48話『帰れずの悪魔、破壊と再生』 その5
「……口惜しい」
坊ちゃんが顔をそらしたまま、低く濁らせた声を絞り出す。
「偉そうに豪語しておきながら、未熟ゆえに奥義を使いこなせず、悪魔は討てず……父上より賜りし剣・ラギオルも折り……挙句、愛する人や家人の前でこのような醜態…………嗚呼、ウォルドー家の者として、いやそれ以前に男としてこれ以上の恥辱があるだろうか。
やはり傷を治すべきではなかったのではないだろうか。苦痛に抵抗せず、惨めな死を受け入れていた方が、最後の誇りだけは守り抜けたのではないか。
いや、今からでも遅くはない、自ら……」
延々と続きかねない呪詛のような自虐を、痛々しい音が立ち切った。
執事が、坊ちゃんの頬を打ったのだ。
手加減しないで本気で叩いたんだろうな、響き方からして。
「……マン、ベール?」
自分の身に降りかかった出来事を正確に理解しきれていない、といったような顔で、坊ちゃんは忠実だった執事の名を呼ぶ。
反逆者は厳しい顔つきのまま、叩いた相手をじっと正視していた。
横にいるミスティラは目を左右に泳がせ、かける言葉を探しているようだったが、記録係や従者は変わらず静観を貫いている。
示し合わせた訳じゃないけど、俺達もそれに倣うことにした。
そこから瞬き数回ほどの間を空け、執事が、
「主に手を上げた罰は甘んじて受けます」
とだけ静かに呟く。
「…………!」
俺は見ちまった。
それを聞いた坊ちゃんの顔がくしゃっとしわだらけになって、目が潤み出したのを。
「馬鹿じゃねえの」
反射的に鼻を鳴らし、悪態をついちまっていた。
「んなことでへこたれてグスグスするような坊やだから、悪魔にも負けるし、ミスティラもなびかねえし、取られちまうんだよ」
「ユーリ様……!?」
「黙ってろ」
ミスティラの声には明らかに驚きというより、軽蔑じみた意味合いが込められている気がしたが、今更止める訳には行かない。
下手に同情したり、黙って見てるより、この方がいいだろう。
「ぎ…………ぅッ!」
歯を食いしばってきつく目をつぶり、破れかけた手袋をはめたまま、手元の泥を掴んで握り潰す坊ちゃん。
きっと今、色んな感情が頭と心で渦巻いて暴れ回ってるんだろう。
「何だ、負け犬のくせにいっちょまえに悔しがってんのかよ。ケンカ売ったり落ち込んだり、更に悔しがったりって忙しい奴だな。
いいぜ、言いたいことがあんなら言えよ。それかあれか? 俺にムカついてぶん殴りたいってか? 別に構わねえぜ、ほら来いよコラ!
どうした? 遠慮はいらねえぞオイ! お坊ちゃまのお育ちがよろしい拳なんざ何発食らっても効かねえんだよ馬鹿野郎! それでもタマついてんのかよてめえ! ああこの野郎!」
思いつくまま悪役レスラーのように喋り立てていると、見えない糸で吊られたように、坊ちゃんがすうっと立ち上がった。
真正面から睨み返すその目には光が戻っていたが、眉間にしわが寄り、唇は歪んでわなわなと震えていて、嫌悪の感情がありありと表れていた。
可愛らしい顔が台無しだ。
いやいや、そうじゃなくて。
マジでやる気になっちまったか?
どうすっか、これだけ煽った手前、殴りかかられても避けるわけにゃいかねえよな。
まあしょうがねえか、身から出た錆だ……
などと考えてたら、ミスティラのいる方へと向きを変えた。
もちろん、険悪な顔つきは一瞬の内に解して。
「……今この時、改めて痛感しました。貴女がこの男との道連れを選んだ理由を。私が貴女の相手足り得なかった理由を。何より、己が脆弱さを」
そして静かに言う。
妙にかしこまってはいたものの、込み上げてくるものを必死に堪えているのは丸分かりだった。
「私は……このラレットは……っ」
「嗚呼、気高きラレットさん。これは決して安い同情ではないことを我が名誉の下、予め宣誓致します。どうかお気を悪くなさらずお聞き届け下さいませ」
ミスティラが、胸の前で両手を組んでやんわりと制する。
「己が限界を、叶わぬ夢がもたらす痛苦を味わい流す涙とは、より美しく鮮やかな心の花を未来に咲かせるための糧。男子と言えど、人に見せることは恥ではありませんわ」
「ミスティラ嬢……」
「このような言葉をこの世界で最もかけられたくない相手がわたくしであること、重々承知しておりますわ。ですが敢えて申し上げさせて頂きました。
既に御存知でしょうが、わたくしもまた、苦汁という甘味料を伴って学ばせて頂いた機会がございましたの。厳格なる法の裁定者のように、非情と介されるような事項を真正面から宣告することも、時として必要なのだと」
ミスティラの語調や面差しは柔らかいながらも、明確な答えが表れていた。
「……やはり、貴女はお優しい」
言外の含みを正確に読み取ったであろう坊ちゃんは、ふっと微笑んで言った後、目を閉じた。
その際、はらりと大きな雫が零れ落ちる。
「我が2つの闘争、惨敗という結末を迎えはしたが、あの日、聖都の会堂にて貴女と出会えて本当に良かった。これだけは一切の偽りなく誓言できます」
「ラレットさん……」
「憚りながらこのラレット=ウォルドー、過去も現在も、そして未来永劫、貴女の幸福のみを願い続けております。どうかこの先も悔い無く、光の道を真っ直ぐと歩まれますよう」
「……わたくしなどに勿体無き御言葉、謹んでお受け取り致しますわ」
一連の振る舞いを目にして、凄い男だと心の底から思った。
敬意さえ浮かんでくるくらいに。
「ユーリ=ウォーニー!」
ちょっと心が柔らかくなってた所に突然話を振られて大声を張り上げられたもんだから、つい「お、おう」なんて返事をしてしまう。
坊ちゃんは既に一切の卑屈さがない、いや、清々しささえ覚えるほど爽やかな顔をしていた。
「君は……いや、私からは何も口を挟むまい。ただ、どうやら今後も君を友とは思えないようだ、という事は明瞭に通達しておこう」
「そうかよ」
勝手に1人納得したり、半ば絶交じみた宣言をしてきたり、忙しいな。
「しかし、それ故に先の粗暴なる挑発、響いたぞ。傷口に焼き鏝を押し付けられるが如き屈辱と苦痛を伴ったが…………感謝する」
最後、渋々といった風にぽつりと呟き、手を、正確には握り拳を差し出される。
こっちの世界、しかも貴族もこんなことをするもんなのか。
「ははっ」
何故だかちょっと嬉しくなってしまう。
こっちも握り拳を作り、軽く打ち合わせた。
「それとだ!」
続けて坊ちゃんが、ガツガツと結構強い力で拳をぶつけてくる。
「帰れずの悪魔との戦いや、ミスティラ嬢との関係では遅れを取ったが、狩りの勝負そのものはまだ決着がついていない! 日を改めて雌雄を決するぞ!」
「ああ、受けて立つぜ」
こっちからもぶつけ返す。
「そうと決まれば、お前達、帰還の支度をせよ! 皆、疲れてはいるだろうが、急げ!」
「かしこまりました」
「そこの傭兵! すまぬが、君の仲間の捜索はしばし待ってもらうぞ」
「は、はい」
「うむ。……それとマンベール、私を叩いた罪は、私の気が済むまで鍛錬に付き合うという罰で贖ってもらうぞ」
「御意」
その際、不意に執事と目が合って、深々と頭を下げられた。
さっき坊ちゃんを煽った時「この無礼者!」と罵倒されながらぶん殴られるぐらいは覚悟してたので、ちょっと拍子抜けする。
ともあれ、これにて本当に一件落着って奴だ。
流石に身体にこたえる戦いだった。
疲れたし、我慢しがたいぐらいに腹も減ってきたし。
「しかしタルテ殿、よく黙ってユーリ殿を見守れていたな」
ふと、アニンが口を開く。
「だ、だって、ユーリの下手な演技なんか最初からお見通しだったもの」
「そうかぁ? 俺的にはトニー賞もんだと思ったんだけど。まあいいや、俺達も帰り支度を手伝おうぜ」
いや、その前に、今度こそ。
「……お、あったあった」
雨だの何だので悲惨なことになっちまってたが、食えないことはない程度の状態を保っていた。
「サンドイッチ?」
「栄養補給しねえとな。……うん、こんな状態になっちまってても美味え」
「当たり前でしょ。わたしのお手製なんだから」
「だな」
タルテに自信と経験を積ませるという当初の目的も、達成できたようだ。