい。

 秘密の正体が何であっても、きっとわたしは受け入れられるから。


 好きになったきっかけが、奴隷にされかけていた所を助けてくれたからだというのは否定しない。

 でも同時に、今も好きなままでいる理由が、決してそれだけじゃないことも断言できる。


 彼の助けになりたかった。

 彼を支えてあげたかった。

 戦いや後方支援だけじゃなくて、何よりも精神的な部分で。


 余計なお世話に思えるかもしれない。

 確かに、時々人間離れした部分さえ感じさせるくらい、彼は力も心も人並み以上に強い人。

 だけどわたしの目には、心のどこかに脆さを抱えているようにも映った。


 なんとか聞き出して楽にさせてあげたかったけど、できなかった。

 これは勇気の問題じゃなくて、彼自身が言いたくなさそうなのが分かったからだ。

 わたしにできるのは、受け入れる態勢を作りつつ、彼から切り出してくれるのを待つことぐらい。


 同時にわたしは、自分から気持ちを伝える勇気を、いまだ出せずにいる。

 邪魔になってしまったら……という思いが、わたしの足を止めてしまう。


 彼は、恋愛や結婚にあまり興味がなさそうに見える。

 彼の掲げる絶対正義――相手が誰であれ、お腹を空かせた人に食べさせてあげるという"ひーろー"の道を歩いて生きることが何よりも最優先になっている。

 人と結ばれるよりも仕事、自分の決めた道を選ぶという価値観を持った男の人がいるのは知っているけど、彼のそれはやけに頑なに見えた。


 ……ううん。

 こういうのは全部、言い訳にすぎない。

 わたしに勇気がないのが一番の問題。


 加えて、拒絶されることもそうだけど、踏み出せない一番の理由は、彼が好きすぎて怖いということ。

 完全な依存になってしまわないだろうかという不安が付きまとっている。

 ここまでくるともう病気ではないかとさえ思う。

 だって多分、彼が女の人に生まれていたとしても、わたしは好きになっていただろうから。


 勇気が欲しい。

 力が欲しい。

 彼と並び立てるような、支えられるような、もう1人の"ひーろー"になりたい。


 やっぱり、あの人には渡したくない。

 負けたくない。

 わたし……ユーリとずっといっしょに生きていきたい。

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