そして罪人になる
目覚めると、暗い洞窟にいた。
意識が定まらず、脳の奥がじぃんと重い痺れている。それは軽い酩酊にも似ていた。指を動かそうにも、まるで深海の中にいるように気怠く、呼吸すらも億劫だ。
(……何が、あったのだろう)
何かと地の底へ埋もれようとする体に鞭を打ち、のそりと上半身を起き上がらせた。頭どころか全身が重い。意識と視界が乖離したように揺れ動く。
痛みはないが、小さく呻いた。その声すらも反響する。寒々しく声が響き渡って、消えていく。
(ここは、どこだろう)
病院じゃないのは間違いなさそうだが、己がどういう経緯を辿ったのかちっとも思い出せない。
というより、思い出そうにもすっぽりと記憶が抜け落ちていた。
俺、と呼称していることから男ではあるのだろうが、年齢や名前すらもわからなくなっている。
その事実に大きな不安と、少しの安堵を抱いていた。
……俺は、どうして安堵しているのだろう。わからない。
でも、それが心地よかった。
ああ、このまま眠りにつこうか。
全ての疑問を手放したい。
全てが、どうでもいい。
「おはようございます」
靄を切り裂くような、思わず羨望してしまうほど活力のある声。
面をもたげるように振り返ると、使い古された武骨な鉄格子。その先に、スーツ姿の女性がいた。
女性というのはわかるのだが、その人物の容姿は視認できなかった。輪郭は薄らぼやけており、いくら目を凝らしたところで女性という以外は認識不可。
ただそのビシッとした姿勢と服装から、この薄暗い洞穴には似合わぬ華やかさだとは、理解できていた。
理解できたけれど、俺は痴呆じみた感覚で彼女を見やっていた。
何も考えられない。思い出せない。
と、彼女は手に持ったピンク色のノートをめくり、
「ええと……、が、あやまり……じゃない。がじゃ、は、る、ひ、と」彼女は小さく喉を鳴らし、改めて「我謝春人さんで、お間違いないですか?」そう言った。
我謝春人。
女性が告げた名前が、するりと脳に入り込む。
途端、霧が一気に晴れ渡るように視界がクリアになった。不定形だった意識は泥が固まるように定まっていく。
「え……あ、あ、ああ……、はい、俺、俺です。俺が、春人です。春人……」
空の瓶にたっぷりと水が入り込んだような、炭酸水が臓腑に染み渡るような感覚に戸惑いながらも、反射的に返事してしまった……。
俺は、我謝春人。
どうしてここにいるか、まだわからない。
名前を抱いたせいなのか、安堵は収縮して、どうしようもない不安の水かさが増してしまっている。
ふと、顔をあげた。
日の入らぬ薄暗い洞穴の、小格子じみた牢獄の外。火の入った小さな明かりに照らされた白い頬。灯火の光を反射する大きな瞳。肩口に揃えられた、暗闇よりも黒い濡羽色の髪。形の良い唇は、きゅっと一文字に閉められている。
目つきの険しい、少女といってもいいような小柄の女性が、そこにいた。
彼女は無表情のまま手を後ろに持っていき……どこから出したのだろう。その手には、小さいクラッカーが握られていた。
少しの間の後、彼女はクラッカーの銃口をこちらに向けて口にする。
「おめでとうございます。あなたは大変な罪を犯しました」
ぱんっ、と乾いた音が鳴り響く。
キラキラと乱反射する金色のテープが数本ほど発射されると同時に、寒々しい空気が俺と彼女の間に流れ込んできた。
ひらひらとテープが舞って地に落ちた後、彼女は満足そうにクラッカーをポケットに納めた。
といっても、無表情に変わりはないが。
少しの間、俺は充分に口をぽかんと開けて目を丸くした後に、彼女に訊ねた。
「……あのう、つ、罪って、俺がですか?」
これまでの人生、罪になるような真似はした覚えがない。
いや、記憶は失われていて、自分がどんな人生を送っていたのかわからない。でも、少し変なこと言われただけで不安になる俺が、何かしでかしたとは思えなかった。
俺の罪。
「あなたの罪状は自殺です」
不安に駆られている俺に優しくするわけでもなく、彼女は淡々とそう告げた。
女性の言葉を掻い摘んでみると、こういうことだった。
彼女の名前はオギヤカ。
罪人である俺の担当になった案内人らしい。
そしてここは、天国や地獄に行く手前の場所『ミーグソー』と呼ばれている。
地上で死んだあと、人はこの場に辿りつく。幾日か経過した後、担当の方に連れられて『グソー』という場所へ向かうという。
「しかし、自殺という重罪を犯してしまった人は簡単に行けはしません。それなりの服役と苦しみを味わってしまうのです」
服役と苦しみ。
オギヤカは一息ついて、言葉を継いだ。
「でも安心してください。あなたは見事、復活チャンスを手にしました」
「復活って……?」
「うちの八百万の上司たちが決めた制度です。これから幾つかの試練があなたに課せられます。それらを攻略した後に、万人が望んでも手に入らない現世帰りの権利が与えられるのです」
現世帰り。
その言葉を聞いた途端に、名前を抱いた時とは比べものにならないほどの言い知れぬ不安と恐怖が、俺の胸中に充満していった。
現世。その二文字に、とてつもない嫌悪感を覚えてしまう。
「……申し訳ありませんが、俺、それいいです」
「え? なんで?」
驚いたのだろう。彼女の敬語口調が砕けてしまう。
それを咎めるとも気にするでもなく、俺は目線を落としながら続けた。
「凄く、嫌な感じがするんです。なんていうか、戻りたくない。戻るなら、ここに居た方がマシだって、そう思うんですよ。だから俺は辞退するんで、どうか別の人に」
「あー、そうですか。記憶失っているくせに、魂に刻まれるほどトラウマ抱えているんですね」
彼女は俺の言葉尻を待たずに口を挟んだ。
そして小さく舌打ちし、ピンク色のノートを再びパラパラと開く。
「でも無理ですよ。うちの八百万の上司より偉い人って、どこ探してもいないと思うんで」
確かに、そうかもしれないが。そいつはこの世の責任者だろう。製造物責任で、少しくらいクレームつけられるはず。
その反抗的な視線を感じ取ったのか、彼女は小さく嘆息した。
「勘違いしてもらっちゃあ困りますよ春人さん。あなた、罪人なんですよ?」
彼女はそう言って、ピンク色のノートを閉じた。
「さぁとりあえず、そこから出ましょう」
話すのも面倒だという風に、彼女は言った。
「いや、出たくないです。ここで引きこもらせてください」
無駄だとは知りつつも、俺は若干の抵抗をした。
無駄。なんとなく慣れ親しんだ言葉だ、と思う。小さな絶望と諦観は、物凄く性に合っている気がした。
「何をワガママ言っているんですか」
オギヤカがそう言った瞬間に、鉄格子が軋み、鈍い音を立ててゆっくりと開いていく。彼女は少しも触れていないというのに。まるで彼女の意志が伝搬されて鉄格子が従ったかのように思えた。
ともかく、俺とオギヤカの間に、一本の道が出来る。
ぽっかりと開いた空間に、異様な寒気を覚えた。
ああ。外に出られるというのは、なんと怖ろしいのだろう。名前も思い出せず、ぼんやりとたたずんでいた方が安心していたような気がする。
「本当に嫌なんですよ。勘弁してください」
俺が一歩分後ろに下がる。
「はいはい。いいから、騙されたと思いましょうよ」
と、彼女は二歩分進んで、俺しかいなかった格子の中へあっさりと侵入した。
「さ、行きましょう」
オギヤカは、そっと手を差し伸べてくる。
俺は自分の両腕を後ろに回して、断固拒否した。
が、無駄だった。
彼女は差し出した手をさらに伸ばして、がしり、と俺の頭を掴んだのである。
「はい、取り付けました」
オギヤカは手を離した後、相変わらず無表情にそう言った。
「取り付けてって、え?」
質問を投げかけた瞬間、視界が白み、強烈な爆音が轟いた。――と思ったが実際は違った。俺の頭蓋から脊髄、足先にかけて凄まじい電流がほとばしったのである。
悲鳴を漏らすことも出来ず、その場で膝が砕け、受け身も取らぬまま顔面から倒れ伏してしまった。
「同じ言葉を繰り返すのは嫌いなんですよね……。もう一度言いますけど、あなたは罪人です。そしては私は春人さんの担当、オギヤカ。あなたが復活するまで、末永くよろしくお願いします」
ふざけるなと叫びたいが、喉はおろか全身が痺れて動かせる気配は感じられない。どうしようもない悪寒を振り払う気力もなく、俺はそのまま意識を途切れさせてしまった。