49話『リレージュ、空中に浮く聖地』 その4
「……はい」
温めた牛乳と、羽織れる毛布を用意するためだ。
「あんがと」
「ありがとう」
「風邪を引く前に戻ってくるのよ」
「はーい」
流石に事情を理解しているからか、ミスティラやアニンも、特に茶化してはこなかった。
「ちょっと冷えるな」
建物から出た瞬間、冷えた風が全身をさっと撫でていく。
「あのね、ちょっと行きたいところがあるの。いい?」
「もちろん」
毛布をしっかりと巻き付けたジェリーが、先だって歩き出す。
目的地は最初からこの子の足に任せるつもりだった。
少し歩きたい、という雰囲気が出てたからな。
これくらいは花精じゃなくても分かる。
ここは聖地だから治安も良く、夜に出歩いても問題はない。
火石を利用した灯りもあちこちにあるから、明度も心配はない。
「ここがいいな」
立ち止まったのは、寺院の敷地内にある花畑。
裏手の空き地を利用して作られた小規模なものだが、ミスティラも褒めていたほど綺麗に手入れが行き届いていて、色彩豊かな小さな花たちが美しく咲いている。
こうして夜訪れてみると、尚更美しい、というか幻想的な雰囲気を醸し出している。
「ここ、トラトリアみたい」
「俺も同じことを思ってたよ」
笑顔が返ってくる。
毎日のように見ている可憐な顔。
俺の大好きな顔。
ふいっと、ジェリーの顔が花畑に向く。
月光を受け、そよ風に揺れる花を見つめ、無言になる。
言葉を探しているようだった。
「とりあえず、あそこに座ろうぜ」
観賞のためか、花畑の前にはおあつらえ向きに椅子代わりの丸太が置いてある。
「……ねえ、くっついてもいい?」
並んで腰を下ろすなり、甘えた声で聞かれる。
「ああ、もちろん」
「えへへ」
「……お?」
てっきり横だと思ってたのに、腿の上に座られた。
「おもくない?」
「お気遣い痛み入りますお嬢様」
「わあ、マンベールさんみたい!」
「似てるだろ?」
先日聖都で知り合った執事の物真似をしてみたら、大好評だった。
こうも素直に喜ばれると、やった甲斐があったってもんだ。
「こうしても、おねえちゃんたち、おこらないかな?」
背中を預けられると、体温がじんわり伝わると共に、甘い香りがふんわり少しだけ漂ってくる。
「笑って許してくれるよ。万が一文句言ってきたら、俺がやり返してやる。『貴様お嬢様に何という口を利く!』ってさ」
「えー、おねえちゃんたち、かわいそうだよ」
「優しいんだな、ジェリーは」
少しの間笑い合って、段々と冷めつつある牛乳を飲んでいるうち、会話が減っていく。
ずっと緊張、いや、恐怖と必死に戦ってるんだろうな。
「大丈夫だからな」
待つよりも、俺の方から声をかけてやった方がいいだろう。
「……うん」
歯切れは良くなかった。
「いいんだぜ、不安でも怖くても。そうなるのが普通だしな。抑えなくてもいいんだぞ。どんな気持ちでも、全部俺が受け止めるよ」
「……おにいちゃん」
ジェリーが体を反転させて、俺の顔を覗き込んでくる。
「あのね、ジェリーね、おにいちゃんたちと会ってから、いろんなところに行けて、すっごくたのしかったよ」
「ああ、俺達もみんな同じこと思ってるぜ」
「それと、もう一回言わせて。パパとママに会わせてくれて、ほんとうにありがとう」
「どうしたんだよ、急に」
ジェリーは答えず、頭を花畑の方に向け直した。
しばしの沈黙。
今度は口を挟むよりも、待っていた方がいいだろう。
「……もしもね」
風に消えそうな出だし。
「試練がダメで、ジェリーが死んじゃっても、おにいちゃんのこと、うらまないよ」
「…………!」
覚悟、と呼ぶには土台が不安定だった。
身体こそ震えていなかったが、声色には隠し切れずに表れてしまっていた。
「それとね、あぶなくなったら、おにいちゃんだけでもにげていいからね」
でも、それでもこの子は、自分のことより、精一杯俺のことを気遣ってくれている。
「あした、ちゃんとおねえちゃんたちにも、言おうと思うの。……もう、これでさよならになっちゃうかもしれないから。今までいっぱい、いっぱい、やさしくしてくれてありがとう、って」
こんなことを言わせてしまう自分が情けなかった。
「あともういっこだけいい? もしダメだったら、パパとママに……」
「とうっ!」
「……いったーい!」
だからつい、頭突きをしてしまった。
「おにいちゃん、なにするの!?」
「弱気になってるお嬢様にはこけしアタックの刑だ!」
「や、やめてよぉ!」
まだやめてやらない。
もちろん本気でやってはいないけど。
「ついでにこうしちゃうぞー!」
「や、やだ、くすぐったいよぉ!」
俺の中で身をよじらせ、結んだ髪を振り回す小さな女の子。
こんな姿を客観的に見られれば確実に誤解されるだろうが、気にしてる場合じゃない。
「っ……もぅ……やめ……」
「ごめんごめん、ちょっと調子に乗りすぎたな」
充分解れたところで、攻撃を中止する。
というか俺の方に罪悪感が芽生えてきちまった。
本題に入ろう。
「最悪の状況を、しかもその後のことまでちゃんと考えられてるジェリーは偉いよ。本当に立派だと思う。
でもな、俺はあの"帰れずの悪魔"もコテンパンにしちゃったスーパーヒーローなんだぜ。いやまあ、もちろんタルテたちの手助けあってだけどさ。
ともかく、任せとけって。絶対に試練は成功するんだから。俺のこと、信じられないか?」
「……ううん」
「いつも期待に応えてきただろ?」
「……うん」
「父ちゃんと母ちゃん、エレッソさんたちに、一人前の花精になったよって、笑って報告したいだろ?」
「うん」
「だからさ、ちょっと自分の力を信じてみようぜ。最初の手続きだって、ちゃんと上手く行っただろ? 俺もジェリーのこと、心から信じるからさ。俺の気持ち、伝わってないか?」
「うんっ。……ありがとね、おにいちゃん。信じてくれてる気もち、いっぱい、伝わってるよ」
ぴょんと、俺の膝から飛び降りて、ジェリーは笑顔を向けてきた。
俺のことを信じてくれてはいるだろうが、きっと失敗や死への恐怖は消えてないだろう。
それは仕方ない。当然だ。
後は結果で証明するのみ。
この子は絶対に守り抜く。
試練も、成功させる。
「よし、そろそろ戻って寝ようか。寝坊したらまずいからな……ってまず自分の心配をしろって話だな」
「だいじょうぶ、ジェリーがおこしてあげるよ」
「そっか、寝坊したらよろしく頼むよ」
「まかせてっ」
とは言ったものの、いくら何でも、人の大事な行事がある日に寝坊するほど俺はアホじゃあない。
ちゃんとジェリーに起こされるまでもなくパッチリと目を覚まし、朝メシを食って、持ち物などの最終確認を行う。
もちろん食事量はごく控えめにだ。
「ちゃんと寝られたか?」
「うん」
「ちゃんと食べたか?」
「うんっ!」
ゲン担ぎとして好物の、ハチミツをたっぷり塗ったパンをしっかりと食べたジェリーは、自己申告した通り元気いっぱいだった。
ちなみに一番好きな、母親のコデコさん直伝のアップルパイは試練を終わらせて戻ってきた時、お祝いに食べる予定だ。
「おっしゃ、行きますか」
タルテたちも試練の始まりまで見送りたいと主張したので、皆で外に出る。
よく晴れた、まだ朝の静けさが残る市街を通り抜け、発着場で大鳥に乗る。
目指す場所は――最も高い位置に浮かぶ浮島。