41話『ユーリ、未亡人の魅力を知る』 その1
浴槽から一旦出て、奥の方へと歩いていく。
もうシィスのことは半ばどうでもよくなってた。
誰もついてくる気配はなかった。
周りがまたなんか痴話喧嘩だの見捨てただの何だのとヒソヒソ言ってるのが耳をくすぐるが、無視だ無視。
別に皆に対して、さほど怒りを抱いてはいない。
1人で入浴して、少しのんびりして落ち着いたら戻るつもりだ。
ただ図太いアニンやミスティラはともかく、真面目ちゃんのタルテは必要以上に失態を気にしちまってるだろう。
しょうがねえから、後で一声かけといてやるか。
別に大きく距離を空ける必要もなかったんだが、元いた場所とちょうど正反対になる辺りの位置まで移動してしまった。
この辺りは他の所よりも少し浴槽の人口密度が低い気がする。
ここでいいや。
さて、のんびりしようかとお湯に足を浸けた時、近くにいた1人の女性が視界の端に映る。
何故だか、自分でも分からない。
強いて理由付けするなら、雰囲気が引っかかったからだろうか。
そのまま目を引っ張られてしまった。
洋の民の女性だった。
バスローブっぽい、露出を極度に抑えた、限りなく服に近い濃紺色の水着を着用していて、1人で浴槽の縁に腰かけ、脚だけをお湯に浸している。
綺麗な脚だ。
白くて細くて、思わず頬ずりしたくなるような……っておい。
いやいや、引っかかったのは脚じゃなくて顔だ。
洋の民の例に漏れず、光か陰かと言われれば後者だが、陰気、神経質っていうのともちょっと違う。
何というか、薄幸そうな雰囲気を漂わせる美人だ。
妙に気になってしまう。
目を離したくてもますます見つめたくなってしまって、このまま行くと声を……
「……あら」
あまりにも凝視してしまってたのか、女の人とばっちり目が合ってしまう。
「私の顔に何かついていらっしゃいますか?」
割と静かなこの場所でも、聞き取るのに少し聴覚を意識する必要があるくらい小さく、囁くような声。
無視するのも失礼だよな、なんて考えていると、微かに目元と口元を緩めて微笑まれる。
心臓が、ズキっとした。
別に一目惚れした訳じゃないってのに。
でもこんな空気になっちまった以上、声をかけない訳にはいかないだろう。
「い、いえ何も。こんばんは」
何どもってんだ俺。
「こんばんは」
「いやー、いい天気すね」
言った後で、しまったと思った。
こんな場所で天気もクソもない。
「"上"からいらした方ならではのお言葉ですね」
怪訝な顔をされるどころか、上手く補助を出される。
……この人、出来る! 大人だ!
「そういえば、可愛い女の子達と一緒にいらっしゃいましたよね」
女の人は儚げな微笑みを浮かべ、話を切り替えてきた。
「いやー、見られてました? 恥ずかしいっす。ちょっと身の危険を感じたんで、避難中なんですよ」
「あら、そうなのですか」
「なんで、ここで入らせてもらってもいいすか? 静かにしてますから」
「ええ、どうぞ。私のような暗い女が近くにいて、辛気臭くならないのならば」
「んなことないっすよ! むしろ大人の女性って感じで、凄く落ち着きます」
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいですわ」
「いえいえ、お世辞なんかじゃないすから」
おかしい、おかしいぞ。
どうしてこんな焦って盛り上がってんだ、俺。
「失礼します」
声までちょっと裏返っちゃったし。
おお、顔が熱い熱い。
ついお湯で洗顔するなどという、意味のない行為を取ってしまう。
でも、肩まで浸かってのんびりいるうちに、段々と落ち着きが戻ってきた。
じわじわと体が温まってきて、あのほんわかしたいい気分が戻ってくる。
やっぱり温泉はこうでなきゃな。
先程よりもゆとりを持って、女の人をもう一度見てみる。
「……ぅっ」
見上げるんじゃなかったと後悔する。
いや、男的には喜ぶべきなんだろうけど。
美しい生脚を下から見上げるのは中々に強烈だ。
見えそうで見えない、なんてありきたりな釣り要素がなくても、充分グッと来る。
女の脚にはついさっき散々な目に遭わされたってのに、我ながら現金だと思う。
それに、憂いを帯びた横顔も、見上げることで一層吸引力が増して見える。
顎から喉にかけての曲線、蕾のような唇、伏せられた涼やかな瞳……
こんな人にお酌をしてもらえたら、男冥利に尽きるってもんなんだろうな。
というかこの人、何歳ぐらいなんだろう。
聞くのは凄い失礼だから言わないけど、めっちゃ気になる。
少なくとも俺よりはずっと年上だろうけど。
「……? 何か?」
またも目が合ってしまう。
「いえ、すいません。綺麗すぎて、つい見すぎちゃいました」
「あら、そうやってあの子達も口説いたのですか?」
え、何だ何だ、こういうことも言える人なのか。
「でも嬉しいです、こんなおばさんを褒めてくれて」
あなたをおばさんと見なしたら、世のおばさんは激怒して暴動を起こすのでは。
「私、フェリエと申します。お名前を窺ってもよろしいでしょうか」
「あ、ユーリ=ウォーニーって言います」
「ユーリさん、とおっしゃるのですか」
「そうっす、ユーリっす」
それきり、フェリエさんとの会話が一旦途切れる。
気まずくなった訳じゃない。
ていうか、元々のんびり浸かるために移動したんだから、むしろ良かった。
でも、目の前で延々と立ち上るこの湯気のように、頭の中では次々と言葉が浮かんでくる。
フェリエさんが苗字を名乗らなかった理由……これはすぐに分かった。
同族意識が強い洋の民の特質だ。
種族全体を1つの家族のように見ているため、苗字自体がないと聞いたことがある。
それよりも、どうして足湯に徹しているんだろう?
どうして独りでいるんだろう?
結婚はしてないんだろうか?
あれ、おかしいぞ。
どうしてこんな坊やみたいなことばっか……
流石に三度も同じことをしたくはなかったから、強く意識してフェリエさんから視線を外していた。
なのに今度は、フェリエさんの方が俺のことを見てきていた。
この人らしく、控え目にチラリチラリと。
それに気付いてしまう辺り、完全に外し切れていないんだろう。
向こうもなんか色々聞きたいことでもあんのかな、と心のどこかで大義名分が見つかったのに安堵している自分が情けない。
恐る恐る、フェリエさんの方を窺う。
案の定目が合い、あの寂しそうな微笑みが返ってきて、またもドキリとしちまった。
「ごめんなさい。少し似ていましたので」
フェリエさんから出てきたのは、ちょっと予想外の言葉だった。
「似てた?」
「……怒らないで下さいますか」
「怒る訳ないじゃないですか」
「……夫だった人にです」
図らずも、疑問の一部は解消してしまった。
「え、俺、洋の民っぽい見た目してます?」
「いいえ、夫は人間だったんです」
更に衝撃的な事実まで知ってしまった。
そりゃ歴史上、洋の民と人間が結ばれる事例は複数あっただろうけどさ、こうして実際に聞くと、どうしてもビックリしてしまう。
「すみません」
「いえいえ。旦那さん、さぞかしいい男だったんでしょうね」
重くなりそうな空気を吹き飛ばそうと、わざと明るく言ってみた。
「そうですね。素敵で、とても優しい方でしたよ。ユーリさんのように」
「そ、そうすか」
一瞬、体中の血が沸騰しそうなほどに熱くなった。
これじゃ藪蛇じゃねえか。
ちょっと話を変えてみようか。
「こういうことを聞くのは失礼ですけど、フェリエさんは人間が嫌いじゃないんですか」
「私は、あなた方のことを好ましく思っていますよ。感情豊かで、好奇心が旺盛で……私達が失くしかけているものを幾つも持っていらっしゃるじゃないですか」
尋ねてみると、フェリエさんは間髪入れずに答えた。
「多くの同胞は他種族を疎み、壁を作り、交流を拒みますが、私には緩やかな衰退をもたらす悪しき保守思想にしか思えません。それに、過去の栄光にいつまでもしがみつくなど……」
怒気、と呼ぶにはあまりにか細いが、背負っている空気が微かに揺らめいたのが見えたように感じた。