40話『ユーリ、酒と女と肉を味わう』 その3
「あんがと、もういいや」
ミスティラに杯を返しがてら、物理的な意味で顔色を窺う。
まだ大きく酔いが回ってはいないみたいだ。
「お前も酒強い方なの?」
「どこかの生娘とは違う、とだけは断言できますわ」
強い、と言えるほどじゃないってことだな。
こいつの性格上、強ければそれをハッキリ言うし、わざわざタルテを挑発したのも怪しい。
「いやいや、しょうがねえんだよ。酒の強い弱いは生まれつきみたいなもんだからな」
「そうですの? 初耳ですわ」
「何だったかなー、肝臓の分解酵素がどうたらこうたらって話だったんだけど」
「?? ……申し訳ありませんユーリ様、範囲外の分野にて、上手に飲み込めませんでしたわ」
「ミスティラ殿、気に病む必要はないぞ。ユーリ殿は時々、こうして作り話のようなことを話すのだ」
頭上に疑問符を浮かべたミスティラに、アニンが笑いながら茶化してくる。
そう思われても無理はねえか。
「酔っ払ってつい変に語っちまったわ、忘れてくれ」
「いいえ、貴方様の御言葉、一字一句たりとも忘れるものですか。飲み込めずとも、とても興味深いお話でしたわ」
「確かに、他の時もそうだったけど、妙に説得力があるというか、手が込んでるのよね」
「ジェリーも、おにいちゃんの言うこと、ウソじゃないとおもうな。まえにおじいちゃんが言ってたよ。花精はおさけ、たくさんのめないって」
「分かった分かった、その辺でいいから。あんま褒めるとボロが出る」
それ以上に恥ずかしい。
「にしても、つくづく聖なる湖の底で温泉って不思議だよな。その辺のこと、誰か知ってたら教えてくれよ」
だからビールを口に含んで喉まで洗いがてら、話を変えることにした。
「我々が生まれるよりも昔の出来事です」
回答者は予想通りミスティラだった。
「当時、この辺り一帯は公園だったのですが……とある2人の幼い少年少女が、それぞれの宝物を隠すために穴を掘っていた際、偶然湧き出てきたそうですわ。宝を隠すつもりが、後の世までも親しまれる、更なる偉大な宝を衆目に晒してしまったという訳ですわね。不思議なことに、そのお子たちの名などは記録に残っていないのですが」
「へぇ、そうなのか。名無しのお子様たちに感謝だな」
「あの、温泉は今もこうして出続けているということは、泉とは関係がないんですか?」
「御想像の通りですわ。水源の詳しい相互関係などは調査が進んでいないゆえ、明確にはなっていないようですが」
「湖だの泉だのエピアの檻だの温泉だの、ややこしいな」
「あらゆる清き水が集うからこそ、水を司る聖地たる所以なのですわ」
手ですくい上げたお湯を手首から肘に伝わせながら、ミスティラはどこか誇らしげに話を締めた。
「話が少し戻るが、良いものだな。斯様に夢のある伝話、ツァイの方には存在せぬぞ」
既に杯の中身をほぼ空にしかけていたアニンが、苦笑しながら言う。
「ツァイにも温泉があんのか。いや、そりゃあるだろうけど」
「うむ。ここより仰ぐ天も絶景だが、我が故郷・ツァイの温泉も良いものだぞ。湖底ではなく深い山中ではあるが、その分人気がなく、大自然の雄大さと静けさを味わえるのだ。そこで飲む酒がまた格別でな」
アニンが語る温泉像は、俺が従来抱いていた想像図とほとんど合致していた。
だよな、やっぱそういうもんだよな、王道を行く温泉ってのは。
「分かる、入ったことねえけど凄えよく分かる。今度行く機会があったら場所を教えてくれよ」
「勿論だ。その時は二人きりでしっぽりと愉しむとしようか」
「お前の口からそういう言葉が出てくるのに驚きだよ」
「そうか? では私ももっと、女らしさを売り込まねばな」
笑い合う俺達。
ああ、でもマジでツァイの温泉には一度行ってみてえ……
「……ん?」
全くの偶然だった。
何にも意識せず、話の切れ間、たまたまちょうど目をやっただけだった。
湯気の向こう側、温泉が吹き出る石の山の陰の辺りに、見知った人間の突っ立っている姿が映った。
はっきり見えなかったから断定できないけど、ほぼ当人だと決めちまっていいだろう。
緑っぽい色の短い髪、女物の水着、細めな体型……
特徴も合致している。
「なあアニン、あれってシィスじゃねえか?」
とりあえず、一番会いたがってるであろう人間に教えてやる。
「シィス殿だと? む、どこだ」
案の定、目の色を変えて食いついてきた。
「ほら、あそこの石山の陰……ってあれ?」
「見当たらぬが」
次に目を向けた時、シィスらしき人物は忽然と姿を消していた。
「おっかしいな、確かにそれっぽいのがいたんだけど」
と、横でパシャパシャとお湯を派手に叩く音がし始める。
何事かと思うと、顔を赤くし、目を大きく開いたミスティラが、手足を結構な勢いで動かしていた。
「おいおい、酔ったか? 頼むからこんなとこで溺れんなよ。人工呼吸なんかしねえからな」
「ご、御心配なく。酔いは途上、泳ぎも得意ですわ」
ほんとかよ。
いや、むしろ酔ってるのは俺の方なのかな。
それなりにグラグラ来ている……かもしれない。
でも、わざわざあいつの幻影なんか見るかあ?
そもそもそこまで泥酔はしてねえ。
もういい、気にしてもしょうがねえや、忘れよう。
ぬるくなりかけたビールを喉に流して……
「……おい」
またもシィスっぽい人間が遠方に、今度は浴槽から出た外側、大理石の床の上に見えた。
「ほらアニン、やっぱあれシィスだって。見てみろよ、急げ、あそこあそこ、あの洋の民の家族連れの近く……」
ぷにっ。
「ん、ぷにっ?」
アニンに方向を伝えようとしたら、指差した先っぽに何かが当たった。
何だこの柔らかいの……
「……んっ」
「……はああああ!? ば、馬鹿、急に出てくんなっての! 思わず胸をツンってやっちまったじゃあねえか!」
言っとくけど、ほんとに不可抗力だからな!
「構いませんわ。存分にお突き下さいませ」
「いや構うだろ」
「そのような些末な事より、どうかお考え直し下さいませ。きっと温泉の熱にあてられて、錯誤を起こしてしまわれたのですわ」
「いや、そこまでのぼせてねえよ。ってか、何でそんな必死なんだ」
人違いを主張するには、態度が大げさな気がする。
「嗚呼ユーリ様! どうか寛大なるお心でこの矮小なるわたくしをお赦し下さいませ! 出来心、そう、ほんの些細な出来心だったのです。疑惑という種を頭の中で育て、声の花を咲かせてしまったのです! 即ち、ユーリ様がシィスさんに眩惑され、虜と化し、わたくしの元から離れていってしまうのではないかと……」
「ならねえと断言できるよ」
言っちゃ悪いが、あいつは眩惑だの何だのという言葉とはおよそ無縁だからな。
「ん? つーかシィスが女だって話したことあったっけ」
「お、お忘れになられたのですか? あの時お話しされたではありませんか。互いを見知って間もない頃に」
「そうだっけか」
覚えがないんだが……まあいいか。
俺、そんなに記憶力に自信がある方でもないし。
「ユーリ殿の言葉を信じ、少し探してみるとするか。すまぬが少しだけ別行動を取らせてもらう」
「お待ち下さいアニンさん!」
アニンがお湯に浸かるのをやめて立ち上がると、ミスティラがそれを鋭く制した。
「ユーリ殿も申していたが、何故そこまで必死なのだ」
「徒労に終わっては忍びないと案じるがゆえですわ」
物理的に立ちはだかろうとするためか、そのままザバザバとアニンの方へ……