45話『ラレット、ミスティラに求婚した坊ちゃん』 その1
あの後、特に問題は起こらなかった。
一晩経ったが、タルテたちが勘付いた様子も今の所見受けられないし、約束通り、娼館街での一件をアニンは全く口にしなかった。
ただ、
「あの付近には近寄らぬことだ。私の口が滑ってしまうやも知れぬ」
と、釘を刺されていたため、メニマに会いに行くことはできなかったが。
なんつーか、まるで浮気をひた隠しにする旦那みたいだと、我ながら情けなくなってくるな。
ま、それはともかく、もう少し聖都で過ごしたら出発して、いよいよジェリーの試練を受けにリレージュへ向かわなきゃな。
「えーと……ウナカの花の、しゅ、種子から、は……??」
「見せてごらんなさい」
この時期になると本人も試練の時が近付いているのを強く意識しているようで、日々魔法の勉強をしたり、魔力を高める訓練をしたり、こうやってミスティラの手助けを得て、植物に関する本を読んだりしていた。
「……これは"生殖機能の増強を齎す液が抽出可能"と読むのですわ」
「ありがとう、おねえちゃん。ねえねえ、それで"せいしょくきのう"ってなぁに?」
「え、ええ、それは……タルテさんの方が詳しいのではなくて?」
「わ、わたし!?」
……楽しく学べているようで何よりだ。
俺に振ってくれれば面白い回答をしてやるのにと思いながら、生暖かい目で女子たちの勉強会をぼんやり眺めていると、部屋の扉を叩く音がして、寺院の信徒から、俺個人に来客がある旨を告げられた。
カッツか、あるいはメニマかと思ったが、違うらしく、ラレットという名前の人物らしい。
聞いたことないな。
それと、取り次いでくれた信徒の人がその名前を言う際、俺だけに聞こえるよう声を落としたのも気になる。
まあ、魔物や強盗の類じゃないだろうし、とりあえず会ってみるか。
信徒の人に案内されたのは、廊下を渡って少し離れた所にある、作りの似た別の客室だった。
訪問者は2人だった。
正確には、明らかに俺より年下な少年1人と、三十路前後くらいの従者が1人。
誰だ?
全く会った覚えがない。
ごく一部を除いて、こんなお上品な知り合いはいないはずだけどな。
一目見ただけで貴族と、そのお付きだと分かる出で立ちをしていた。
切り揃えた金髪、くりっとした大きな青色の瞳……育ちの良さが全身から感じられる。
しかもかなりの家柄なんだろう。
身に付けているものはいずれも上質で、隙がない。
うーん、一体どこのどちら様なんだ……
「御苦労だった」
記憶の引き出しを片っ端から開けていると、うち片方――椅子に掛けていた坊ちゃんの方が、変声期真っ只中の声で案内役の人に労いの言葉をかけた。
そして、部屋にいるのが俺達だけになると、どこか値踏みするような目で、俺の頭から足下までジロリと見た後、
「ふむ、君がユーリ=ウォーニーか」
声を低めて呟く。
向こうは俺の名前までご存知らしい。
「えっと、どこかで会ったっけ?」
「無礼者! 口の利き方を心得よ!」
いきなり、坊ちゃんの傍に直立していた執事風の男が良く通る声で怒鳴り付けてきたもんだから、ちょっと驚いてしまう。
「こちらの御方をどなたと心得ている。フラセースにおいても屈指の大貴族、ウォルドー家が第3子……」
「よい」
坊ちゃんに制されると、執事はぴしゃりと口を閉ざした。
が、広い額と眉間にできた深いしわや、眼鏡越しの敵対的な鋭い眼差しまでは解いていなかった。
「失礼した。お初にお目にかかる、私はラレット=ウォルドー、そして彼は私の執事を務めているマンベールだ」
やっぱり初対面らしい。
坊ちゃんが手を差し出してきたので、とりあえず応えておいた。
「……!」
握った瞬間、強い力が込められる。
たかが知れている握力だったから別に痛くはないが、明確な敵意が込められているのが伝わってくる。
やり返すべきか否か考えていると、坊ちゃんの顔がみるみるうちに強張りを帯びていく。
会ったこともないんだから、恨まれるようなことをした覚えはないはずだが……
「握り返さぬのか」
坊ちゃんが、いかにも不満げに言葉を絞り出した。
「何だねその体たらくは。初対面の相手に敵意を向けられても、些かの対抗意識を燃やしもせぬのか! それでも君は男か!」
「いいえ坊ちゃま、恐らくその御方は既に去勢されているのでしょう。故に坊ちゃまの威圧に言葉を失ってしまったのも、無理からぬことかと」
「む、そうなのか?」
なんか勝手に言いたい放題始めやがったぞ。
「そうなのかと聞いているのだ、答えたまえ、ユーリ=ウォーニー!」
「んな訳ねえだろ、アホか」
「無礼者! 坊ちゃまにそのような口を……死に値するぞ!」
ちょっとイラっときたので、ついポロっと言ってしまったら、案の定執事の方が額に青筋浮かべてきやがった。
「おいおい、お言いつけ通り対抗意識燃やしてやったんだから、怒るのは無しっすよ。タマがあるってのが確認できて良かったでしょ」
「貴様……!」
「やめろマンベール」
「はっ、申し訳ございません」
「……だがしかし、お前の怒りも尤もだ。嗚呼何故だ! 何故こうもこの男は私の臓腑を憤怒の炎で焼き焦がすのだ!」
止めておきながら、自分で怒り始めた。
……面白いと思わないこともないけど、めんどくせえ。つーか臓物が焼けるって焼肉か?
とボケたくなるほどには脅威を感じなかった。
振る舞いこそ貴族然としてるし、無理してる感もなく自然なんだけど、どうしても可愛らしい顔立ちのせいで威厳や物恐ろしさに欠ける。
「……嗚呼駄目だ! やはり私には耐えられそうにない!」
果てにはこの坊ちゃん、いきなり頭を抱え始めたぞ。
「我が思慕の炎に嫉妬という油が注がれ、万象を灰と帰す程に燃え上がっている! 許せぬ! 私も! 君も!」
憤怒とか思慕とか、難儀な炎だな。
「坊ちゃま、お鎮まり下さいませ」
「ええい止めてくれるな! 何故だ、何故君なのだ! 私には決して持ち得ない才気の宝、或いはテルプの聖水よりも清らかなる血がその身に巡っているとでもいうのか!」
あー、このくどくどしい感じ、どことなくミスティラと似ているような……
と気付きかけたのとほぼ同時に扉が開いて、まさしく当人と、ついでにタルテたちが姿を現した。
「ラレットさん……」
少々困惑した様子のミスティラを見て、瞬く間に坊ちゃんの顔つきから険が取れていく。
この時点で、おおよその事情を理解できた。
「おお、最愛のミスティラ嬢! 張り裂けそうなほどの想いを抑え切れず訪ねてしまったこのラレットをお許し下さい!」
俺の存在を完全に無視し、ミスティラの下に跪き手を取った。
「いえ、構いませんわ」
「ミスティラ様、御無沙汰しております」
「マンベールさんもお変わりないようで」
坊ちゃんに掴まれた手こそ解きはしなかったが、どうにかして欲しいと言わんばかりの顔で俺に視線を送ってくる。
いや、そんな目で見られても、俺からは何とも言えないんだけど。
「この方は、その……」
「憐れみは無用です、この場で包み隠さずお話して下さって結構」
言いよどむミスティラに対して、一瞬目線を横に逸らしながらも、坊ちゃんが毅然と言った。
「……ユーリ様は既に御本人よりお聞きしているかと思いますが、改めて。こちら、ラレット=ウォルドー様はフラセース西部、ラフィネ地方に領地を持つ貴族・ウォルドー家の前当主の御子息ですわ。家督は現在兄君、御長男の方が継がれておりまして、ラレットさんは御父上と共にここエル・ロションの別邸に住まわれていらっしゃるのです。
ウォルドー家といえば、フラセースでも屈指の伝統を誇る名門中の名門。その始まりは……」
「躊躇っていらっしゃいますね。やはり貴女はお優しい」
坊ちゃんが、穏やかな顔を作って立ち上がりながら、話を途中で遮った。
怒るよりこういう表情の方が合っている、って言ったら怒るだろう。
「やはり私自らお話しましょう」
「ラレットさん」
「坊ちゃま」
「こうしておめおめ姿を晒しに来た時点で、覚悟はしている」
そう前置きして、坊ちゃんはさっき俺に見せたのとは正反対の静かな佇まいで、本題を口にし始めた。
「私はかねてより、ミスティラ嬢に婚姻を申し込んでいたのだ。ウォルドー家もマーダミア家も関係なく、私自身の魂が彼女を愛したが故に。そもそもの始まり、出会いは――」
やっぱり、この坊ちゃんがそうだったのか。
以前、エル・ロションの大貴族から結婚を申し込まれたとか何とか言ってたのは覚えてたけど、まさか年下、しかもこんな可愛らしいお坊ちゃんだったとは。
てっきりもっと大人を想像してたんだけど。
「――以来、幾度となく我が愛を、終生の夫婦として添い遂げたい旨をお伝えしているものの、敢え無く断られてしまっている、という訳だ。全てはこの私に、男子としての器量が不足しているが故。笑いたくば笑って結構。平民に嘲笑されたとて、事実である以上、怒りなどせぬ」
坊ちゃんの語り口は、思いのほか穏やかだった。
しかし「笑ったら殺す」と、後ろの執事が俺達に対して目で圧をかけてきていた。
いや、笑うつもりは最初から全然ねえけどさ。
「断りを受けたにも関わらず此処へ参じたのは、ミスティラ嬢が熱く、激しく恋い慕う相手というものを一目直に見てみたかったが為。女々しき行為とは百も承知しているが……クッ、正直に告白しよう。私は、嫉妬している! ユーリ=ウォーニー、君に対して!」
突然、坊ちゃんが再点火した。
「彼女の愛を一身に受けている君が羨ましい! 容易く諦めることなど出来ない! いいや、実際目の当たりにして益々君を許せなくなったぞッ!」