そして死ぬ
「……ごめんなさい。他に好きな人がいるから」
人生初めての告白は、見事に粉砕されて終了した。
相手は、バイト先のファミレスに勤務するお姉さんである。俺よりひとつ年上の高校三年生だ。一歳差しかないとは思えないほど、大人っぽい彼女。申し訳なさそうな表情も可愛らしい。
きっと、フラれた俺を心配してくれているのだろう。
小太り不細工な俺に、こんなにも優しい。
でもそれは『俺が特別な存在だから優しい』のではない。そこらの有象無象と一緒で、彼女がいつも相手している『お客様たちと変わらないから優しい』のが正しいのだろう。
だけど俺は、万感の思いを胸に「ありがとうございました」と男らしく一礼した。
彼女の優しさに、少し勘違いしてしまった。
俺の人生は何しても上手くいかない。今でもそう思うけれども、彼女の優しさのおかげで、ひねくれた俺でも、人を信用する素晴らしさを理解できた。人生ってすごく楽しいんだと思えた。
そう思っていた。
「お前、ストーカーしてるんだって?」
数日後、店長に呼び出されてすぐ、俺はそう言われた。
「あ……? いや……な、……え?」
頭がフリーズを起こす。まさか出勤してそんな意味不明な話を突きつけられるとは思っていなかった。俺の戸惑いっぷりに店長は何かを察したような冷たい目つきをして、短く嘆息した。
店長は軽蔑の眼差しをこちらに向けたまま頬杖をつく。
その薬指に嵌められた指輪が、蛍光灯を反射して鈍色に輝いた。
「ここ仕事場。学校と勘違いするな。女の尻追いかけてほしいから金払っているんじゃないんだよ。うちの店に泥かけたくないからさぁ。……わかるよね?」
唾でも吐くように言われて、数々の情景が走馬灯のようにフラッシュバックされていく。
優しいお姉さん。俺が出勤したら、すぐ声をかけてくれてた。失敗しても、困った顔しながら丁寧に教えてくれた。嬉しかった。初めて恋をした。彼女の期待に応える為に、バイトも一生懸命していた。
俺が告白したときの、彼女の困った表情。
あの時、彼女は何を思っていたのだろう。
……。
「……申し訳、ありませんでした」
声は震える。
店長は少し疲れたように鼻息ひとつ、こちらから目線を外して、
「じゃ、帰っていいよ。手続きは俺がやるから。あ、仕事着は置いてってね」
興味なさげに、そう告げた。
敗残兵はただ去りゆくのみ。
俺はロッカーに詰め込んだ少ない荷物を鞄に押し込み、半年間お世話になった休憩室を後にする。そして元同僚たちの視線を掻い潜るように、脱兎の如くファミレスを飛び出した。
外はあいにくの大雨。
遠くで化け物の産声じみた雷鳴が轟く。
空は黒に近い曇天だというのに頭は真っ白。何も考えられないまま、俺はファミレスの裏手に停めた自転車へ走った。ただ早く帰って、布団に潜りたかった。今日という日を、このファミレスで働いていた日々を、すぐにでも忘れたい。
自転車の鍵を手に取る。体が震えているのか、パシャリと鍵を落としてしまう。
舌打ちしながら鍵を拾い上げて顔をあげると、店長室が目に入った。
雨が流れる窓の奥。暖かな蛍光灯に包まれた室内で、店長とお姉さんが会話している。ーーようだ。二人は楽しげに笑っていた。お姉さんが店長の肩を軽く叩く。あのお姉さんでも人を叩くことがあるらしい。ああ。思えば、俺は一度も触れられたことがない。
そして会話は静まったのか、彼らは無言で見つめあった。
店長は慣れた手つきで彼女の髪を撫でる。柔らかな髪を、店長の指が梳いていく。そのまま指を伝わせて、白い頬に手を当てる。彼女もまた抵抗せずに、うっとりとその目を潤ませて、そっと顎を上に向けた。そのままゆっくりと、彼らは顔を近づけて――ガチャンッ!
俺は強く目を閉じて、自転車の鍵をこじ開けた。
見ていられなかった。見ていられるものか。
あの男は結婚しているんだぞ。あの女、どういうつもりだ。俺はあんな卑怯な男に負けたのか? 彼女はあの男を利用して、気持ち悪い俺を排除したのか? どっちだ? わからない。
雑多な言葉が脳を埋め尽くしていく。
その場に留まると何かが破裂しそうだった。
俺は耐え切れず自転車に跨り、豪雨の中を疾走した。
大粒の液体が全身を蜂の巣にせんと無数に襲いくる。いいぞ、そのまま俺を打ち砕け。遠雷が世界を白ませて木霊する。そうだ、既婚者と喜んでキスをするクソな女に夢を見た俺を笑え。冷えた突風が鼓膜を塞ぎ、体温を奪う。おい誰か聞いてくれ、優しい女は自分の欲望を優先して股を開くようだぞ。
ああもう、腹の底から笑いが込み上げてくる。
なんて惨めだろう。
無駄だ無駄だ、全てが無駄だ。この半年間、彼女の為に努力した時間は無駄になった。質量保存の法則とはなんだったのか。俺が積み上げてきたエネルギーはどこへ消えた。三途の積み石か。
俺は自分の人生を変えたかった。
物心ついた時から人と接することが苦手で、人前に出ては緊張ばかりする自分に歯痒い思いをしたものだ。その培った経験は小中どちらでも発揮されて、俺は長く日陰者としての道を歩んできた。外で遊ぶよりもインターネットに入り浸り。野球やサッカーよりも夢小説やらWEB漫画を見て楽しむのが趣味という有様だ。勉学を疎かにするわけでもなかったものの、励むわけでもなく安穏とした道を歩んで、中の下程度の高校へと進学した。
しかし初めて高校の正門をくぐった時、バラ色の高校生活を送る上級生を目の当たりにして、胸を大きく躍らせたものだ。
様々な中学校から集まるピカピカの新入生たち。
新たな人生の幕がここに開かれる。
俺も上級生たちのように、可愛らしい女子高生と登下校を共にするんだ。
そう考えていた俺は、手遅れと判断しても差し支えないほどのアホだった。
入学初日から、人との交流がいかに大切かと思い知らされた。
人並みとはいかなくても自分なりにクラスメイトへ会話を投げかけていたはずだが、投げた言葉はいくら待っても返ってこない。柔軟に対応しようにも固くなった肉体は対応しきれない。気付けば男子生徒には変人ロボットとして扱われ、女子生徒には珍獣を見つけたが如く口元を隠しながら笑われる日々が禍々しく花開いてしまった。
こうして夢いっぱいの高校一年ライフは現実という鋭利な刃物に両断されて、見事に人間不信の権化となった俺が完成する。そして社交性を身につける必要があると大いなる決断をして、ファミレスにバイトするがこの始末。
いったい俺の何が悪いのだろう。
大雨の中、ファミレスから逃げ切った俺は二車線の車道に面した歩道で息を切らせていた。情けなくも自転車を漕ぐ体力も気力も失せて、自転車を傍らにカラカラと途方に暮れたまま歩いている。
無駄だ。全てが無に帰してしまう。
砂が指の隙間から零れ落ちるような、空しい感覚に囚われていく。
子供の声が聞こえた。雨をすり抜けてくる、耳障りな甲高い声だ。
「――さん、おかーさ――」
視線を向けると、反対側の歩道で黄色い雨合羽にくるまった男の子が母親の足にしがみついていた。片手に持つオモチャを見せているらしい。母親もまた、愛おしそうに息子であろう子供に微笑んでいる。
思えば、俺に慈愛に満ちた目を向けてくれる人はいただろうか。
父は幼い頃に母と離婚し、見知らぬ女と家を出た。母は稼ぐ為に水商売をして、今では小さな店舗を構えるママさんになっている。朝、目が覚めれば酒臭い母がリビングで寝ていて、夜には酒瓶だけが転がる家が俺を出迎えてくれていた。
朝っぱらから酔った母を介抱するなんて、どちらが親かわかったもんじゃない。
川のように雨水が流れる車道の向こう。幸せそうな親子を見て、小さく嘆息する。
(俺はないものねだり、なのだろうか)
特に大きな物を望んだ覚えは、ないんだが。
むしろ、誰かに望まれたい。――と、思う。
お姉さんに微笑まれるのが嬉しかった。ありがとう、と声をかけて貰えるのが心地よかった。
でも全ては空回り。砂上の楼閣だったわけで……。
人生はそう簡単に、変わるもんでもないらしい。
「なんで生きているんだろうな、俺」
ぽつり、と言葉を落とすも大雨に流されていく。
このまま雨に溶けて消えてしまいたい。そう願った。
と、視界の隅で何かが飛んだ。
オモチャだ、とすぐに気付いた。
そのオモチャは車道に投げ出されて、無様に横たわる。
「あー」
と、また甲高い声が聞こえた。
子供が無邪気に、車道へ駆けていく。
瞬間、その姿が車のライトに飲み込まれた。
「――!!!」
母親が子供の名前を叫ぶが、軽自動車のクラクションにかき消されてしまう。
けたたましいクラクションに子供は驚き、身を竦めた。
今すぐ逃げれば簡単に間に合うものの、子供は一向に動こうとしない。
運転手が歯噛みしてブレーキするも、速度は衰えず。
一連の流れを見て、胃のあたりが大きくうねりだす。皮膚が粟立ち、全身の総毛だつ。
俺は反射的に、自転車を捨てて走っていた。
ガードレールを飛び越えて走った。
走って、光に包まれた子供に向かって、体重を押し出す。
頭の中は、店長にクビ宣告された時と変わらず真っ白だ。
子供を助けたかったのか、と問われると違うと思う。
俺が駆けたのは、子供が羨ましかったのか。それとも自分を助けたかったのか。
何もわからないが、これはダメだ、と。そうじゃないんだ、と胸中で反芻していた。
俺は迷うことなく、子供の肩を思い切り突き飛ばした。
昔から非活動的だった肉体は、投げ出されたオモチャみたいに車道へベシャリと倒れてしまう。自由落下した顔面はアスファルトに強かにダイブ。鼻が折れたような鈍い痛みが顔中に波紋した。
視界の横から、大きな光が迫りくる。
なんとなしに顔をあげると、呆然とした表情の子供と目が合った。
どうしていいか困って、俺は子供に微笑んでしまう。
バカか、なんで微笑んだんだ俺。
ああ、鼻から何かが伝っている。これは鼻血だろうか。
そんなアホな感想を最後に、俺の意識は完全に途絶えてしまった。