40話『ユーリ、酒と女と肉を味わう』 その2
「ア、アニン!?」
「何すんだよ」
「さあさあ、仲直りに口づけでもするがいい」
後頭部に手を回され、そのままグイっと引き寄せられる。
「え、あの、ちょっと……あっ」
「公共の場でんなことできっかよ……おっ」
図らずも同じ所で言葉を止めてしまう。
かなりの近距離まで持っていかれ、俺達はつい見つめ合ってしまった。
こいつの長いまつ毛や鳶色の瞳を、こうして間近で見たことはなかったかもしれない。
そして、その下にある、綺麗な曲線を描いた唇……
ば、馬鹿野郎!
変に意識すんなっての!
「おいタルテ、もっと抵抗しろ! このままだと……」
「このままだと、なによ」
今度は俺の方が返答に窮してしまう。
察しろよ、と睨んでみても無駄だった。
鏡に自分を映したように、覗き返されるだけ。
まさかこんな形で意趣返しをされるとは。
「……やれやれだ。情けない」
斜め上から、アニンの呆れ声が降ってくる。
うるせえな。分かってんだよ。
「ねえねえ、おにいちゃんとタルテおねえちゃん、ちゅーするの?」
こっちが色々ごちゃ混ぜな心を抱えてる中、ジェリーが無邪気に尋ねてきたかと思えば、
「傲慢に過ぎますわアニンさん! 恋を仲介する女神を気取るなど……!」
ミスティラは勘違いして勝手に憤慨する。
「ならば次はミスティラ殿にも同じようにして差し上げよう」
「……女神よ、どうか願いの更なる上乗せをお許し下さいませ。どうかタルテさんに先んじて、愛しのユーリ様の唇を受ける最初で最後の存在になりますよう」
「あーいいなー! ジェリーもちゅーしたいー! なかよしになりたいー!」
これもうどうすんだよ。
俺の手に負える状況じゃなくなってんぞ……
と半ば諦念に飲み込まれそうになった時、俺は彼方より到来する救世主の姿を見た。
「お客様、いかがわしい行為はご遠慮頂きたいのですが……」
さっきミスティラを連行した、係員の女性だった。
あんたどんだけ優秀なんだ。額ずいて謝意を述べたいくらいだ。
「む、これは失礼した。お騒がせして申し訳ない」
お陰様で、ようやくお節介な恋の女神様の拘束から解き放たれた。
とはいえ俺達にも責任の一端がないこともないので、一応係員に謝っておく。
「とはいえ、仲直りだけはした方が良いのではないかな?」
で、係員がいなくなった後、アニンからそんなことを言われる。
声色こそいつも通りだったが、目が笑ってなかった。
……ったく、しょうがねえな。
ま、女に謝らせるのは好きじゃねえし。
1つ息を吐いた後、チラチラこっちを見ているタルテの方を向く。
「……あー分かった分かった! アニンに免じて、この辺にしといてやるよ!」
「……わ、わたしも、アニンが言ったから許してあげるわ」
何の公開処刑だこりゃあ。
恥ずかしいったらありゃしねえ。
「うむ、これにて一件落着だな。ではここいらで一杯飲むとしようか」
「そういや、ここで酒飲めるんだっけか」
「この素晴らしき温泉と天の眺めを肴に杯を傾ければ、些細なわだかまり程度、淡雪のように解けてしまうであろう」
「ありきたりとはいえ、同意以外の選択肢は選べませんわ」
確かにな。
風呂に入りながら酒を飲むのは体に良くない行為だと言われてるけど……ここまで来ておきながら自重できる訳ないだろ?
「俺、取ってくるわ。みんな何がいい?」
皆の注文を聞き、一旦温かなお湯から出て、浴場の一角に設置されている販売所へ飲み物を受け取りに行く。
飲み物の代金は、入湯料の中に含まれているらしい。
無料なのは一人につき一杯までという制約があるものの、随分太っ腹だな。
泉の出が悪くなっている影響で、テルプの名産にもなっている"泉酒"は残念ながら飲めなかった。
そのため俺は普段の流儀に従い、ビールを選択する。
「お待ちどうさん」
元の場所に戻って皆に杯を配り、
「んじゃ……乾杯ッ!」
杯を掲げ、グイッと傾ける。
「うん、美味え!」
水石を使ってキンキンに冷やされた黄金色の液体が、キレのある喉越しを伴って体内を疾走していく。
やっぱビールは最高だ。
体が温まってるから尚更美味く感じる。
「うむ、良い酒だ」
アニンが同調すれば、
「嗚呼……お湯が全てこのぶどう酒のように変わってしまえば良いのに」
ミスティラがぶっ飛んだことを言い出す。
「やっぱり水分補給は大切よね」
「んん……あまずっぱぁい」
非飲酒組のタルテとジェリーもご満悦だった。
早くも全員の雰囲気が弛緩してきたようだ。
俺も、ちょっと飲んだだけだってのに、もう顔が熱くなってきて、頭がほんわかし始めてきた。
そんないい気分のまま、天を仰いでみる。
立ち上る湯煙よりも、ちょっと眩しい太陽石よりもずっと高い所で、大分暗い青色に染まった水の天蓋が、俺達を見守るよう静かに在り続けている。
あれ、さっきも同じ行動を取って、同じようなことを思ってた気がするけど……まあいいか。
美しいものは何度見ても美しいからな。
「悪い、一人で見上げてたいんだわ」
「な、なんのことでしょう?」
横でミスティラの上擦った声がした。
音を立てず近付こうとしてたみたいだけど、気配で分かるんだよ。
「わたくし、頭の芯が蕩けてしまいましたの。お願いですユーリ様、どうかこの寄る辺無き身を支えて下さいませ」
「アニンに言えよ。俺よか頼りになるぜきっと」
差し出した身代わりの方に目をやったら、紐付きの小さな壺を人差し指に引っかけ、掌で弄びながら、どこか気の抜けたような表情でお湯を見ていた。
えーと、ありゃ何だっけ。
そうだ、アレだ、チョラッキオで買った小瓶だ。
あの時以来、ずっと持ち歩いてたのは目についてたけど、まさかこんな所にまで持ってくるなんて、そんなに気に入ってたのか。
「む、いかがした」
今までのやり取りを聞いてすらいなかったのか、アニンがほんのわずかだが驚いた様子を見せる。
が、すぐにいつもの人懐っこい笑みを前面に押し出してきた。
「いや、その壺、よっぽどお気に入りなんだなって」
珍しいこともあるもんだと思いつつ、今更ネタを再説明するのも白けるので、流すことにした。
「これか? そうだな、手にする時間が長くなる程、我が身の一部のように愛着が湧いてくるのだ」
「中に何か入れてねえの?」
「血だ。実は先程ユーリ殿に治してもらった指の切り傷は、剣の手入れではなく、この壺に垂らす為に作ったものなのだ」
「……お前、いくら俺でもそういうのは引くわ」
「そうか? 血をこのように扱うなど、ツァイでは割と一般的なのだが」
涼しい顔で言うアニン。
ウソついてたことも含めて、一体何の意味があるんだ? 血液型でも調べるつもりなのか?
「でもそれ、フラセースの遺跡かどっかで見つかったって言われてなかったっけ」
「よく覚えているな。だがそのようなことはどうでも良いではないか。ユーリ殿は私の壺や血より、ミスティラ殿の持つ杯とぶどう酒に興味を示すべきではないかな?」
それもそうか。
せっかくなんで、ちょっと他の酒も試してみたい。
「御所望ならば全て差し上げますわ」
「いや、一口でいいから交換しようぜ。タルテ、お前もちょっと飲む?」
「わたしはいいわ」
酒気を帯びずに済むなら是非そうしたい、といった風に、タルテは首を横に振った。
まあ、無理強いする気はない。
「……おう、これもいいなぁ」
ぶどう酒には詳しくないけど、俺の舌でも美味いってのは分かる。
一流の美食家みたく、どれだけ味覚を鋭敏にしてみても原材料や製造過程の風景はまるで浮かんでこなかったけど、ビールよりもきつい酒気を孕んだ酸っぱさと苦味がいい感じだ。
おかげで、更に酔いが回った。
でもまだ自覚できてるから大丈夫だ。そうだろ?