新人
「何、また来たの」
「はい、また来ました。暇なので」
部室の扉を開けるとおとこのこが一人いた。きいちゃん、と呼びたくて、北村君、としか呼べないから、仕方なく「きたむらくん、」と拙く声を出した。
「きたむらくん、なにしてるの」
「今は音ゲーの譜面のテストプレイをしています。とても楽しいです」
「とても楽しいの、よかったね」
「先輩は何をしに来たんですか」
「きたむらくんを見に来たよ」
「気持ち悪いですね」
大学近くのコンビニで買いこんだおにぎりとチョコピーナツを取り出して、チョコの方だけをきたむらくんにあげた。きたむらくんは「俺はチョコピーナツ一袋食べれば1日2日くらい余裕で動けます」と豪語するほどチョコピーナツが好きな大学一年生である。しかし私は先日チョコピーナツを平らげた数時間後にお腹空いたとぼやいていたのを知っている。カタカタと小気味よいリズムでパソコンの十字キーを叩くきたむらくんは、長いまつ毛に縁どられた目をしきりに瞬かせながらノートパソコンのディスプレイと向き合っていた。
「きたむらくん、春冊子の小説は出来た?」
『増量! ツナたっぷり!』のラベルが貼られたツナマヨネーズおにぎりを頬張りながら核心に触れると、パソコンをカタカタしていた指がぴたりと止まった。それから、「できてませんすみませんいますぐかきます」とタイピングよりも早いスピードで彼は捲し立てる。
「栗井先生はもうできたってよ」
「栗井先輩ですか。いや流石です。ていうかあの人は書くペースが速すぎるんですよ超人なんですよ凡人の僕と比べないでくださいよ。先輩何食べてるんですか」
「ツナマヨネーズおむすび。ツナ増量」
「ください」
「チョコピーナツ食べてな」
きたむらくんはぞんざいな手つきでチョコをつまむ。渋々といった体でワードソフトを立ち上げ、書きかけの小説データを開いた。ご丁寧に20×20字の文字数指定までかけている。
「主人公の心情が、今一わからなくて」
「どういう話なの」
「異世界に飛ばされた主人公が巨乳のエルフに求婚されてそこに主人公のメイドと名乗るスレンダーポニーテールが現れたと思いきや「お兄ちゃんを取らないで!」とうるうる目で訴えてくるヤンデレロリツインテの自称妹が出てきて「お嬢様! 一人では危険です!」と妹専属のお世話係さんまで現れて」
「うん、わかった、もういい」
「栗井先輩とか、どうしてるんですかね。一回聞いてみたいです」
口のはしにチョコをくっつけたきたむらくんは机に突っ伏した。空調完備で暖かい部室と満腹の組み合わせはともすればこのまま彼を寝かせつけてしまいそうで、いよいよ小説の進捗が危うくなってくる。
「情景描写とか入れるといいよ。よくあるでしょう、主人公の心境と天気を重ねあわせるっていう技法」
「異世界はいつも赤い夕焼けで25℃なんです」
「なんでそんな面倒臭いことしたの」
「わざわざ天気書かなくてよくなるかなと思いまして」
「自分で逃げ道塞いでるようなもんだよそれ」
「その主人公はさ、」おにぎりを食べ終わる前に、私もチョコピーナツを一つ頂いた。信じられない、なんていう目つきできたむらくんがこちらを見てくるけれど、そもそもこのチョコは私が買ってきたものである。「どういう状況で、異世界に行くの?」
「部活が終わって帰るとき、尊敬する先輩に意味深なことを言われるんです。そっからマンホールの穴に落ちて、気付いたら異世界に行ってます」
そう、と返事をする前に携帯が震えた。メッセージアプリを起動してみると、栗井くんから『いまからぶしつにいきます』とオール日本語の業務連絡が来ていた。尊敬する先輩、と、声には出さずチョコ味の口内で呟く。
「きたむらくん、どうして名のある作家は取材するのだと思う」
「お金があるからじゃないですか」
「経験に勝るものはないからだよ。恋愛だってなんだって、体験談の方がリアリティも出て受けがいい」
「取材は追体験ってことですか」
「その通り。そしてきたむらくん、今リーチがかかっているよ」
その辺に放られていたきたむらくんのバッグを手渡して、私は帰るように促した。きたむらくんはまだ食べきっていないピーナツチョコを名残惜しげに見つめていたので、それも手に持たせてやる。
「先輩、これどういうことですか」
「きたむらくんがすれ違いざまに栗井君に会って、その後マンホールに落ちたら素敵だなと思って」
「落ちたら俺、春冊子の締切間に合わないと思います。世界救わなきゃなんで」
「そしたら、文化祭にでも出せばいいよ」
「わかりました、行ってきます」
きたむらくんが部室の扉を開く。いつの間にか日は暮れかけていて、真っ赤な夕焼け空が生暖かい春の風を運んできていた。
今年は沢山一年生が入ってくれそうです。