そして決意する
「人は寿命の前に死ぬことがあります」
オギヤカは椅子を軋ませて、足を組む。
俺はオギヤカに連れられて、個人面談室のような机と二つの椅子しかない簡素な部屋に腰を落ち着かせていた。
「……俺のことですか?」
半ば捨て鉢気味の心地で言葉を吐いた。
今よりも少し前、俺は嫌々ながらも、試練を受け入れる決意をしたのである。
かといって、まともに受ける気はない。
俺は少し、開き直ったのだ。
彼女やその背後にいる上司たちは、どう足掻いても俺に試練を受けさせるらしい。いくら懇願しようが、こちらの意志を受けうける気はない。
では拒否権がないのならば、あえて自ら進んで試練を受けて、さっさと失敗してしまおうと思い至った。試練を受けさせたい彼女と、試練を受けたくない俺。そして試練を受けた俺が失敗する。これならば双方のWin―Win関係が成り立つはずである。現世に帰りたくない俺は、そんな風に後ろ向きに積極的なことを考えていた。
俺の胸中なんて露知らず、彼女は首を横に振った。
「半分正解で半分不正解です。予定は未定。人には生まれた瞬間から死が確定されますが、そのXデイは大まかにしか決められていません」
「……未定」
「人口や自然、環境、善悪、現世には様々なバランスがあるんです。そのバランスを保つ為に――全てにかかわっているとは言いませんが――事件や事故、災害、病などで早世してもらう例があります」
と、彼女は無感動に怖ろしいことを言う。
やはり普通の人とは違うのか、彼女は死に対して特別な感情は抱いていないようだった。あの世の人なら当たり前の感覚なのだろう。到底、納得できたものではないが。
「それ、決めるのは神様……?」
「まぁ、そうなるでしょうね。死を取り扱うのは他部署の話なので、詳しい審査基準は私にもわかりません。極秘とされていますから。ですが、少なくとも自殺は関与していない。死への道筋は作り出せますが、人を操ることは禁忌とされているからです。だからこそ自殺は保っていたバランスを崩してしまう為に罪に問われます」
彼女は、俺から目線を外さずに告げた。
「特に春人さんの場合は、百年に一度という確率の予定外。あなたの死は通常の自殺よりも大きな影響が起きる可能性がある」
彼女の事務的な口調と対応のせいか、面談というよりも刑事ドラマの取り調べに近い対応だと思えてしまう。
あの世に来てまで取り調べ。思えば今までの人生、全てが空回りだった。それがあの世でも続いてしまっている。友達作りも恋人作りも上手くいかず、ストーカー扱いの上に死んでまで人に迷惑かけっ放し。
結局のところ、俺は何をやってもダメなのかもしれない。
「バランスを崩した……影響か」
絶望的な気分で、ぼそっと呟いた。
ふと、とあることが思い浮かんだ。
「あの、オギヤカさん」
「なんですか?」
彼女は小首を傾げる。
「俺が助けた男の子、あの子は大丈夫なんですか?」
彼女の言葉を信じるならば、あの子は元々助かる運命にあった。
視聴覚室ヤタカガミでも、俺が死んだ瞬間に映像が終わったので、あの子がどうなったかは知れない。俺は自分勝手に『あの子は助かった』と思い込んでいたのだが、もしも無意味に助けたせいで男の子のバランスというものが崩れてしまい、何かがあったならば悔やんでも悔やみきれなかった。
と、彼女は俺の問いに答えずにざっと椅子を引いて、立ち上がった。
「待ってくださいよ、答えてください。あの子は無事だったんですか?」
そして説明はもう飽きた疲れたという風に、うむを言わさず冷たく言い切る。
「もう面倒です。試練、開始します」
お前案内人だろ、ちゃんと説明しろよ。
無駄だとわかりきっていても、そう思わずにはいられなかった。
突然というか、やっぱりというか、ある程度覚悟はしていたけれど。
足元の床が抜けた衝撃と、異常なほどの浮遊感に体が包まれる。
苦しみと諦めと嘆きと釈然としない気持ちと、もう数えきれないほどの鬱々とした感情が混濁して、俺の体は疲弊しきっていた。何か大きなものを失っていく心地で、俺は流れに身を任せるがままに暗闇の中へと落下していく。
――と、世界が唐突に極彩色に包まれる。
赤、青、黄、緑、めまぐるしく色が移り変わり、目が痛くなるほど真っ白な色へと変化して、濃い群青色へと落ち着いた。
落ちる視界は濃い霧の中に覆われて、頭上を見やれば、その奥に光のようなものが溢れ――
俺はなす術もなく、無言の諦観とともにその光へ吸い込まれていく……。
気付けば、俺は病院にいた。
見知らぬ天井に、医療機器の無機質な音。薬品臭さに、廊下を静かに擦っていくスリッパが聞こえてくる。ああ、俺は随分と長い間、妙な夢を見ていたらしい。
「やっと起きましたか」
そんな夢心地の幻想を打ち破る、無慈悲な声が俺を貫いた。
見やれば、ハリガネじみた綺麗な黒髪をしたスーツ姿の女性がいる。
オギヤカだ。
「こんなときに白昼夢なんてやめてくださいよ」
彼女は相変わらず辛辣な言葉を吐き続ける。
「……なんで俺ら、病院にいるんですか」
「ここに試練、もといバランスを崩した人がいるからに決まっているからじゃないですか。ちゃんと頭を働かせてください」
行きますよ、と毒舌魔はこちらの準備も待たずに歩き出す。
どうもこちらの質問に答える気はないようだ。
俺は気乗りしないものの、彼女の後に付いていった。
まぁいいさ。どうせ試練をまともに受ける気はないのだ。こうなったら誰がどうなろうが、俺の知ったことじゃない。あの男の子の無事を確認したら、さっさと失敗して牢獄に戻ろう……。
年季の入った乳白色の廊下を歩いていく。
ピンク獄衣の男とスーツ姿の女という怪しい二人組だというのに、誰も俺らに声をかける人はいなかった。どうも俺らの姿は見えていないようだ。当初は戸惑いを覚えたものの、考えれば街中を歩いていてもティッシュ配りする人以外に声をかけられたことはない。別に驚く必要はないかと判断して、俺は前方を歩く人物を見やった。
彼女、オギヤカの足に迷いはなかった。彼女は『バランスを崩した人物』がどこにいるのか、既に把握しているらしい。だが俺はその人物に興味はなかった。
考えることは、俺が押した男の子である。
彼女の目が離れた隙に逃げ出して、男の子を探そうか。でも、無理やり装着させられた頭の不思議器具のせいで、いつ電流を流されるかわからない恐怖がつきまとっている。
なんとか目の前の女を出し抜く方法はないものか。
そう考えあぐねいている間に、目的の場所に到着したようだ。
古臭い、小さな個室である。
「ここみたいですね」
と、抑揚のない声でオギヤカは言う。
誰がいるんだか、と胸中で毒吐く。まぁ、誰が居たっていいのだが。
俺は上の空でオギヤカに続いて部屋に入り――。
――ずきん、と胸が高鳴った。
俺が、真っ白なベッドの上で寝ていた。重機じみた医療機器に囲まれて、口には大がかりな酸素吸入器が取り付けられている。
「肉体は生きています。魂は、まぁここにありますが」
オギヤカの言葉は、上手く耳に入らない。
寝ている俺の横には、魂が抜け落ちたかのように一升瓶を抱えた母が居て、沈痛の面持ちで立ち尽くしている女性と、そのスカートのすそを握った、状況がよくわかっていなさそうな女の子がいる。
海よりも深い静寂の中、心電図だけが煩わしく響いている。
その静けさを引き裂いたのは、少女のひと言だった。
「お母さん、お兄ちゃんまだ起きないの?」
聞き覚えのある、甲高い声音。
「……」女性――少女の母親だろう――は何かしら言うのを躊躇った後「うん、お兄ちゃん、ちょっとびっくりしちゃってるみたいだから」
言いながら少女の頭を撫でて、女性は俺の母に神妙に、丁寧に頭を下げた。
「本当に申し訳ありません」
俺の母は女性を見やって、ふっと微笑む。
少女は母に言う。
「ねえ、お兄ちゃんが起きたらまたありがとうって言いにきていい?」
「……いつでも来なさい。きっとお兄ちゃんも喜ぶよ。この子、友達少ないから」
母の努める明るい声と痛々しい笑顔に、少女は快活に笑って頷いた。
見れば、少女の額や膝小僧に絆創膏が貼られている。ああ、俺は男の子を助けたと思ったのだが、女の子を助けていたようだ。玩具といい、雨合羽で身を包んでいたことといい男の子だろうと思っていたのだが、俺は性別を勘違いしていたらしい。
「うん、来る」
少女は笑う。
彼女の元気な姿を見れば、少しくらいは肩の荷が下りるだろうと思っていた。なのに、心中に渦巻く重苦しい液体はちっとも拭い去れない。
そして言葉少なに交わした後、少女と女性は病室を後にする。
またね、と言葉を残して。
「ねえ、お兄ちゃんいつ起きるかな? 早くありがとうって言いたいな。あ、でも最初はごめ――」
元気な声と足音は遠ざかり、再び静寂が病室に流れ込んで満ちていく。
小さな室内に、母と寝たきりの俺。
母は沈黙していた。それは短い時間だっただろうが、俺にはとても長く思えた。
「……あんたさあ」
ぽつり、と母は言葉を落とす。
思わず、なんだよ、と口にしそうになった。口にしたって、聞こえないだろうが。
「あんたが家にいなかったらさぁ、朝、誰が私に水運んでくれるのよ。誰が私をベッドに連れてくんだよ」
母はふっと気が抜けたように首を傾げて、なんの前触れもなく涙をこぼした。母の涙を見たのは初めてだった。父が家を出た時も、泣いたことなんてなかったのに。
「起きろよ、春人。いつもお母さんより早く起きてるじゃないか。ほら、寝すぎだよ。お母さん、あんたが嫌いなお酒飲んじゃうよ。いつもみたいに止めなよ、ほら」
母は寝ている俺に、蓋が空けた様子のない一升瓶を、何度も近づけた。もちろん、寝ている俺は反応しない。
あまりにも痛々しくて、悲観的で、大きく見えていた母の背が小さく思えて、これ以上母を見ていられなかったのもある。
「母さん、酒、飲むなよ」
無駄だとわかりながらも、俺は言ってしまった。もちろん声は届かない。
顔を歪める母の肩に手を置こうとするけれど、掴めずにすり抜けていく。
俺はじっと、自分の手のひらを見やる。
オギヤカに目を向けるけれど、彼女はただ首を横に振るだけだった。
携帯電話が鳴り響く。
母はうつろな様子で携帯を開いて、鼻を啜り、一度だけ軽く喉を鳴らした。普段なら化粧を気にして顔は触らないくせに、乱暴に手のひらで目を擦る。
「あー、もしもし? あ、リエちゃん?」しゃがれ声だが、いつもの明かるい母だ。相手はおそらく、お店の従業員だろう「本当にごめんね。うん、ありがとう。今日まではお店頼むよ、うん」
母は少し会話を交わして、携帯電話を閉じた。
そしてまた沈黙して、目に涙を溜めていく。
「春人さん、行きましょう」
「なんで」
オギヤカはすかさず「何も出来ないからですよ」と言った。
俺は目を見開いてオギヤカに向き直るが、すぐに脱力する。
この場に居ても、何も出来やしない。それは呪いたくなるほど正しい。
後ろ髪ひかれる思いではあったけれど、俺はオギヤカに連れられる形で病室を後にした。
すすり泣く声は、薄暗い廊下に染み渡るように響いていた。
病院の屋上。普段は出入り禁止らしいが、俺やオギヤカには関係ない。
屋上から見る空はとても広くて、地上には温かな光を漏らす家々が連なっている。そのひとつひとつに家族がいて、誰かが笑っていたり、泣いていたりと考えると、不思議な感じがした。同時に例えようのない寂しさが、俺の中でひしひしと訴えてくる。俺はここにいるが、病室にいる。母はここにいなくて、病室にいる。
何もせずにぼんやりと考え込む俺の隣に、オギヤカはいた。彼女もまた俺に習ってか何を思っているか知らないが、ただ黙って横にいてくれた。
「なあ」
「何でしょうか。今、位置を確認しているんで静かにしてください」
と言うも、彼女は何もしていない。
俺は手すりに両肘、顎を乗せて、独り言のように呟いた。
「俺さ、今まで全部空回りしていたんだよ」
「……」
少しの間の後、ふん、とオギヤカが鼻を鳴らした。
「そうですね。拝見させて頂きましたけど、小さな不幸が連続していて逆に稀になっている。そんな感じでした」
俺は苦笑する。
頭を掻いて、夜空を見やった。半分に欠けた月が、こちらをじっと見下ろしている。俺は視線を外したまま、オギヤカに小声で訊ねた。
「あれを見せたくて、俺を病室に連れてったわけじゃないだろ?」
「そんな無駄なことはしません」
オギヤカはきっぱりと気持ちよく断言する。
しばし、一分ほど間を開けて、俺は口にした。
空回りばかりの俺が言うのは、少し怖いけれど。
「試練……。バランスが崩れた人って、誰か教えてくれないか」
オギヤカはピンク色のノートをいくつかめくり「まずは、あの子ですね」と言った。
「小学一年生の女の子、名前は田中真央」
あの子か、と胸中に少女の顔を思い浮かべる。
横目で見やると、彼女はぱたんとノートを閉じてこちらに向き直っていた。
「さ、位置の確認は取れました。行きましょう」
オギヤカは俺の返事を待たずに歩き出す。
とりあえず、試練を受けようと俺は気合を入れた。あの少女――真央というらしい――のバランスが崩れて何かが起きてしまうなら、それが起きる前に。
「おい、待てよ」
既に階下へ向かおうとしているオギヤカへ、俺は駆け出した。