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そして夜間様を探す

 少女が河原へ出掛けていることを、父親と母親は知らない。

 彼女が虫取り網を持って出掛けるようになったのは、三日前からだ。

 時間帯は夕方の六時から八時の二時間。晩御飯を電子レンジで温めて食べた後、共働きである両親が帰宅する前に家を飛び出す。一日の隙間を利用した、夜のお出掛け。

 虫網を持つと言っても、彼女は虫が大の苦手だ。芋虫が近くにいるだけで鳥肌が立つし、蝶々や蝉も遠くで見る分には可愛いと思うけど、それらが近づいてきただけで悲鳴をあげてしまう。だから少女は虫取り網を大事そうに抱えながら河原にきても、初日は付近の土手に座って川を眺めているだけだったし、昨日なんて行き交う車とか人影を見ているだけだった。

 虫の多い河原だ。ゆるい風が葉を揺らして、夏の虫が小声で鳴いている。重くて苦味のある土の匂いの中、ひとり立つだけでも怖ろしかった。いつ虫が飛んでくるかわからない。もし両親にバレたら、凄く怒られるのもわかっている。それでも彼女は、どうしても捕まえたいものがあった。

 少女――田中真央が会いたいのは虫ではなくて夜間様。

 そして取りたいのは虫ではなくて、魂だった。


「真央のせいで、人が死んだんでしょ」

 先週の終わり頃だった。ちょっとした好奇心だろう。クラスメイトの女の子は目を輝かせて、真央にそう訊ねてきた。

 気性の激しい子で、いつも何かと突っ掛ってくる。少し苦手な子だ。

「ずっと病院にいるって聞いたよ」

 女の子が言っているのは、入院中の彼のことだ。

 道路に飛び出た真央を助ける形で車に轢かれて、病院に入院している高校生がいる。名前は春人。母親の仕事が休みの日は、連れ立って彼のお見舞いに行っていた。

「聞いたよ、大変なことになったって」

 大変なこと。

 確かに、彼はまだ目覚めていない。それは大変なことだと思う。お酒で酔った父親でも朝になると目が覚めるのに、彼は朝も夜も眠ったまま。ずっと病室で眠り続けている。

 でもそれは死んでいるんではなくって、身体がびっくりして眠っているだけだ。……と、母親は優しく言ってくれた。

 母親が伝えてくれたことを告げると、彼女はムキになって言い返してきた。

「違うよ、お母さんが言ってたもん。もう絶対に起きないって。それ死んでると一緒でしょ」

 強気な言葉に押されて、真央は口を出せずに黙りこくってしまった。

 母親は、真央に嘘を吐いているのだろうか。小さな疑問が、彼女の胸に焦げついていく。

「だからずっと病院なんだよ。死んでるんだもん。真央ちゃんのせいだよ」

 すっと、胸の底が冷たくなる。

 教室に先生が来て、慌てて止められても尚、女の子は興奮して真央を非難した。こんな風に言われるくらい、私は大変なことをしたのだろうか。

 やがて女の子は、周囲を気にかけずに泣き出してしまう。何故泣き出したのか、真央にはわからない。宥める先生と涙をこぼす女の子を見やりながら、真央はじっと俯き続けていた。


 川はあの世に繋がっていて、夜になると夜間様が魂を道案内しているという。

 放課後の教室で、男の子たちがそんな話をしていた。夜間様とは何かと会話していたけれど、帰り際に耳にしただけなので詳しい話は聞こえなかった。おそらく、彼らは肝試しするのだろう。男の子たちの間で、ちょっとした度胸試しが流行している。今、わいわいと話し合っているのもそれについてだろうと思っていた。

 そんなことよりも今日は母親の仕事が休みで、高校生との面会日だ。家で母親が待っている。

 真央は足早に教室を後にして、自宅へと向かった。


 暑さが染み込むような寝苦しい夜。なかなか空は明けなくて、時間がとても長く感じる。

 真央はひとり、ベッドで真新しい天井を見つめながら朝を待っている。いや、待っているのかも怪しい。自分がどうしたいのか、わからなくなっている。ただ、胸が苦しい……。

 この川沿いのマンションに越してきて、半年になった。自分の部屋が貰えたのが嬉しくて、何度も両親に「部屋を暗くしても寝られるよ」と自慢したものだ。今も彼女は部屋を暗くして、自分専用のベッドに潜り込んでいる。いくら眠りにつこうとしても、眠れやしないが。

 真央は小さくため息を吐いた。

 吐いた息は闇に紛れてどこへ消える。

 部屋が広く思えて、とても寒々しい。半年前なら隣に母親が寝ていたけれど、今は誰もいない。

 目を閉じればクラスメイトの女の子の声や、病室でたたずむ高校生の母親の顔が脳裏を巡っていく……。

 夕暮れ時、面会した際に母親は「ちょっとびっくりしただけだから」と、いつもと変わらぬ答えを口にした。

 高校生のお母さんは酷く疲れた表情で笑ってくれたけれど、指先や唇が震えているのが見てとれた。その顔は会えば会うほど疲労に歪み始めていて、笑っているようで、泣いているようで、怒っているようで。自分の母親も、その人に会うのは辛そうにしていた。

 死。

 当初は何かよく理解していなかった自分も、ここに訪れる度に口数が減った。不確かな不安が蓄積しているのがわかっていた。

 真央をかばって眠りにつく、高校生。

 病室のベッドに眠る彼が死んでいるのかと思うと、じんわりとした恐怖が体に覆いかぶさってくるような――そんな気がした。死んでるの? なんて、何も知らないふりして聞いてみようか。いや、無理だ。怖かった。その言葉を口にしてしまえば、何かが崩壊してしまう気がする。

 真央はベッドの中で、身をよじる。

 咀嚼しきれない感情だけが膨らんでいく。時が経つに連れて、煩悶は大きくなっていく。静かになればなるほど、ドッドッドッドと心臓が強く胸を叩く。

 その中で微かに、それでも確かに耳にした。

 多くの足音や、人の話し声。寝静まった街に似合わない、祭りみじたどよめきが遠くから聞こえてくる。酔っ払いや車じゃない。街を隙間なく歩いて、闇の中を移動し、川へと消えていく独特な音。その不可思議な存在が、少女にぼやけて伝わってくる。

 夜間様。

 男の子たちが言っていた言葉を思い出す。

 微睡む思考の中で、誰かに先導されて大勢の人が月明かりの川を歩いていく。――そんな想像をする。

 夜に吸い込まれては吐き出されて、また小さく遠のいていく足音。まるで波打ち際のように、寄せては消えていく。その音の心地よさに抗えず、真央はゆっくりと眠りへと引き込まれていく。

(あの人も、歩いているのかな)

 意識が閉じる前に、ふとした疑問が浮かび上がってくる。

(捕まえたら、戻ってくれるかな)

 ぼんやりとした頭の中で反芻させた。戻ってくるかな、戻ってくれるよね。

 彼女が虫取り網を持ったのは、その翌日からだった。

 夜間様を、探して。


「人は死が近づくと、死が見えやすくなってしまいます。生まれたばかりの子供も、先の短い老人もそれに当てはまりますが」

 ピンク色のノートを閉じて、オギヤカは言う。

 夜に塗りつぶされた河原、その遊歩道から伸びた草木が生い茂る隙間で、黙然としている田中真央を見やる。

 彼女の顔に笑顔はない。小学校低学年とは思えないほどの無表情のまま、虫取り網を握り締めて川を見続けている。

 なだらかに波を打つ草に抱かれて、彼女は今日も待っている――という。その夜間様とやらを。

「田中真央も、その状態でしょうね」

「それ、バランスが崩れたせいか」

 訊ねると、彼女は頷いた。

「あなたが飛び出たせいですね」

 俺は口ごもって、視線を落とす。

 苦味が口内に充満していく。オギヤカは俺を一瞥した後、言葉を続けた。

「彼女は責任を感じています。危うい状態ですね。それを払拭しないといけません」

「どうすればいい。バランスを元に戻すって、何をやればいいんだ?」

 オギヤカは顎に手を当てて、言う。

「……夜間様というものを、調べてみましょうか」

「夜間って、あの子が探している奴か?」

「似たような仕事はありますが、そのような人物は在籍しておりません。おそらく子供たちが作り出した嘘でしょう」

 ですが、と彼女は続ける。

「彼女は何かしらを感じている。それは間違いありません」

「……まぁ、何にしても小さい子が夜に出歩くのは危ないよな」

「ええ」

 と、伏し目がちに田中真央は立ち上がった。

 尻や服についた土や葉をぎこちなく振り払って、彼女は帰路につく。月に雲がかかり、彼女の小さな背は降りしきる暗闇に包まれた。

 今日も、夜間様とやらは来なかった。

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