夜間様
橙色の夕焼けは底に沈み切り、夜空に虫の鳴き声が砕け散っていく。
街灯りは遠く、河原へ近づくに連れて暗闇は増幅していった。神経が過敏になっているせいか、いつも以上に目の前の薄暗さが際立っている。影絵の街が、私をまた飲み込もうと待っている――そう思えた。
(今日が、最後)
真央は小さな胸を膨らませて、細く息を吐き出していく。
夜間様はいない。
もしかしたら、この河原じゃなくて他の場所に――なんて、一縷の望みに賭けて普段は声をかけない男子に話しかけた。だが、ただ嘲笑を浴びせられた挙句、夜間様の不在を突きつけられただけで終わった。
夜間様はいない。
熟成されていた噂は、呆気なく破壊されてしまった。
少年たちの中ではもう、夜間様は既に色あせて失われようとしている。
夜間様がいないなんて言われても悲壮感を覚えることはない。嘘だろうとは、なんとなく察しはついていた。が、実際に突き付けられると思った以上にショックだった。これがただの遊びだったなら、真央も家で不貞寝して終わるだろう。あの人の魂がいないと思ったのなら、家で泣いて眠るだろう。
でも、真央は声を聴いたのだ。あの浮浪者に襲われかけた時、間違いなく。
逃げろ、と。
温度のある声で。
夜間様はいないかもしれない。でも、あの人の魂は間違いなく、そこにいた。
戻ったのかと思って今日の夕暮れに病院に訪れてみたが、やはり彼は寝ているままで。
夏の暑い盛りの夕陽。
空はかぁっと赤くって、窓に括り付けていた風鈴すらも鳴らない静かな病室。その中で眠り続ける彼は本当に死んでいるように穏やかで、見ていて不安になってくる。
あの時、声かけたのはお兄ちゃんだよね。
口にしたって、返る言葉はない。
そんな話を母にしても、叱られるのが関の山だ。「人が入院しているのに、そんなこと馬鹿なことを言って」と泣くかもしれない。母は、意外と泣き虫なのだ。先日の夜も、母は泣いていた。「自分のせいで、あんなことが起きて」だなんて、父と話し合っていたのを――悪いと思ったが――覗き見してしまった。どうも母は、今日でパートを辞めるらしい。母は「私の不注意で心を痛めている。あの時、手を離さなければ」と、母の肩を抱く父にそう言っていた。父は何も言わず、頷いているだけだった。
(今日が、ここに来れるのも最後)
真央は河原へ向かう信号を渡り切り、土が剥き出しのはげた斜面を下る。
周囲の景色はいつもと変わらない。延々と闇が広がる中で、小さな波音が満ちていた。間を挟むように、虫の音が淡く足元へ広がっていく。
と――鉄砲風が吹いて、草木が鎌首をもたげる蛇のように揺らいだ。
途端、浮浪者の黒い輪郭が脳裏に蘇ってくる。ひたすらに恐ろしく、呑み込まれるかと思うほどに大きかった影だ。どこどこと胸内で心臓が暴れ出す。怖い。気味が悪い。少し思い出しただけでも膝が笑ってしまう。きっと、あの大きな黒い手に捕まれたら、二度と逃れられないだろう。
(……でも、捕まえなくちゃ)
少女は呟く。
あの人が起きる為には、魂を捕まえなくちゃいけない。
小さな頭を振って、恐怖を追い出す。もちろん完璧に追い出すなんて出来やしないが、そうでもしないと、そうと思わないと暗闇に足を踏み込むなんて出来るわけがなかった。
ざっ、と砂利を踏む。
盗られた虫取り網がないと、魂を捕まえられない。
父に、蝉が取りたい、と無理にせがんで買ってもらった虫取り網だ。失くしたと言えばまた買ってもらえるだろうが、そんな時間の余裕はもうない。
(捨てていてほしいな)
ズボンの裾を掴んで、虫が足の間に入らないようにしながら草むらの奥へと進んでいく。
少女の背丈ほどある草むらは、カーテンで包むように少女の姿を隠していった。
草々のアーチを潜り、幼い手で草むらを切り分けて一歩。また横へと草を追いやって、一歩。足を運ぶ度に全身の力を必要とする。草や土から漂う、手に取れそうなほどむわっとした重苦しい臭気に眉をひそめる。ここでいくら声をあげても、誰も助けに来ないだろう。ちょっとした声すら、草木に吸い込まれてしまうのだから。
人の手が入らぬ鬱蒼と生い茂る草むらをいくら歩いても、虫取り網が見つかる様子はない。子供の足では、到底奥までたどり着けるわけがないのだ。
真央は早々に捜索を切り上げて、草むらから出てきていた。小さな腕に、数か所ほど虫刺されが出来ている。母が買ってきてくれた服にも、あちこちくっつき虫や汚れが付着していた。母は何も黙っていてくれているが、そろそろ服の汚れに関しても何か言われるだろうか。
ざわり……背後で草が揺れた。
ざわり、ざわり。
風向きが変わる。枝が、草が、真央の髪が揺れていく。
痩せて荒れた河原に抜ける風はアーともヒャーとも聞こえて、まるで女性が怖ろしい何かを見て叫んでいるようにも思えた。
風は世界を煽るように吹き続けている。暗闇の中で耳を塞いで歩くわけにも行かず、真央はその場で風が止むのを待ち続けた。
そして凪が訪れる。
顔をあげて、真央は歩き出す。
向かったのは、橋脚の下だ。そこに誰かが住んでいるのは、母と橋の上を歩いた際に何度か見たことがある。
砂利の地面、背の低い雑草。車の走行音を頭の上にして、真央は橋脚に近づいていく。コンクリートで造られた橋脚の下へ行って、一度だけ深呼吸した。もしもそこに、あの日の男がいたらどうしようか。でも、あの男がそこに住んでいるとしたら、持ち帰った可能性もある。
車が橋を叩く音がする。
橋脚から少し離れた位置から裏を見やれば、小汚いブルーシートのテントがあった。
角材で作られた四角いテントが張られている。誰もいないようだ。真央は胸の辺りを小さな手でぎゅっと握りしめて、喉を鳴らした。まるで大きな犬のそばを抜けるように、そろそろと足を忍ばせていく。
テントの表に、古着をハサミで切ったような垂れ幕があった。
心臓がうるさい。
真央はテントのそばへ寄ると、古着の垂れ幕へ手を伸ばす。バッと古着の隙間から手が伸びてくる――そんな想像をする。
手をかけて、中を見やった。
狭い部屋の中はごちゃごちゃとした物を詰め込まれており、その奥に虫取り網がある。虫取り網があった。棒の部分に「たなかまお」と書かれている。
「……あった」
真央は狭い室内に一歩踏み込んで四つん這いになり、ぐっと足、体、手を伸ばして虫取り網の棒を――掴んだ。
幼い手にプラスチック製の冷えた質感が伝わってくる。
暑苦しいというのに、ひどく背筋が冷たく感じられた。
取り返したのなら、この場にいる必要はない。
身体を縮ませると、真央はすぐにその場を離れた。色んな物が肩や足に触れて落ちるのも気にせず、テントから素早く逃げようとする。
「おい、帰ってきたのか?」
誰かの声がした。真央の両目は大きく開く。
真央がテントから飛び出すと「おい」と背後に言葉を投げつけられた。
振り返っちゃいけない。その言葉を胸中で何度も繰り返す。
無言のまま橋脚から逃げて、胸に虫取り網を抱きかかえたまま砂利を走り抜けていく。逃げたいが、家に帰るのはだめだ。今、家に帰ったら今日はもう河原へ出れなくなる。今日が終わったら、もう夜には河原へ来れなくなってしまう。
どこかで隠れていなきゃ。
お兄ちゃんを捕まえるまでは、母が帰ってくるまでは、どこかで……。
首を強く絞められたような痛みを身体に押し付けられたのは、その時だった。
逃げなければ、そう思う暇すらもない。
視界は意志に逆らって流動し、足に心地悪い浮遊感に襲われる。身体は生温かなで湿った感覚に抱きつかれ、背中が何かにしっとりと濡らされていく。
耳の横で、小さな含み笑いが聞こえた。
どうにかして抜け出したいが、体が硬直して泣くことも喚くこともできない。
苛まれてしまうほどの荒い息が、首筋にかかってくる。
遠くで「また悪ガキが荒らしに来たよ」と言っていた。「あの人の所だから、別にいいでしょう。そんな怒りなさんな」と誰かが笑っていた。足音は遠ざかっていく。助けてと言いたくても、声がかすれて出やしなかった。
全身が叩きつけられる。地面に投げ出されたと知ったのは、口の中に入り込んだ土のせいだった。
呼吸が出来ない。
ひゅーひゅー、と隙間風にも似た息が口から漏れていく。その上に、どっと重々しい何かが被さってきた。
咳き込んだうえに涙で目が潤んで何も見えやしないが、大きな黒い輪郭が少女の上に覆いかぶさっているのはわかる。
「人が物を探しに行ってる時に部屋に入るなんて、悪い子だな。悪い子だよなぁ」
その人は真央に跨りながら、何かをぶつぶつと呟いていた。
興奮しているのか、こちらが何を喚いても聞く様子はない。真央の服の裾を掴んであげようとしてくる。抵抗しようとしたが、すぐに顔を叩かれて腕は解かれてしまった。頬が熱くて、風邪を引いた時よりも酷く体が震えてしまう。
「もたもたしていると前みたいに逃げられるしなぁ。悪い子はやっぱおしおきしないとだよなぁ」
笑っているような、怒っているような、半月の笑み。
「でもよぉ、俺、体悪くしてよぉ。出来ないんだよぉ。出来ないんだよなぁ」
だからよぉ、と男は手を伸ばしてくる。
少女の薄い胸板に、大きな手を被せようとしている。
「これは俺が初めて触るんだ。俺が初めてだ。よく覚えておけよ、覚えておくんだよ。忘れちゃいけない。絶対に」
ここは俺が触るんだ。初めては俺が貰うんだ。
何かいけないことをされる。真央はそう思った。
恐怖や悪寒、戦慄。不吉で、不穏で、とんでもない事をされてしまうという予感が全身を蝕んでいく。
激しく脈打つ心音の上に、男の手が伸びてくる。
見たこともない冷たい世界が、真央の腹部から上へ覆っていった。目の前には本物の闇が疑いような事実として真央に覆いかぶさり、飲み込もうとしている。おぞましい感触が口や鼻から内側からも浸食しようとしている。
そして肌を、ぞっと冷えた感覚が撫でていった。
ざわり。
ざわ、ざわ、ざわ。
木々が揺れる。
風が吹く。
黄色の花が、少女と男の間を通り抜けていく。
黄色い花と思ったソレは……。
「……蛍」
舌打ちするように、男は言う。
そう、花ではない。小さな蛍だ。蛍が舞い散る花のように、ふたりの間を抜けていったのだ。
それがまた一匹、二匹、三匹……少女と男を取り囲むように飛んだ。
「なんだ、くそ」
楽しみを邪魔されたせいか、男は憤りながら蛍一匹を叩き落とす。その手には別の蛍が、吸い付くようにしがみついていた。
そして……男が手を薙ぐのを合図にするかのように。
夜空へ両手を伸ばすように、何かを待ち焦がれていたかのように、蛍が舞っていく。ふわり、踊り、回り、一匹、二匹、十匹、百匹、千匹か万匹か。蛍は一斉に翅を広げて、風に吹かれた絹のカーテンのように、たおやかに膨らんでいく。
草むらの中で、星々のように煌めかせて。
柔らかな金色の明滅は少女の横をかすめて舞い上がる。服に止まる。空へ向かっていく。
その光景に囚われてしまったか、まぶたは一度も閉じられない。閉じるなんて、もったいないと思えた。
大気が、様々な密度が濃くなったような気がした。
舞い狂う金色。
世界は金に満ちていく。
背筋が凍るほど美しい光景だった。映画でも本でも観たことがない幻想空間が、少女の前に広がっていた。この世のものじゃないだろう。こんなものが、この世にあるはずがない。あってはならない。
幻の世界を目の当たりにして、少女は呆然としてしまう。
「うわぁぁぁぁああぁぁ」
突然だった。男は怒鳴り声にも似た悲鳴をあげて、少女の上から逃げ出した。解放されたせいか、やけに体が軽く感じられる。真央は服を直して鼻を啜りながら、少し咳き込んで立ち上がった。虫取り網を持って、足を前に出す。誰かに引き連れられていくように。
蛍に囲まれながら、真央は川へと向かう。
歩く。蛍は踊る。風が吹きすさぶ。
川の上を、誰かがぼそぼそと歩いていく。
不思議と怖さはなかった。
ざわざわと話し声が近づいてくる。あっと思うまでもなくそれらは近くまで来ていて、先頭に白い手袋をしたスーツ姿の男が見えた。父よりも年齢は上で、お爺ちゃんよりは下だろう。彼はこちらに目をやると、礼儀正しく一礼して微笑んでくれた。
男の後ろには、幾人かの影が見える。
「夜間様」
ぽつり、と少女は言葉を落とした。
夜間様がいる。
嘘じゃなかった。
意識の暗い部分が揺らいだような――そんな気がした。
影を引き連れた夜間様は、少女の前を通り過ぎていく。不気味で恐ろしい状況だと思うが、それよりもようやく憧れた人に出会えたような感覚で胸がいっぱいになっていた。
気が付けば、一列に並んだ影の中からひとり、こちらへ近づいてくるのがいた。
その影は真央を見止めると、小さな声で告げた。
「……真央ちゃん」
驚いてしまって、言いよどんでしまう。
「お兄ちゃんでいいよ」
苦笑する声を聴いた瞬間だった。雲間から丸い月が顔を出して、きらきらと明かりを降り照らしてくる。影は一歩進んで、月光の中へ入った。濃紺の闇は徐々に払われて、置き換わるように見慣れた輪郭と顔、姿が少女の前に浮かんでくる。
蛍の光が咲いては消えていく川の上に、彼は立っていた。
嬉しくて、びっくりして、感情が入り混じってしまって、言葉が溢れる代わりにぽろぽろと涙をこぼしてしまった。
強烈な安堵感と温かさに目頭が熱くなっていく。
やっと会えた。
ずっとずっと探していた。
真央の顔を見やって彼――春人は少し目を大きくした後、咎めるように目を細めた。
「ダメじゃないか」
春人は腕を組んで、少女にしかめっ面を見せた。
「夜に外に出るなんて、危ないだろ。お母さんたちがどれだけ心配すると思ってるんだ」
「……」
ごめんなさい。心配してくれてありがとう。
色んな言葉が頭の中に出てくるけれど、喉は縛られて声が出せない。何も答えないでいると、彼は申し訳なさげな声で続けた。
「まぁ、俺も言えたもんじゃないよな。俺、真央ちゃんにすっごく悪いことしたんだ。ごめん、謝るよ。だから、夜に出歩くなんてやめてほしいんだ。俺のせいなんだから、すっげぇ悪いし、言う義理はないと思うけど」
だから、と春人は継げる。
「家で、ちゃんとおとなしくしておいてよ。それが一番なんだから」
少しの沈黙の後、彼は困ったように頬を掻いた。
じゃあ、時間も余りないから。
春人はそう言って、踵を返して列に戻ろうとする。
待って、そう言いたかった。帰ってきて。なんでお兄ちゃんが謝るの。謝るのは私の方だ。危ない目に遭うのは自分のせい。全部お兄ちゃんに見られていたみたいだし、だいぶ心配かけてしまったようだ。でもそれも自分のせいだし、お兄ちゃんが謝る必要ない。
謝りたくても、感謝したくても、声は出ない。
一番言いたい言葉が言えない。
お願い、戻らないで。
もどかしさとは裏腹に、はひゅ、ふぅ、と声はかすれてしまう。
ぎゅっと、虫取り網を握り締める。
喉の奥で潰れていく言葉や頬を伝う涙の代わりに、真央は虫取り網を春人に向かって振るった。
虫取り網は彼の体をすり抜けて、川の中へ落ちてしまう。
ぱちゃり、空しく水音が響いて湖面に波紋していく。
つ、という言葉が喉をつっかえた。何度か言葉を募らせて、ようやく彼女ははっきりと口にする。
「捕まえた」
真央はもう一度網を振るう。
網はまた、ぱちゃり、と川へ落ちてしまう。
「捕まえた。ねえ、捕まえたよう」
ぱちゃん、ぱちゃん、と水音は跳ね続ける。
「捕まえた」
しばらく穏やかな静寂が流れて、小さな笑みと共に春人は振り返った。
「あー……捕まっちゃったな」
「私、捕まえたよ」
「そうだな。……うん、捕まっちゃったから、帰ってくるよ、絶対に。だから待っていてな。危ないことしないように」
やがて彼は再び真央に近づいてきて、小さく耳打ちする。
声がやけに近く感じる。体温は感じないのに。
「それ、伝えておいたら大丈夫だから」
黙って春人の言葉を聞いていた真央は大きく頷いて、手のひらでぐじっと鼻をこすった。
そして彼は離れる直前に、親指で真央の頬を擦っていった。付着していた土が、薄く拭われる。
確かに、彼は触れたのだ。
身体は自由になる。ふと周囲を見たら、金色の世界はどこかへ消え失せて、いつもの暗闇が舞い戻っていた。
頬に手を当てる。横に拭われた感覚は、確かにそこにあった。
家に帰らなくちゃ。
そう思うけれど、真央は少しの間だけ、川をじっと見つめていた。
蛍は互いの光を浴びて、黄金色に発光する。
少女を地面に突き倒していた浮浪者は、愕然とした顔で光に満ちる世界を見やっていた。
見ていたいわけじゃない。
何かに囚われたかのように、釘づけにされて動けないでいたのだ。
なんだ、何なのだこれは。
ぐわっ、と異様な物が胃からこみ上げてくる。
わき腹が痛い。腹の底から嫌な物がせり上がってくる。気持ち悪い臭気が、世界に満ちていく。世界から自分の口へ鼻へ。穴と言う穴を犯していく。
蛍が飛ぶ。
異常な数を率いて、空へ、夜空へ舞う。
それは人の魂にも思えた。
たくさんだ。それは、数えきれないほどに……。
みっしりとした蛍の隙間、奥の草むらにみすぼらしい人影が見えた。落ちくぼんだ瞳に、痩せこけた頬。夏だというのにロシア帽を被った彼は、たったひとりでこちらを見やっていた。
白く泡立ち、濁った眼球。
所々抜け落ちた歯に、凝固した血液が染みた服。
陥没した頭蓋から血を流した男は――。
「お前、お前……平田……」
風が吹いて、ふわりと舞った蛍が彼の姿を隠して、一瞬後には消えていた。
ああ、やっと会えた―――俺は嬉しいよ
懐かしい声が背後、いや、脳裡に響く。
浮浪者は口をぽかんと開けたまま、体を震わせていた。
これは何だ。夢か、幻覚か。とうとう頭がおかしくなってしまったのか。
と、金色は浮浪者の下から弾けて、奔流は渦となり空へ消失していく。
彼が覆っていた少女もまた蛍だったのかと思うと、口の中にソレが入ってきた。ざらりとした舌の上に、六つの足がしがみつく感覚。
ぐえっ、おふっ。うえぇっ。
蛍を吐き出すと同時に、浮浪者は絶叫していた。
酒を飲んだ時よりも熱い。臓腑を焦がす熱が全身に染み渡っていく。
「うわぁぁぁぁああぁぁ」
叫ぶことが出来た。
出来たと思ったら、指も動かせる。彼は立ち上がり、自由を逃がすまいとその場から逃げ出した。
逃げろ、逃げるんだ。どこまでも逃げよう。
逃げるのは慣れている。これまでの人生、ずっと逃げ続けていたのだ。
随分と長く走って来なかったからか、膝が軋む。足の裏が痛い。内臓に響いてくる。それでも、この場から逃げ出したかった。あの濁った眼、視線が怖かったのだ。それでも蛍は待っている。どこまで行こうとも、蛍がいる。
蛍は彼に絡み付き、行く手を塞ぐように飛び回っている。
足が重い。首に止まる。服の隙間やズボンの間から、体の中に入り込もうとする。
知らない人間の魂が、蛍が。
ああ、蛍に閉じ込められてしまう。
両手を振り回して、蛍を潰しながら走る。砕ける感覚が手のひらに残った。
瞬間、だった。
がさがさがさがさがさがさがさがさがさ!
草むらをかき分けて走る音が背後に迫る。草の中から笑みを滴らせた平田が飛び出してきた。被っていたロシア帽はどこにいったのだろう。脳を露出させた頭蓋、肉を剥き出しにしたソレを晒して、両手足を異常な方向へ蠢かしながらしがみついてきた。尋常ではないほどの恐怖に身を竦めた時、平田は浮浪者の手と首を掴んだ。死肉の冷えた感覚が己の肉へ食い込んでくる。
「お前もくるんだよ」
おぞましさと腐臭に強烈な吐き気が込み上げてくる。
なだれ込む恐慌に何も考えられなくなった浮浪者は、狂乱に頭を真っ白にさせたまま声ならぬ絶叫をあげた。
振り払う。力いっぱいに。
倒れながらも、浮浪者は走ることをやめなかった。
身体が痛い。あちこちが痛い。
視界が金色に覆われていく。
金色だ、金色。
金色から逃げよう。逃げなければ……。
彼の体はもう動かない。無理が祟ったせいだろう。草に抱かれて、静かに眠っている。それでも彼は、どこまでも逃げていく。誰も捕まえきれない場所へ、遠くへと。
「死者を集めて異界を作り出す、ですか。こんな無茶、よく許可しましたね」
オギヤカの言葉に、ヌバタマは肩をすくめた。
「無数の蛍に見せかけた光も、意味がわかりません」
視線の先では、河原沿いで少女と春人が言葉を交わしている。
春人が映画館で声をかけてきた時は驚いたものだ。彼の発想はやはり人間独自の物で、それは自分たちにはない感性なのだなと耽ってしまう。それは情緒というのか感情というのかわからないが、素晴らしいものだと思えた。
「死が近ければ見えてしまうこともある。それを利用するなんて考えないからな。普通は」
「答えになっていません。協力した理由を述べてください」
彼女の全うな言葉にヌバタマは口を尖らせる。
彼は小さく鼻息をついて、渋々と言葉を付け加えた。
「どうも社会人にはボーナスというものがあるらしい」
「はい?」
「数ヶ月分の給料が振り込まれるんだよ」
「それがどうかしましたか?」
彼女の刺々しい視線を横から感じてもなお、彼は飄々と続けた。
「私たちは死者を運ぶ仕事ばかりしてきた。生き返る者のお手伝いが出来るなんて、素晴らしいボーナスだと思わんかね?」
そしてヌバタマは顔をあげて、改めて少女を見やる。
何度も春人の背から虫取り網を振るい、彼を困らせているようだった。
それでも、困惑した表情はどこか嬉しそうだ。
「それに、小さな女の子に夢を見させてあげるなんて今まで経験したことのないことだ。いいじゃないか、彼らの為なら私は夜間様になろう」ヌバタマは笑う「彼のそばにいられるなんて、私は君が羨ましいよ。オギヤカ」
「蛍は?」
どうも彼女には情緒や感性や感情といったものが欠落しすぎているきらいがある。それがまた可愛らしい点ではあるのだが、口にすれば彼女は半年は話しかけてくれなくなるだろう。ヌバタマは不満げに一冊の小さな手帳を取り出して、ぺらっとめくった。
「知っているだろうが、あの男は蛍を口実にして真央を追い込んだろう。そんなに見たいのならばと、私から彼へのボーナスだ」
オギヤカはつまらなさそうに目を閉じて、踵を返した。
彼はその小さな背に、言葉をひとつ投げかける。
「あまり春人くんを苛めないでくれよ。私は気に入ったんだからな」
「ひとり、魂が逃げていったみたいですよ、ちゃんと捕まえてくださいね。自分の尻拭いは自分でするように」
彼女は振り返ることもせず、いつも通りの平坦な声でそう言った。
瑞々しい葉が折り重なって、濃い影を地面に落とす。
入道雲は高く昇り、太陽を隠して世界の奥から影がにじり寄る。
真白の病室は閉め切られており、クーラーの音だけが流れている。外は視界が白むほど暑苦しいというのに汗ひとつ掻いていないし、蝉の声ひとつ聞こえないのが不思議に思えた。
春人は輝く陽光を浴びても、未だに起きることはない。機械を弄ったり検査していた看護師たちが「もう起きることがあるかどうか」と小さく話し合っていたのも聞こえた。
「いつもびくびくしてたあんたが人助けねぇ」
春人の母は言葉を落とす。もちろん、聞いている人間はどこにもいない。
語りかけるのも何度目か。息子に話しかける度に、これまで積み上げてきた物が崩れていくような、妙な喪失感を覚えてしまう。それでも話しかけずにはいられなかった。話しかければ、いつか元通りに返事がきそうな、そんな気がした。
それでも家に帰れば「おはよう」の言葉があったはずだと痛感してしまう。やけに広く感じる部屋が嫌で居心地が悪く、日課であった酒量もだいぶ減ってしまった。そのことを伝えたら、息子はどれほど喜ぶだろう。その声も、今は届きやしないが。
もちろん状況が辛くったって従業員たちに迷惑はかけられない。だから働く時は精一杯笑顔を作って、家に帰れば抜け殻も同然。それを交互に繰り返されている生活を送っていた。自分の様子を見かねてだろう。従業員たちは、噂好きの語り草にならぬように配慮してくれている。その様子が嬉しくもあるし、痛々しく、悲しくもあった。
暑さにやられてしまったのか、と馴染みの客はそう言った。
確かにそうかもしれない。今年の七月は眩しすぎる。
眩しすぎて、立ち上がる気力すら覚束ない。熱に吸い取られるかのように、心が枯れるほど泣いた。涙が枯れるほど枕を濡らした。泣いて泣いて絞り出せば楽になれるかと思ったが、冷え冷えとした体に熱はちっとも入り込まない。
息子は不慮の事故を助けるべく、こんな姿になってしまった。
朝起きれば、どうしても避けようのない現実を突きつけられてしまう。
恨み憎めば少しは楽になるだろうか。そう考えたこともある。しかし、それを引き起こした相手を恨むことなど出来やしない。息子が助けようとした相手を恨むなんて、息子が起きた時にどんな顔をされてしまうか。
でも、と思う。
息子の顔に泥を塗るような真似はしたくないが、高校もろくに卒業できなかった学のない自分にはどうしたらこの感情を払拭できるのか知れない。
扉がノックされる。
はい、と答えるといつもの田中一家が顔を出した。
父親は仕事らしく、来るのはほとんど母と幼い娘だ。
自分よりも年下だというのに、彼女は律儀にも時間さえあれば顔を出してくれる。その度に会話を交わしてくれるのだから、当初は戸惑いや苛立ちもあったものの、今では支えとなってくれていた。
その息子が助けた娘――真央はまだ小学一年生だという。どこかで怪我をしたのだろうか、膝に絆創膏が貼られていた。
「ねえ、春人のお母さん」
息子が助けた目が、一直線にこちらを射ぬく。
幼い瞳は真剣そのもので、無碍にするのは憚られる。体を幼い少女へ向き直らせて、彼女は首を傾げた。
「どうしたの、真央ちゃん?」
「私ね、この間お兄ちゃんに会ったんだよ。あのね、川の方で会った」
さぁっと血の気が引いた。
息子が死んだとでも言っているのだろうか。冗談にしては性質は悪い。無邪気な子供の言うことではあるが……。
こちらが固まったのを見やってか、慌てて真央の母が娘を叱り飛ばす。
「真央、あなた何てこと言うの。すいません、娘が妙なことを」
「私、嘘吐いてないもん」
「そういう話じゃないでしょ」
「本当だよ。会ったんだよ、お兄ちゃんに」
真央はムキになって己の母へ突っかかる。
元気な娘に翻弄されるがまま、母親は必死に言葉を取り繕って娘に謝罪させようとしていた。でも娘は頑なだ。それが昔の自分を見ているようで、どこか可笑しくて小さく苦笑した。
「気になさらないで。……ねぇ、真央ちゃん。お兄ちゃんどうだった」
「んー」
真央は少し俯いて、すぐにこちらへ顔を向ける。
そして小さな唇は、確かにこう言った。
「母さん、酒、飲むなよ」
陽光が、病室に射し込んでくる。
夏の冴え冴えとした光が肌に当たって、仄かな温かさが血の巡りを感じさせてくれた。彼女の母は頭がくらくらとしたのか、どうにもならないといった表情だ。
「真央、だから」
「本当だよ、お母さん。お兄ちゃんがそう伝えてくれって言ってたもん」
真央の肩を掴む母の手を振り払って、幼い彼女に視線を合わせる。
思考が揺れる。目尻に涙が溜まっていく。震える声を抑えるけれど、それは出来なかった。
「ねえ、もう一度言ってくれる?」
少女は少し戸惑った後、はっきりと口にする。
「お酒飲むなよって」
「本当に、そう言ってたの?」
少女は力強く頷いた。
「それ伝えておいたら大丈夫、って言ってた。約束したよ。帰ってくるからって」
冗談かと思う。少女の嘘かもしれない。そんな大人としての建前が羅列されていく。
それでも、彼女は真央を抱きしめずにはいられなかった。
少女の体は温かくて、しっとりと汗ばんでいた。
「とりあえず、田中真央はもう無事ですね。バランスも安定しました」
ピンク色のノートを閉じて、オギヤカは小さく嘆息する。
病室の廊下を二人で歩きながら、俺は大きくあくびした。カマキリ浮浪者こと平田門次郎は浮浪者を驚かすだけ驚かした後、出会った当初とは正反対の晴れやかな笑顔でヌバタマに引き連れられてミーグソーへと向かっていった。
「バランスねえ」
待合室で垂れ流しているニュースキャスターが、浮浪者の孤独死について熱く語り合っている。それらを横目に見やりながら、俺はオギヤカに訊ねてみた。
「試練、ひとつで終わり。……なんてないよなぁ」
「ええ。当たり前です」
「……うへぇ」
「さ、確認は終わりましたので次に移りますよ」
「少しはご褒美なんて物があっても」
俺は低く聞こえない程度に呟く。
が、地獄耳にはそれも無駄だった。
「お仕置きならいつでもできますが」
彼女から視線を明後日の方向へと外す。
「虫取り網で捕まえられた男が文句言わないでください。今、捕まえているのは私ですが」
冗談にもならないことをサラリと彼女は言う。
病院の外では、真っ白な光を放ちながら、木々が輝かしく反射している。
空は見上げれば青空はどこまでも高くて、確かに虫取りにはちょうど良い日に思えた。