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そして夜間様を探して

 予告が終わり、館内は静まり返る。

 照らしてくれていた淡い橙色の明かりも、段階を経て消灯していった。

 館内はまばらではあるが、客はいる。騒がしかった声も収まり、どこからか小さく「おっ」と誰かの声がした。慎ましやかにポップコーンを齧る音すらも、ひと際大きく感じる。

 ビー、と開始の合図が鳴り響いた。ちょっとした緊張感が波紋して、物語の始まりを予感させる。そんな雰囲気が心地よくて、俺は目を細めた。

 映画館に来たのは、いつ以来だろうか。確か小学生の頃だったと思う。母親に手を引かれて、子供向けの怖い映画を観たような――そんな気がする。内容は覚えていないけれど、隣で声を殺しながら驚く母の手を強く握っていたのは、今でも思い出せた。

 なんとなしに懐かしい情景に浸った後、俺は嘆息した。

 隣の座席に腰を落ち着けたオギヤカに首を傾けて、小声で耳打ちする。

 もう俺の声は誰にも聞こえないのだが、まぁ雰囲気に飲まれているということなのだろう。

「どうして映画館なんだよ」

「今から映画が始まるんですよ。静粛に」

 彼女もまた小声で制してくる。

「そうじゃないだろ。だから、何で俺を映画館に――」

 小声ながらに声を荒げた。

 その途端だ。

「映画はまことに素晴らしい」

 オギヤカとは反対方向、つまり俺の横からだ。渋く低い声が会話の隙間に差し込まれてくる。

 驚いて振り返ると、いつの間にか椅子に深く座り込んだスーツ姿の男がいた。薄暗闇の中ではその輪郭はいまいちハッキリとしないが、声や雰囲気からして壮年の男だろうと予測する。

 その男は、周囲に気を使う様子もなくつらつらと言葉を重ねてきた。

「人の心や考え方ってのはなかなか知る機会が少ない。しかし映画とはソレを追体験できたり、人の思考、見方、ちょっと視野を広げてくれる。本やドラマ以上の臨場感を持ってね。だから映画ってのは最高なんだ」

 映画通なのだろうか。彼は唄うように映画について語っていく。

 俺は体を少々前に倒して、奥を見やる。彼の横には誰もいなかった。

 その異様さが何だか恐ろしく思えた。だって、俺らは普通の人には見えない存在だ。つまりそれは、彼がぺらぺらと饒舌に独り言を呟いていることを意味する。

 俺はオギヤカの腕を肘で突っついて、隣の男を顎で指した。

「……オギヤカさんの知り合い?」

 俺はオギヤカに訊ねたつもりなのだが、何故か男の方が答えてきた。

「他部署の者だよ」

 ギョッと彼を見やる。

 こいつも、あの世の住人か。

 こちらがそう言うよりも早く、彼は上半身を大きく前に傾けて、オギヤカへと目をやった。少々痩せぎすの、精悍な顔つきをした男だった。

「この方が、今度生き返るかどうか試練を受けている春人くんかな?」

「はい」

「ふむ」

 オギヤカの小さな頷きを確認した男は、続いて俺の顔を値踏みするようにまじまじと見やる。

 髭が似合う四十代前後の男だ。彼はこちらを直視したままニヒルに笑う。目尻の皺といい「なるほど」と興味深げに顎に手を当てる姿といい、ひとつひとつの仕草が古い白黒映画の俳優のようだった。

「初めまして、私はヌバタマと申します」

「……どうも」

 彼は両手を組んで、椅子に大きく背もたれてリラックスする。

 そして映画が始まった。洋画だ。場内が画面の光に照らされると、男は陶酔した様子で映像に見入っていく。

「春人くんは、映画は好きかな?」

「え?」

「映画は好きかな?」

 繰り返される言葉に、俺は短く顎を引いた。

 特に思いやりがあるものがあるかと言われれば、ないと断言するが。

「そうか。私たちも好きでね」

「……たち?」

 彼は肩をすくめて、微笑んだ。

「この仕事をやる上での楽しみが、これなんだ」

 思わず館内を見渡してみれば、私服姿の客に混じってスーツ姿の人がちらほらと見えた。

 この間見た小説では『天使は図書館に集まる』とか言っていたが、こいつらは映画館に集まるらしい。見やれば、一心不乱に映画を鑑賞している者や、中には両ひざに肘を押し当て、やや前傾姿勢のまま食い入るように観ている者もいた。

「この間までは小説や演劇だったんだがね。時代の発達は素晴らしいよ。特に以前鑑賞した映画なんて最高だった。どうやら、あの世では海の美しさを語るのが流行しているようでね。私はまだ、海をじっくり眺めたことがなくて感心したよ。今度、実際に海に行かなきゃいけないと思ったもんさ」

 と、彼は微笑みを絶やさずに言う。

 俺はヌバタマに「好きなら黙って映画、観ないのか」と訊ねた。彼は笑って「もうこれで五度目なんだ。この映画は」と話した。

 そして オギヤカは間に割り込む形で問う。

「ヌバタマさん、私が聞きたいことはひとつです」

 彼女の問いに、ヌバタマの言葉が止んだ。

「あなたは、ここら辺の担当でしょう」

「ええ」

「夜間様とはご存じですか?」

「夜間様?」

 ええ、と今度はオギヤカが返す。

 彼は何かを思い起こすようにこめかみに人差し指を当てて、むう、と小さく呻った。場内の陰影と顔の彫の深さが相まって、まるでノワール物映画のギャングのようである。

 少しの間の後、

「いいや」

 ヌバタマは首を横に振った。

 彼の仕事は案内人らしい。それは俺のような人間を連れまわすのとは違って、この世界で至極真っ当に死んだ者をあの世に連れて行く仕事だそうな。彼はオギヤカから夜間様についてひとしきり説明を聞いた後、椅子に深く背もたれながら言った。

「おそらく、子供たちの作り話だろう。確かにエスコートはするが、わざわざ川の上を渡る必要はない」

「ですね」

 と、オギヤカが続く。

 俺は、草むらにひとりで包まれる田中真央を思い出す。

 その姿が、あまりにも哀れに思えた。

 来るはずのないものを、待ち続ける少女。

「子供たちの間では、流行っているんですよ。川を歩く、夜間様が」

 そのつもりはなかったのだが、俺は自然と擁護してしまった。

 なんとなく気恥ずかしく感じ「まぁ子供ですから」といらぬ言葉を付け足してしまう。

「子供はサンタとか、信じているもんですよ」

 ヌバタマは訝しむように眉をひそめて、そんなものなのか、と言った。彼はオギヤカに比べれば明るい人物なのだろうが、やはり人の機敏というものは苦手らしい。

「まぁ」ヌバタマは一息吐き「田中真央がやっていることは無駄だろう」

 はっきりと言う。

「もし好意的に考えるのなら、だが」と前置きを置いて「誰かが私たちの行進を見た可能性はある。それが伝言ゲームとなり、変化していった。とも考えられる。しかしそれは限りなくゼロに近い。死に近い人間以外、私たちは見えないのだから」

「そうですか」

 俺は肩を落とす。

 と、ひとつ気になる点が出来た。

「死に近いって、どういうことですか?」

「言葉通りだ。私たちがエスコートするのは死者。生きている人があまり近づいていいものじゃない」

 俺は「嘘だろ」と反射的に立ち上がったが、ドカッと強烈な重力に寄って強制的に座らされてしまう。

 まるで巨人に肩を掴まれて無理やり抑え込まれたようだった。

 困惑しながら横を見ると、オギヤカがその薄く鮮やかな唇にピンと立てた人差し指をくっつけて、ひと言。

「上映中は、お静かに」

 どうも彼女の仕業らしい。

 電撃以外にも使いようがあるのね、と感心と憤りと悲しみが入り混じる。

「おい、でも、あの子が。バランス崩しているんだろ。もしかしたら」

「田中真央はもう帰宅しています。下手に飛び出しても何も出来ないんだから、落ち着いて考えてください」

 彼女の言葉に反論できず、俺はややむくれてスクリーンに顔を向ける。

 ヌバタマの、尻に敷かれているね、という蠱惑的な低い声がやけに耳に残った。

 まぁ、なんというか。

 嫌な予感というものは、いつも嫌な時にだけ的中するものである。


 田中真央は、翌日も河原の茂みで夜間様を待ち伏せた。

 前日とほぼ同じ時間。彼女はじっと、虫取り網を持ちながら身を潜めている。チチッと虫の鳴き声がする。自分に飛び掛かってくるんじゃ。そう思うとそら怖ろしく思えたが、今日こそ夜間様を捕まえるんだ、と彼女は腰を据えていた。

 でも、と彼女は俯いてしまう。

 胸の奥がチリチリと燻されていく。

 今日で何日目だろうか。ここまで見張っても、少しも成果は出やしない。

 車の音が、どんどん遠く感じられる。自分がいる世界だけがくっきりと切り取られたようで、なんだか強い寂しさを覚えた。焦燥感が胸中に広がっていく。今日こそは捕まえたい。けど……。

 真央はその場に蹲ってしまう。

 本当は夜間様なんて、いないのだろうか。

 自分が勘違いして覚えているだけなんじゃなかろうか。あの夜聞こえたのも、ただの幻聴かもしれない。ああでも、もしかしたら、夜間様は他の川に出るのかもしれない。燻った疑念は小さな火となり、少女の内側で燃えていく。

 私はこれ以上、遠くへ行ったことがない。

 他の川へ行くには、もう少し時間が必要だった。でも自転車も乗れぬ子供では、遠くなどとタカが知れている。迷って保護されるが関の山だ。

 と、唐突にひどい臭い。異様な臭いが、彼女の鼻についた。

「なぁにしてんだぁ」

 はっ、と顔をあげる。

 草むらをかき分けるように、黒く大きな塊が彼女の視界に現れる。

 それはまばらに髪が散った、顔中白と黒のヒゲに覆われた男だった。夜間様じゃない。身体を強張らせる真央を見つけるなり、男はニタァと笑う。

「こんな時間に、子供が何してんだぁ」

 間延びした声はいやらしく、男は真央の幼い体を舐めるように視線を動かす。

 男は煤切れた上着を揺らして、一歩、また一歩と真央に近づいた。闇になぞられて、男の黒いヒゲがまざまざとなびく。

「虫、取ってんのか?」

 男は訊ねてきた。

 何て事情を伝えればいいのか迷っていると、男は再び「虫、取ってんのか」と繰り返す。

 男は太り切った足を折り、その足の指先だけで立つような形でしゃがみんだ。でっぷりとした腹を突き出して、幼い真央に視線を合わせてくる。その姿はまるでダルマだ。

「俺の言っている言葉がわかるかぁ? 虫、取ってんのかって聞いてんだ」

 ダルマ男の圧迫感に恐怖してしまった真央は、怯えながらも男の問いに小さく頷いてしまう。

 それがいけなかったのだろう。

 真央が反応してくれたのが嬉しいのか、男はしゃっくりするように笑った。耳障りな異様な笑い方だった。

 彼はキョロキョロと、顔を背けぬように周囲へ目線を送る。

「ここら辺はなぁ、もう少し時期が来ると蛍が飛ぶんだよぉ。知ってるか? 蛍。ほら、尻を光らせる虫よ」

「蛍」

 訊ねたわけじゃない。ぽつりと言葉を落としただけなのだが、彼は頬の肉を持ち上げて、ぱぁっと表情を明るくした。

 会話が続いたのが嬉しかったのだろう。男は嬉々として身振り手振り言葉を繋ぐ。

「そうだ。綺麗な水場にしかいないんだ。だから俺らがここらに住めるんだけどよ」でもよ、と男は真央から虫取り網を取り上げて「蛍を取るのは難しいぞぉ」

 彼はピーマンじみた鼻に皺を寄せて、何かを捕まえる動作をする。ぶん、と大きく横八文字に空を切っていく虫取り網。

「俺が教えてやるからよぉ、こうして、こうだ。こう振って昔は捕まえたんだよ」

 彼の手もまた顔と同じように浅黒く、すぅっと何度か真央の肩をかすめていく。下手な大立ち回りを披露する男。その様子はどこか滑稽で、真央は徐々に緊張が解かしていった。


「なんで嫌な予感って当たるんだ」

 田中真央は、浮浪者の面白おかしい話題に聞き入っている様子だった。微妙な手や足の動きで、それは明らかに、そして少しずつ田中真央を草むらの奥へ誘導している。

 幼さゆえの危機意識の低さか、男に体に少し触れられても気付きやしない。

「でも、私たちには何も出来ませんよ」

 無愛想なオギヤカの声にうんざりする。

 悠長に映画を観ていたせいで、こんな目に遭っているんだろう。

「どうにか何か考えてくれ……。このままじゃあの子が何されるかわからない」

「言われても無駄ですよ。この状態では見守る以外に選択肢はありません。それに私は案内人。あくまで、試練を攻略するのはあなたですから」

 オギヤカはここまで状況が切迫しても表情を変えない。

 彼女に少し苛立ちを覚えて、俺は舌打ちする。

「何をするつもりですか?」

「助けないといけないだろ」

「正義の味方しても無駄ですよ。触れられないんですから」

「それでも」

 彼女の仏頂面から視線を外して、うんざりした口調で返した。

「ここで立つだけなんて、俺には出来ない」

 オギヤカの視線は厳しかった。

 彼女の溜め息が聞こえた気がする。それでも俺は大きく息を吸って、浮浪者と田中真央へ足を進めた。

 はやる俺なんて露知らず、浮浪者は下卑た表情を浮かべながら草むらの奥へ、奥へと少女を誘導する。その逃げ道は、やがて閉ざされてしまうのが目に見えた。ぼうぼうに伸びきった草むらは、少しずつ彼女を押し隠していく。そっと後ろから、優しく目隠しでもするように。

「おい、馬鹿。何してんだよ、やめろ。真央、逃げろ、逃げろって」

 俺は浮浪者へ力任せに拳を振るう。

 拳は風切り音と共に、浮浪者の中へすり抜けていく。いくら手を振るっても、彼の動きを止めることは出来ない。

 浮浪者は戯言と吐きながらまた一歩、奥へ進む。そしてまた、また一歩だ。浮浪者は嘲るように、笑みを作った。

 手を振れば振るほど、己の無力さを痛感する。大雨の中、店長室でキスをする店長と先輩がフラッシュバックした。ああ、俺はまた、何も出来ないのだろうか。

 指をくわえるしかないのか……。

 母に触れられなかったのを身を以て知っているはずなのに、俺はこの期に及んでまだ言葉を吐き続ける。

 逃げろ、早く逃げろって。危ないから。

 俺の声は届かない。

 この状況は俺が作り出してしまったというのに。

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