雨のふる日に。
雨が降っていた。
十二ヶ月。
僕が家から外に出ていない期間。はじめはこんなことなかった。いつからだっただろうか。僕は学校を休むようになった。
学校が嫌いだからとか、いじめられているとか、勉強ができないからとかではない。気がする。
なんとなく行きたくなくなった。なんとなく。友達もいた。と思う。多分。僕が一方的に思っていただけかもしれないけど。
家からあまりでなくなったのは中学一年生の六月ごろからだった。
いつも変わらない毎日。学校に行って、授業を受け、休み時間には友人と絡む。笑ったり落ち込んだり。でも、僕にとってはどれも変わらなかった。ただそれだけ。毎日同じことの繰り返しだった。小学生のときはなにも感じなかった。この感覚。
その日は雨が降っていた。今日みたいに。ずっと降り続く雨。朝六時半に起き。朝ご飯を食べて制服に着替える。雨だがから傘をさして行くのは面倒だな。と、雨の日にはいつも考えていることを外を見ながら思う。曇り空。どこまでも続いていた。外は暗く。雨は冷たそうだった。
雨か……。
その日。僕は学校を休んだ。
なんとなく。特に理由はなかった。なんとなくだ。強いて理由をあげるとすれば、それは雨が降っていたから以外ないわけだが。その日から僕は、雨の日に外に出ることはなくなった。
次の日は晴れていた。晴れていたから学校へ行った。また平凡で。退屈で。くだらない日々。決して嫌いじゃないんだ。嫌いじゃない。授業もそれなりに面白いし、クラスは楽しいし。でも家に帰ったらなにをやっているのかわからなくなった。
その一週間後。また雨が降った。だから僕は学校を休んだ。
それからは同じことこの繰り返し。晴れたら学校に行き、雨が降ったら学校を休んだ。それが次第に曇りの日も学校を休むようになった。なんとなく。曇っているから。
さらに一ヶ月ほどして、晴れの日も外には出たくなくなった。なんとなく。それからの僕は部屋の中に閉じこもるようになった。一歩も外に出ず、窓から外を眺めている。なんとなく。
学校にいる時とそれは変わらない日々だったが、それならば家にいても同じだ。毎日繰り返している平凡な日というのは変わらない。なんとなく部屋に引きこもってなんとなく窓の外を眺めている。
なんとなく。なんとなく。なんとなく。
それから十二ヶ月。約一年間は外にでていない。靴を履いていない。当然学校も休んでいる。休んだ当初はチラホラ人が来ていたが、今は誰も来ないし、電話もかかってこない。別に期待していたわけではないが、なんとなく寂しい気持ちになる。薄情なヤツラだ。
結局友達と思っていたのは一方的だったんだな。一年生から二年生になるとき、クラス替えもあって。きっと僕のことなんか忘れて楽しくやってるんだ。まだ……僕の席は空いているのだろうか。
部屋のドアが三回鳴った。いつの日か決まっていたのだが、三回のノックは食事の合図。もうそんな時間か。時計に目をやると十二時になっていた。時間が過ぎるのは早いものだ。ゆっくりと立ち上がりドアに手をかける。そこにはいつものように、昼食のみがお盆の上に鎮座している……。かと思ったら。昼食など置いてはいなかった。ドアの向こうに居たのは一匹の羊だった。今日の昼食はラム肉か? あ、あれは子羊か。
「お邪魔しますよ」
優しい声で羊は喋った。透き通っていて綺麗で、一言聞いただけなのに安心できる声。モコモコの毛のそいつは平然と僕の脇をすり抜けて部屋の中に侵入してきた。止める暇もない。
羊はそのまま中に入り、四つの足を床につけ座る。毛はモコモコだ。
「えっと……」
「ドアを早く閉めてくれませんか?」
「あ、ごめんなさい……」と、羊の言うことに素直に従う。なんでだ?「えっと……」
「なんで喋るかとか、なぜ私が家の中に居るのかとかいう質問はなしでお願いします。なんとなくです。あなた、得意でしょ? なんとなく」
そこはなんとなくでいいのだろうか。ま、羊がなんとなくうちにいて、なんとなく喋ることもあるか。 と、僕は無理やり納得する。
ドアを閉めなおし、羊と話すために、いつもいる窓際に移動した。ここが一番落ち着く。僕と外が唯一つながっている場所。ここならば羊とも冷静に話しができる。
「さて、突然ですが。あなたの願いを一つだけ叶えにきました」
「願いですか」これにはさほど驚いてはいなかった。喋る羊が突然侵入してきて驚きつかれたな。なんとなくこの羊の言っていることは本当のことだと思った。
「そう、お願いです。あなたの好きなものを何でも一つ」あの優しい声で答える。
「あの。なんで……」
「なんとなく……ね」羊が笑った気がした。
「そんなものはありませんよ。僕は今の生活が気に入っているんです」
これは本当だった。朝起きて外を眺めて夜に寝る。この生活だけで満足だった。
「なんでですか?」僕の一番嫌いな台詞だった。理由を聞くなよ。世の中理由で説明できないこともあるんだ。
「理由を聞かれるのがお嫌いのようですね」
「なんで家に居るのか。なんで学校に行かないのか。なんで外に出ないのか。なんで。なんで。なんで。なんで。そんなに理由が必要ですか? なんとなく勉強しちゃいけないんですか? 目標を持たないといけないんですか? なんとなく家に居てはいけないんですか? なんとなく雨が降っていたから学校を休んじゃいけないんですか?」
「別に構わないと思います」羊はいつでも優しい声で喋りかけてくる。
「でもね。なんとなく生きるよりも理由をもったほうが。人生。楽しく生きていけますよ」
羊に言われたくはなかった。なんで羊にそんなことを。
「なんで羊にそんなことを言われなくてはいけないのか。あなたそう思いましたよね。それでいいんです。疑問こそが、人が生きている証なのです。私は羊ですけどね」
羊はまた優しく微笑む。実際には微笑んではいないのだが、この微笑を感じるとなんだか安心する。
僕は……なんで家から出ないのだろうか。なんで学校に行かないのだろうか。なんでだ?
「ほら。あなたの中の疑問が膨れ上がってきたでしょう? 少しだけでいい。見つめなおしてみてください。あなた自身を。なんであなたは学校が好きなのに学校に行かないのですか?」
「別に好きなわけじゃないです。なんとなく。いや……。こうして考えてみると。表に……出ることが怖かったんだと思います。移り変わる環境の変化に。ついていけなかったんだと思います」
羊はゆっくりとうなずく。二回。虫が止まっていても、そいつが気づかないくらいの速度で。
「そうです。それでいいんですよ。それで。少しずつでいいんです。周りに合わせる必要はありません。あなたは。あなたのスピードを守ればいいんです。人間は大変ですよね。環境の変化が多すぎて。人間関係。社会。家に引きこもっているだけで悪者あつかいされるでしょう。しかし、その人たちはわからないのです。引きこもることの辛さが。彼らも彼らなりに辛いことをわからないのです。社会で立派にやってきた人たちが、引きこもりたちのことを話し合うのはおかしな話しです。経験は最大の知識。引きこもりを経験していない。まして順調に道を進んでいった人たちが。彼らのことを話し合うなんていうのは論外。私はそう思います」
耳に響く。目の前にいるのは本当に羊なのかと疑いそうになるほどの喋り。声。存在感。僕は今までこんなにも存在感のある羊を見たことがない。決して目障りでなく。かといって消えそうでもない。僕とは全然違う。
「全然違って当たり前ですよ。私は、羊ですから」
「僕も羊に生まれたかったです」
「羊は羊で大変ですよ。全身の毛。そられますから」
「それは寒そうですね」と、僕は笑う。
いつ振りだろうか。人と話したのは。しばらくなかったような気がする。人と話すことはこんなに楽しかったのか。こんなにも安心できたのか。
「後は。少しの。勇気だけです」
外に出る。勇気。学校に行く勇気。四季の変化にさえもついていけなくなった。だから外に出て行けなくなった。そうだ。そういうことなんだ。学校に行く。テスト。夏休み。体育祭。僕はこの変化についていけなかった。そういうことか。
他の人から見ればそんなことかと言われるかもしれない。でも、僕はそれが苦しかった。突然苦しくなった。安心したかった。だから僕は逃げたんだ。
「人間にも個体差はあります。羊みたいにね。勇気の出し方も。心の強さも。みんなと同じじゃなくてもいいんですよ」
一度……外に出てもいいかもしれない。そう、思い始めてきた。僕も。このガラスの向こう側に戻れるのだろうか。
「では、改めてお聞きします。あなたの願いを一つだけ叶えにきました。何かありますか?」
目線を下にやり、一度羊から目を離した。願い……。願い……。さっきまでは何もなかった。けど……
「勇気。勇気が欲しいです。外へ出る勇気が」
僕は目の前の人の目を見て言う。あれは羊じゃない。人間だよ。僕の中では。
座っていた羊が立ち始めた。「そんな簡単なものでいいのですか?」と、言いながら。
「ついてきてください」と、羊はドアに向かう。慌てて僕がついていこうとしたら、突然ドアの前で立ち止まった。どうした?
「私。羊です」また笑いながら、透き通った声でこっちを見て話しかける。そうか。自分じゃドアを開けられないのか。
ドアを開けると羊は階段へ向かい、下へ降りはじめた。僕も後に続く。
玄関まできた。久々にここに立つ気がする。外との接点。世界への入り口。この先に行くと、あの世界が待っている。ガラスの外の世界が。
憧れではあった。でも怖かった。理由を探したくなかった。なんで外に出ないのか。怖かったから。
一年ぶりに靴を履く。羊は早く外に出たそうだった。そっか。羊は自分の力じゃドアを開けられないんだった。羊も不便だな。
ドアノブにゆっくりと手をかけて。開く。完全に開ききる前に羊は外へ飛び出していった。
眩しかった。上で見ていた景色と同じなのに。雨なのに。暗いのに。ガラス越しではないそこは眩しかった。輝いていた。
「さぁ。あなたも」
羊に促されて足を踏み出す……。でも出ない。踏み出せない。足を釘で打ち付けられているかのようにへばりついている。足が上がらない。重い。動かない。足だけではなく気づいたら体中が動かなくなっていた。前に進む力がない。
この輝かしい世界が怖い。踏み出せない。僕がこの世界の人間になってもいいのだろうか。
「大丈夫。さっきの願い事を叶えたから。あなたにはもう。勇気があるはずよ」
雨に降られながらも羊の声は心地いいものだった。
勇気……か。本当にもらったのだろうか。実感はない。でも、あの人が言うならきっとそうなんだろうな。
僕は。一歩を。踏み出す。
一年ぶりの。外の世界。
雨は冷たかった。雨の感覚。久々だ。いつもは音だけしか聞いていないこの感じ。これが雨だったっけ。懐かしく。新鮮だった。
「ほら。出られた」
僕は力いっぱいうなずく。ちょっと変えたら。なんとなくを少しでも変えてみたら。ちょっとでも世界と向き合ってみたら。世界は。案外怖くないものなんだな。
「寒くないの?」
「ん? 毛があるから」
「羨ましい」
僕は声を出して笑った。
雨が降っていた。
楽しげな音を奏でながら。
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