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成都会議での講話  一九五八三月一〇~二二日

〔訳注〕 一九五七年一一月、モスクワ会議から帰国した毛沢東は、中国各地の視察旅行を始めたが、一九五八年三月はじめ、四川省の省都成都に着いた。成都会議とは、毛沢東の主宰により、一部の中央の責任者と地方党委員会の責任者の参加を得て、開かれた会議である。一九五九年八月二九日付『人民日報』社説「人民公社万歳」によれば、毛沢東は、この会議で、小型の農業生産合作社を、計画的に、適当に合併して、大型の合作社とするよう提案し、この提案は、後に、中共中央の正式の同意を得た、といわれる。


三月一〇日の講話


規則と制度は一つの問題である。これを例にして、思考方法の問題、すなわち原則の堅持と独創精神の問題についてすこし話してみよう。


国際面では、ソ連・すべての人民民主主義諸国および各国の共産党・労働者階級と友好を図り、国際主義を実現し、ソ連及びその他の外国の長所を学ばなければならない。これは一つの原則である。しかし、学ぶには二つの方法がある。一つはひたすら模倣するやり方であり、他の一つは独創精神〔を発揮する〕やり方である。学習は独創と結びつけるべきであり、ソ連の規則や制度をむりやりに持ち込むのは独創精神の欠如を意味している。




わが党の創建期から北伐期までの間(一九二一年から一九二七年まで)にはマルクス主義の衣をまとつた陳独秀のブルジョア思想があったが、しかし比較的生き生きとしていた。十月革命の勝利後の三年目に、我々は党を創立したが、党に参加したのは、いずれも「五四」運動に参加して、その影響をうけた年若い人々であった。十月革命後、レーニンがまだ生きていた間は、階級闘争が大変激しかつた。スターリンはまだ権力の座に上っていなかったし、かれらも生き生きとしていた。陳独秀主義は国外の社会民主主義政党と国内のブルジョア階級に由来していた。この時期には陳独秀主義の誤りが発生したとはいえ、一般的にいえば、教条主義は存在していなかったと言える。




内戦の時期から遵義会議までの間(一九二七年から一九三五年)に、中国の党には三回にわたって極左路線が生まれた。それが最もひどかったのは、一九三四年から一九三五年の間であった。当時、ソ連では反トロッキー派が勝利していたが、理論上ではデボーリン学派に勝利していただけであった。中国の「左翼」日和見主義者はほとんど全部がソ連で影響を受けたものばかりであったが、もちろん、モスクワへ行ったものの全部が教条主義者であった訳ではない。当時ソ連にいた多くの中国人のうち、一部のものは教条主義であったが、一部のものはそうではなかった。一部のものは実際の情況と結びついていたが、一部のものは実際の情況と結びつかず、ただ外国次第だった。その上、 スターリンの支配が固まりはじめており(しっかり固まったのは反革命粛清以後であるが)、コミンテルン〔最高指導者〕は当時、ブハーリン、ピャタコフ、ジノヴィエフであり、東方部長はクーシネンであり、極東部長はミフであった。×××はすぐれた同志であり、善良で、独創精神をもっていたが、多少真面目すぎた。ミフの役割が大きかった。これらの条件によって教条主義が形成されたのであり、一部の中国の同志たちもその影響を受けたのである。


極左化は知識青年の間にもあった。当時、王明らは、いわゆる「二八人半のボルシェヴィキ」というものをつくっていた。何百人もがソ連で学んでいたのに、なぜ二八人半だけなのであろうか。つまり、かれらはあまりにもひどく極左化していたのであり、自分で自分を整頓し、自己を孤立に追いやり、党の範囲を狭めてしまったのである。




中国の教条主義には中国の特色があり、それらは戦争のなかで現われたし、富農問題にも現われた。富農は人数が少ないので、原則的には富農に手をつけないことをきめ、富農に譲歩したのである。だが極左派はこれに不賛成であり、かれらは「富農には劣等地を分けあたえ、地主には土地を分けあたえない」ことを主張したのである。その結果、 地主は飯が喰えなくなり、一部のものは余儀なく山に登って緑色遊撃隊〔群盗・馬賊をあらわす「緑林」という語はあるが、「緑色遊撃隊」は意味不明〕となった。ブルジョアジーの問題では彼らはブルジョアジーはすべて打倒せよ、 たんに政治的に滅ぼすだけでなく経済的にも滅ぼせと主張し、民主主義革命と社会主義革命とを混同してしまった。




帝国主義についてもこれに分析を加えず、分割できない同じ一枚の鉄板のようなもので、かれらはどれもこれもみな国民党を支持していると考えたのである。


全国が解放された後にも(一九五〇年から一九五七年)、経済活動と文化教育活動の面に教条主義が生れた。軍事活動の面では、部分的に教条が持ち込まれたが、基本原則が堅持されたので、まだ教条主義とは言えない。経済活動における教条主義は、主として重工業、計画化の作業、銀行業務、統計作業等に現われ、特に重工業および計画化の面に現われた。われわれには良く分からないし、経験も全くなく、いずれにしても自分たちには分からないのだから、 よそのものをもちこむほかはなかった。統計作業はほとんどソ連のものをひき写したものである。教育の面でもそうした傾向がかなりひどいものである。たとえば五点評価制や小学五年一貫制などがそれであり、解放区での教育の経験にさえ考慮を払っていないありさまである。衛生の面でもそうである。おかげで私は三年間卵が食べられなかったし、鶏のスープが飲めなかった。それは、ソ連に卵と鶏のスープは摂ってはいけないと書いた文章があったからであり、あとになって、摂ってもよいと言われた。


文章の内容が正しかろうが、正しくなかろうが、中国人は何でもソ連の言うことを聞き、それを守ったのだ。要するに、これはソ連第一なのである。商業の面ではそうした傾向はやや少ない。これは中央との接触が比較的多く、上級機関からの指示が比較的多いからである。軽工業活動でも教条主義はやや少ない。社会主義革命と農業合作化は、まだ教条主義の影響を受けていない。これは中央が直接つかんでいるからである。この数年来、中央は主として革命と農業の掌握につとめてきており、商業も少しだが、掌握してきたのである。


教条主義の情況にもいろいろ違いがあるので、分析して比較し、原因を探る必要がある。


一 重工業の設計、施工、据えつけのすべてが自分たちではうまくゆかない。経験がなく、中国には専門家がいない。部長「各省大臣〕は素人だし、外国のものをひき写すより外はないのだが、ひき写しても、それを見分けることができないのである。その上、なおソ連の経験と専門家の力を借りて、中国の古い専門家のブルジョア思想を打ち破らなければならない。ソ連の設計は中国にあてはめてみると、大部分は正しいが、一部分は正しくない。むりやりあてはめるからである。


二 われわれは経済情況の全体がよくわからず、ソ連と中国の経済情況の相違はなおさらわからないのだから、盲目的に服従するほかなかった。しかし、現在では事情はちがってきており、大企業の設計、施工は、一般的に言って、 自分でできるようになった。設備はあと五年もすれば自分たちで造れるようになろう。ソ連の事情についても、中国の事情についても、ともにいくらか理解が深まった。


三 盲信を打ち破ったので、精神的には、圧力を感じなくなった。菩薩の方が人間よりも何倍もかしこいなどというのは、人をおどしつけるためである。そこで並みの人間とは違う舞台の上の英雄豪傑がお出ましになる。スターリンこそそのような人である。中国人は奴隷となることに慣れてしまっており、これからももっと、奴隷になっていたいもののようであり、中国の芸術家が私とスターリンの像を描くと、どうしても、私の方がスターリンよりも少し低く描かれる。その時のソ連の精神的圧力に盲目的に屈するのである。マルクス・レーニン主義はなに人にとっても平等なものであり、人の扱いは平等であるべきである。フルシチョフが一撃のもとにスターリンを打ち倒したのも一種の圧力であり、中国共産党内の多数の人々はこれに同意していない。しかしなお、この種の圧力に屈して、個人崇拝を打倒しようとする一部の人々がいる。一部の人々は個人崇拝反対に大変興味をもっている。個人崇拝には二種類あり、その一つは正しいものであり、たとえば、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの正しいものについては、われわれは崇拝しなければならず、永遠に崇拝しなければならず、崇拝しないではいられない。真理が彼らの手中にあるのに、どうして崇拝せずにいられようか。われわれは真理を信ずる。真理は客観的存在の反映である。一つの班は班長を崇拝しなければならず、崇拝しないではおられない。もう一つの崇拝はあやまった崇拝である。分析を加えず、盲目的に服従すること、このようなことは正しくない。個人崇拝反対の目的にも二種類ある。その一つはあやまった崇拝に反対することであり、もう一つはほかの人を崇拝することに反対し、自分を崇拝することを要求する




ことである。問題は個人崇拝にあるのではなく、真理であるか否かにある。真理であるなら崇拝しなければならず、 真理でないなら、たとえ集団指導であってもやはり崇拝してはいけない。われわれの党は、歴史的に見れば、個人の役割と集団指導との結合を強調してきた。スターリンを打ち倒したことに一部の人々は共鳴しているが、これはほかの人に自分を崇拝させようとする個人的な目的をもっているからである。レーニンは独裁だと言って、レーニンに反対した人がいたが、レーニンは、君が独裁するよりは自分が独裁した方がましだと、きっぱり答えた。スターリンは高崗を大変ほめあげて、わざわざ車を一台贈ったし、高崗は毎年かかさず「八・一五」にはスターリンに祝賀電報を打ったものだ。現在でも各省にこうした例が見られる。[浙江では〕江華[中共第八期中央委員候補、浙江省第一書記〕が独裁するのか、それとも沙文漢[浙江省長であったが、一九五八年二月、右派分子として全国人民代表大会の代表資格を奪われた〕が独裁するのか。こうした問題は広東、内モンゴル、新疆、青海、甘粛、安徽、山東などの各地で起ったことがある。諸君は、天下は太平だなどと考えてはならない。時局は安定しておらず、「実際に足を地につけ」てみれば、足許はしっかり固まっておらず、ある日突然、大陸が沈没して、太平洋が陸地に変わるようなことがあるかもしれず、そうなったら、われわれは引っ越さなければならなくなる。軽い地震は、常に起こりうるのであり、高崗・饒漱石事件は、震度八の地震であり・・・・・・


四 歴史的経験の教訓を忘れ、比較計量する方法がわからず、対立面を設定することがわからない。きのう私がすでに述べたように、多くの規則や制度について、われわれの多くの同志たちはほかに案がないかどうか考えてみようとせず、中国の実情に合致するものを選んで応用し、合致しない場合には別に考えてみようとはしない。また分析しようともせず、頭も働かそうともせず、比較計量しようともしない。以前、われわれは教条主義に反対したことがあるが、彼らの「ボルシェヴィキ」的な刊行物は自己を百%正しいと言いくるめ、自分で自分を吹聴した。そのやり方は、一点、または数点を攻撃し、その他の点には触れないのである。『実話報』〔瑞金で発行された中共ソ区中央局機関紙『実話』ではないか?」は中央ソビエト区の五つの大きなあやまりを攻撃したが、良い点については一つも述べなかった。


一九五六年四月に「十大関係」を提起し、ここで、はじめて、自己の建設路線を提出した。原則はソ連と同じであったが、われわれ独自の内容がもられていた。「十大関係」のうち、工業と農業、沿海地方と内陸地方、中央と地方、 国家・集団と個人、国防建設と経済建設の五つの関係が主なものであった。国防費は平時には少なくしなければならず、行政費はいずれの時期にも少なくしなければならない。


一九五六年にスターリンが批判された時、われわれはこれを一方では喜んだが、他方では危惧の念を抱いた。蓋を取り盲信を打破し、圧力を取り払って思想を解放することは完全に必要なことである。しかし一撃のもとに打ち倒してしまうことには、われわれは賛成しない。彼らがスターリンの像を掛けなくても、われわれは掛ける。一九五〇年に、私はスターリンとモスクワで二ヵ月間も言い争った。相互援助同盟条約、中国長春鉄道、合弁会社、国境問題などに対するわれわれの態度としては、一方では、むこうが提起したことでこちらが同意できないものについては争うが、他方では、むこうがどうしても堅持しようとするものについてはこちらはそれを受け入れるというものであった。 これは社会主義全体の利益を顧慮したためである。それにまだ二つの「植民地」すなわち東北と新疆が残っており、 そこに、第三国人が居住することは許されていなかった。


現在ではそうした制限は廃止されている。スターリンが批判された後は、盲信に惑わされていた人々は、おかげで少し目が醒めた。御先祖様にも欠点があり、分析を加えなければならず、あのような盲信をすてなければならないことを、われわれの同志に認識させねばならない。ソ連の経験については良いものはすべて受け入れるべきであるが、良くないものは拒絶すべきである。現在、われわれはいくらか技術を身につけた。ソ連について、いくらか理解が得られたし、自分自身についても理解が得られた。


一九五七年、「人民内部の矛盾を正しく処理する〔問題についての〕報告」の中では、工業と農業の同時振興、工業化への道、合作化、産児制限等の問題を提起した。この一年に一つの大事件が起った。すなわち全人民的な作風整頓、反右派〔闘争〕、われわれの活動に対する大衆的批判であり、これらは人民の思想を大変大きく啓発した。




一九五八年には杭州、南寧、成都で三回にわたって会議を開いた。会議ではみんなが大変多くの意見を出し、頭を働かせて、八年の経験を総括したが、これは思想を大変大きく啓発するところがあった。南寧会議では、一つの問題、 すなわち国務院各部門の規則と制度の問題が提起された。これは改めることができるばかりでなく、実際に改めるべきだ「ということになった」。一つのやり方は大衆と顔を合わせることであり、もう一つのやり方は壁新聞を出すことである。もう一つの問題は地方分権の問題であり、現在ではすでに実行しはじめており、中央集権と地方分権が同時に存在しており、集中できるものは集中し、分散できるものは分散することにしている。これが去年の三中全会後にきめられたことである。


分権といっても、もちろん、ブルジョア民主主義〔的な分権]であってはならない。ブルジョア民主主義は社会主義以前には進歩的なものであるが、社会主義の時期になると、反動的なものである。ソ連では、ロシア人は五○%を占め、他の少数民族が五○%を占めているが、中国では漢族が九四%を占め、少数民族は六%に過ぎない。したがって共和国 [連邦制〕はとれないのである。


中国の革命はスターリンの意志に反して勝利をかち得たものである。にせ毛唐どもは「革命を許さなかった」「鲁迅の『阿Q正伝』第八章参照。ニセ毛唐とは、王明ら留ソ派に対する罵倒のことば〕のである。「七全大会」は思い切って大衆を立ち上らせ、すべての革命勢力を伸ばして新中国をうちたてる方針を提起した。王明との論争は一九三七年から始まって、一九三八年八月までつづき、われわれは十大綱領〔一九三七年八月一五日、発表された「抗日救国十大綱領を指す〕を提起し、王明は六〇ヵ条綱領を提起した。王明すなわちスターリンのやり方によれば、中国革命は成功し得ないものであった。われわれの革命は成功したが、スターリンはまたしてもこれをにせものだと言いだした。われわれは弁護〔弁解〕しなかったが、ひとたび抗米援朝をはじめると、たちまち本物だということになった。 しかし、われわれが「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」を提起した時には、われわれは「この間題について」いろいろ言ったが、彼らはなにも言わなかった。そのうえ、かれらはわれわれが自由主義的なことをやっているといった。これではまるでわれわれがまたも本物でなくなったといっているようなものである。


この報告が公表された後、ニューヨーク・タイムスは全文を掲載するとともに〔一九五七年六月一九日付『人民日報』に、同報告が発表されるに先立ち、六月一三日付『ニューヨーク・タイムス』は、同報告の原文の一部を紹介した」、論文を発表してこれは「中国が自由化した」ことだといった。まさに滅びようとするブルジョアジーが藁をも掴もうとするのはきわめて自然なことである。しかし、ブルジョア政治家でも見解を持たない者がいない訳ではない。たとえばダレスは、われわれの文章〔報告〕のことを聞きつけて、読んで見たいと言ったが、半月もたたないうちに結論を出し、 中国は腐りきっている、ソ連の方がまだ良いといった。だが、当時、ソ連には問題がはっきりわからず、われわれが右翼化するのではないかと照会してきた。反右派闘争が始まると、もちろん、かれらは「自由化」の心配をすてた。 要するに、基本路線は普遍的真理であるが、「各国の党は]それぞれ細かい枝葉の問題ではちがいがあるのである。 各国がそうであるし、各省もまたそうである。一致もあれば、矛盾もある。ソ連は一致を強調して、矛盾を問題にしない。とりわけ、指導者と被指導者との矛盾を問題にしようとしないのである。


三月二〇日の講話


私は四つのことを問題にしたい。


一 農具改良の大衆運動はすべての地域に推し広めるべきであり、その意義はきわめて大きく、それは技術革命の萌芽であり、一つの偉大な革命運動である。幾億もの農民が忙しく仕事に追い廻されているので、肩でかつぐのをやめて、逆に、これをやれば、労働力も何倍も節約できるし、機械化によって、肩でかつぐのにとってかえれば労働効率を大いに高めることになり、これによって機械化がより一歩推進されることになるだろう。中国はこんなにも大きな国なのだから、完全に機械化することは不可能であり、どうしても機械化の手のとどかない隅が多少は残る。五〇年たっても、百年たっても、五百年たっても、千年たっても、たとえば木造船のように、やはり半機械化の程度のものもあろう。一部の手工業は何億年たってもやはり残っているだろう。たとえば、飯を食うのも、永遠に手工業であろう。これと機械化とは対立の統一であり、性質が違うだけだから結びつけるべきである。


二 河南は一年で四・五・八〔農業発展要綱の到達目標であり、一ムー当り食糧生産を黄河以北は四○○斤、淮河以北を五〇〇斤、淮河以南を八○○斤とするもの〕を実現し、水利化、四害の除去、文盲の一掃を実現することを提起している。そのうち、いくつかは実現できるかも知れず、たとえ全部実現できるとしても、新聞にのせる必要はなく、二年かかればできるとしても、新聞にはのせる必要はないが、内部に通報することはしてもかまわない。土地改革と同じように、はじめは新聞にのせる必要はなく、一段落ついてからのせることである。みんなが先を争えば、天下大乱を招くことになるだろう。実際にやれば、それでよいのだ。各省がみな一気にやる必要はない。


河南が一年でやるといえば、みんなも一年でやるというだろう。河南が先頭に立とうとすれば各省も先頭に立とうとするだろう。 それではよろしくない。どうせ、誰かが先頭にたつことになる。「状元〔科挙の試験の第一位の合格者〕は三年に一人しか出ず、美人にめぐり会うのは千年に一人も難しい」のである。河南に一年間実験をやらせればよい。もし河南でうまくゆけば、来年、各省が同じ運動をもう一度やり、大いに躍進すれば、申し分ないではないか。


もし一年以内に四・五・八を実現し、文盲を一掃したとしても、もちろん、欠陥も大きいかもしれない。少なくとも、仕事は粗雑だろうし、大衆は過度に緊張するだろう。仕事をするには、われわれは、大いに気勢をあげ、意気軒帰とやらなければならず、欠陥ばかり探したり、ひっそりかんと事をすすめたりしてはならない。


路線が正しく――大いに頑張り、人におくれをとらず、多く、速く、立派に、無駄なく(これらの語句はもっと通俗化すること)やりさえすれば一年や二年や三年、ないしは五年ぐらい後れて農業発展要綱四○ヵ条を完成しようとも、面子をなくしたことにはならないし、不名誉のうちにもはいらない。それは、もっと立派なことかも知れない。


競争し、年に四回競争したため、周小舟[湖南省委員会第一書記、一九五六年九月、中共八全大会で「農業生産合作社強化の問題」について発言]は合作化でひどく緊張することをよぎなくされたが、四川の合作社の高級化では、× ××〔四川省委員会第一書記李井泉〕は従容として迫らず、あわてず急がず、一九五七年になってやっと完成したが、 情況は決して悪くなかった。一年おそかったからといって、何も大したことはあるまい。おくれたためにずっとよい成績があがっているかも知れない。しかし、なんとしても四年も五年もかけなければ完成しないというのも正しくない。問題は条件如何をしらべてみることである。大衆の自覚が高まっているかどうかをしらべることである。何年必要か。それは、客観的条件によって決まることである。


社会主義を実現するには二つの路線がある。ひっそりかんとしてゆっくりやるのがよいのか、それとも大いに気勢をあげて、意気軒昂とやるのがよいのか。八年か一〇年で四○カ条をやりとげ、そんなふうにして社会主義の実現をはかっても、党籍をけずられることはあるまい、ソ連は四○年もかかってやっとあの程度の食糧やその他の物をつくれる段階だ。もしわれわれが八年ないし一〇年で〔ソ連の]四〇年かけたものに相当する水準に達するなら、それはもちろん、立派なものであるし、またそのようになるべきである。なぜならわれわれは人口が多く、政治的条件も異なっており、比較的生き生きとしており、レーニン主義も比較的多く身につけているからである。ところが彼らはレーニン主義を一部分失ってしまっており、死んだような沈滞した空気がよどんでいる。革命期のレーニンの著作はすさまじい勢いで人を罵っているが、それは大変適切なもので、 大衆と意気が疎通しており、心を大衆にあずけている。


建設の速度は客観的に存在するものであるが、およそ主観的にも客観的にも、やれることであれば、大いに頑張り、 つとめて高い目標をめざし、多く、速く、立派に、無駄なくやるのである。しかし、やってもやりとげられないことを無理してやってはならない。現在一陣の風が吹いている。これは第一〇級の台風であり、公然とこれを阻もうとしてはならず、内部ではっきりと論じ合って、そうした空気を押さえるようにせねばならない。虚報やうわついた気持をすてねばならず、名をあげようと争ってはならず、つとめて着実にやらねばならない。


一部には、指標が高いのに、施策が伴っていない。それでは良くない。要するに、具体的な施策を講じ、つとめて着実にやらねばならない。風呂敷をひろげることも必要であり、革命的ロマンチシズムはよいことである。しかし施策が伴わないのはよくない。


三各省、市、自治区は二ヵ月に一回会議を開いて、点検と総括をやること、そして、会議は数人から十数人の小型のものにすること。協作区〔人口七千万から一億の規模で、鉄鋼生産基地を中心に経済活動面で、協力しあう単位〕も二、三ヵ月に一回会議を開かねばならない。運動は変化が非常に大きいので、お互いに情報を交換しなければならない。会議をもつ目的は、生産のリズムを整えるためである。一つの波が静まらないうちに別の波が起こってくる。これははやく [快]とゆっくり[慢]との対立の統一である。


大いに頑張り、つとめて高い目標をめざし、多く、速く、立派に、無駄なくという総路線のもとで、波型に前進するのはゆっくり[緩]と急いで[急]との対立の統一であり、骨折り〔労]と息抜き[逸〕との対立の統一である。もし、急いだり、骨折ったりするだけなら、それは一面的である。もっぱら労働強度を強めるだけで、休息しないなら、どうしてやっていけよう。なにごとをするにも緩も急もなければならぬ([湖北省〕 武昌県の書記のように、農民の感情を無視して、十二月二九日だというのに、なお貯水池を造らせようとすれば、徴用農民の半分が逃げ出してしまうことになる)。これもまた苦しい戦いと休養整順との統一である。以前やった戦争でも、二つの戦役の間にはかならず休養整頓、補充と教練〔の時期]がなければならなかった。続けざまにつぎつぎと戦っていくことは不可能である。戦争にもリズムがある。中央ソビエト区の百 %の「ボルシェビキ化」した連中は休養整頓に反対し、「勇猛果断に、勝ちに乗じて追撃し、一気に南昌を攻めおとす」ことを主張した。しかしそれでどうしてうまくいこう。


苦しい戦いと休養整頓との対立の統一は一つの法則であり、しかも両者は相互に転化しあうものである。相互に転化しあわないものは何一つない。「急」は「後」に転化し、「緩」は「急」に転化する。「労」〔骨折り」は「逸」「休息」に転化し、「逸」は「労」に転化する。休養整頓と苦しい戦いもやはり同様である。「労」と「逸」との間にも、「緩」と「急」との間にも同一性がある。休養整頓と苦しい戦いとの間にも同一性がある。睡眠と起床もやはり対立の統一である。いったん、起きてしまったらあとはもう眠らないと誰が保証できるだろうか。逆に、「永いこと床に臥せているものは起きたくなる」のである。睡眠は起床に転化し、起床は睡眠に転化するのである。会議の開催はその逆の方向に進み、散会に転化するのである。


ひとたび会議が開かれるかぎり、その中に散会の要因が含まれているのである。われわれは成都で一万年も会議を開いていることは不可能である。王熙鳳[『紅楼夢』の登場人物〕は「千里に小屋掛けしうたげもいつかは果てる」「『紅楼夢」 第二六回に、紅玉のせりふとしてみえる〕と言った。これは真理である。誰が言おうと、言った人の如何によって、言葉の価値をきめてはならない。それが真理であるかどうかによって、その価値を定めるべきである。会議が終った後、また問題が山積してくると再び会議開催に転化するのである。団結するにしても、意見を闘わせれば意見の分岐が生じて、闘争に転化し、ここに〔組織的〕分岐が生じて、新たな決裂となるのである。毎日毎日、来る年も来る年も団結しているということは不可能である。団結を問題にするのは不団結があるからである。不団結は無条件的なのである。団結を問題にする場合には、やはり不団結があるのであり、だからこそ、工作が行われなければならぬのである。いつもいつも団結一致を問題にしていて、闘争を問題にしないのはマルクス・レーニン主義ではない。団結は闘争を通じてであり、そこではじめて団結ができるのである。


党内でも階級や人民の間でもいずれも同様であり、団結が闘争に転化し、〔つぎに〕再び団結するのである。団結一致を問題にするばかりで、闘争や矛盾を問題にしないでいることはできないのである。ソ連は指導者と被指導者との間の矛盾を問題にしないのである。矛盾と闘争がなければ、世界はなく、発展はなく、生命はなく、一切はないのである。いつもいつも団結を問題にしているのは「深い淵の澱んだ水」のようなものであり、ひっそりかんとしたさびしいものになるであろう。ふるい団結の基礎を打ち破り、闘争を通じて、新しい基礎の上に団結しなければならない。深い淵の澱んだ水がよいのか、それとも「長江のように滔々と流れ来たって尽きることがない」のがよいのか。党もこの通りであり、人民も階級もみなこの通りである。


団結し、闘争し、団結するのであり、こうすれば、仕事がはかどるのである。生産は消費に転化し、消費は生産に転化する。生産は消費のためである。生産〔者〕はたんに他の勤労者のためばかりでなく、さらに、自分もまた消費者なのである。飯を喰わなければ少しも力が出ず、生産ができない。飯を喰えば、エネルギーが生まれ、うんと働けるようになる。マルクスは、生産には消費が含まれている、と言っている。生産と消費、建設と破壊はいずれも対立の統一であり、相互に転化しあうものである。


鞍山鉄鋼公司の生産は消費のためであり、数十年たてば、設備を取り換える。播種は収穫に転化し、収穫は播種に転化する。播種は種子の消費であり、種子は播かれたのちに、反対物に変っていき、種子とは呼ばれないで、苗となり、やがて収穫されることになり、収穫された後では、また新しい種子が得られる。


豊富な例を挙げ、数十から百ぐらいの例にあたって、対立の統一と相互転化の概念を説明しなければ、思想を体得し、認識を高めることはできない。春夏秋冬も相互に転化しあうものである。春夏の要因は秋冬のうちに含まれている。生と死もまた相互に転化しあうものである。生は死に転化し、死物は生物に転化する。五〇歳以上の人が死んだら祝賀会を開くべきだと私は主張する。人は死なないわけにはいかないのであり、これが自然の法則だからである。 穀類は一年生の植物であり、毎年一度ずつ生まれて、死ぬのである。しかも、多く死ねば死ぬほど、多く生まれるのである。たとえば、豚は殺されなければ、飼う者がいなくなってますます少なくなってしまうではないか。


『簡明哲学辞典』〔の見解〕は私〔の見解と〕まったく対立している。それによれば、生死が転化しあうとみるのは形而上学であり、戦争と平和が転化しあうとみるのは正しくないのだとされている。結局のところ、どちらが正しいのか。問題を出してみよう。生物は死物から転化したものでないとすれば、どのようにして出現したのだろうか。 地球上にはもともと無機物しかなく、のちにいたって、はじめて、有機物が生まれたのである。生命をもった物質はすべて窒素、水素など、一二の元素が変化してできたものであり、生物は必ず死物の転化したものである。


息子は父親に転化し、父親は息子に転化する。女子は男子に転化し、男子は女子に転化する。直接転化するわけにはいかないが、結婚したのち男の子や女の子が生まれれば、それはやはり転化ではないだろうか。 抑圧者と被抑圧者とは相互に転化しあう。これは、つまり、ブルジョアジー・地主と労働者・農民との〔相互に転化しあう]関係である。もちろんわれわれがここで言っている抑圧者とは古い支配階級のことであり、階級独裁のことであって、抑圧者個人のことを言っているのではない。


戦争は平和に転化する。平和は戦争の反対物である。戦闘がないのが平和である。三八度線でひとたび戦いがおこれば、それは戦争であり、ひとたび停戦すれば、そこでまた平和となるのである。軍事は特殊な情況のもとでの政治であり、政治の継続である。政治もまた一種の戦争である。


要するに、量的変化が質的変化に転化し、質的変化が量的変化に転化するのである。ヨーロッパには教条主義が濃厚であり、ソ連には多少欠点がある。・必ず転化するものであってもわれわれがうまくやらないと、硬直化してしまうかもしれない。その時、もしわれわれの工業が世界一にのしあがっておれば、天狗になってしまい、思想も硬直化してしまうかも知れない。


有限が無限に転化し、無限が有限に転化する。古代の弁証法が中世の形而上学に転化し、中世の形而上学が近代の弁証法に転化した。宇宙もまた転化するのであり、決して永久不変のものではない。資本主義は社会主義に進み、社会主義は共産主義に進む。共産主義社会もやはり転化するのであり、始めがあり終りがあるのであり、きっと、階級にわかれるのであろう。それは、あるいは、別の名前がつくかもしれず、固定化することはあるまい。ただ量的変化だけがあって、質的変化がなければ、それは弁証法にそむくことになる。


世界には発生し、発展し、消滅しないようなものは何もないのである。猿が人間になり、人間が生まれたのであり、全人類も最後には消滅するであろう。それは別のものになるかも知れない。その時には地球もなくなっていよう。どのみち、地球は壊滅するし、太陽も冷却するのである。現在の太陽の熱は古代に較べると、ずっと冷えているのである。氷河期は二百万年に一度やってくる。 氷河期がくると、大量の生物が死ぬ。南極の地下には石炭が沢山あり、このことから、古代が極めて高温だったことがわかる。[陝西省] 延長県では竹の化石が見つかっている。(宋朝の人がいっているところによると、延長ではむかしは竹が育ったとのことだが、今は育たなくなっている)。


事物には、どのみち、始めと終りがあるのであり、無限なものは、ただ時間と空間の二つだけである。無限は有限から成りたっており、あらゆるものがしだいに発展し、しだいに変化してゆくのである。


こんなふうな話をするのは思考を展開させ、思考を活発なものにするためである。頭脳がいったん固くなると、非常に危険である。幹部を教育しなければならない。中央、省、地区、県の四つのクラスの幹部はきわめて重要であり、各系統を含めて、数十万人もいる。要するに、古典的な著作のことばかり考えていてはならず、多方面から事物を考え、頭を使って、思考を活発化させなければならない。


四 社会主義建設の路線はまだ創造中であるが、基本的観点はすでにできあがっている。全国の人口六億人、全党員一千二百万人のうち、この路線が正しいと感じているのは案外少なく、おそらく、数百万人にすぎない。ほかの非常に多くの人びとは半信半疑であるか、または自覚していないのであろう。たとえば農民が水利を起す場合、彼らが水利について半信半疑だとはいえないにしても、彼らは路線については自覚していまい。また四害駆除などについても、本当にそれを信じるものが今はしだいにふえてきてはいるが、私自身さえ半信半疑で、人に出会うと「四害を一掃することはできるのだろうか?」と聞いてみる。


合作化についてもこれと同様であり、それが証明されなければ、質問したくなる。なお、全く信じようとしない人びとが一部にいる。そういう人たちはおそらく数千万人はいるかもしれない(地主、富農、ブルジョアジー、知識分子、民主人士、および勤労人民内部ならびにわれわれの幹部のうちの一部分)。〔しかし]、いまはすでに少数の人びとに、この路線が正しいことを信じさせるにいたったことはわれわれからいえば、理論面でも、また一部の仕事の実践面でも(例えば相当の増産があり、仕事が相当の成績をあげ、多くの人の心がのびのびとしてくるなど)、かれらがこの路線が正しいことを認めたことを意味している。しかし四○ヵ条とか、一五年でイギリスに追いつくと言うのは理論上のことであり、四・五・八の大部分はまだ実現しておらず 〔四・五・八とは一ムー当り穀物生産量を黄河以北は四○○斤、淮河以北を五〇〇斤、淮河以南を八〇〇斤にするという農業発展要綱の目標をさす〕、全国の工業化もまだ実現していない。一五年間でイギリスに追いつくというのはやはりまだスローガンにとどまり、一五六項目〔第一次五ヵ年計画で、ソ連の援助により新設・拡充を予定した工業の建設項目]の産業建設もまだ全部は完成していない。第二次五ヵ年計画では〔粗鋼生産を〕二千万トンにすることになっているが、私の頭の中には「解けていない〕問題が存在する。うまくいくか、それとも天下が大いに乱れるか。私にはいまのところ確信がない。


だから、会議を開かねばならない。一年に四回会議を開き、問題があることがわかればすぐに調節することである。建設しおえたあとの情況はどうせ非常に良いか、中位の良さか、あまり良くないか、または大混乱かのいずれかでしかない。混乱したように見えても、そんなに大きくはならず、ただ、一時の混乱にすきず、やがて「治まる」ほうに向かうはずである。混乱のなかによくなる要因が含まれており、混乱を恐れるものではない。ハンガリーでは、工業の建設で混乱が生じたが、今ではまたうまくいっている。


路線はすでに形成されはじめており、大衆闘争の創造〔性〕を反映している。これは一種の法則であり、指導機関もこの創造性を反映して、いくつかの方針を提起している。多くのことがらは予想もつかないことであるが、法則は客観的に存在するものであり、人びとの意志によっては左右されないものである。たとえば、一九五五年の合作化の波はすさまじい勢いで高まったものであり、そういうなかで、スターリン問題・ハンガリー事件・「反冒進」〔などの出来事」が起るとは考えられもしなかった。来年はどうであろうか。はたしてどんな出来事がおこるであろうか、 何主義反対の動きが起るであろうか。誰がそれを予想できよう。具体的なことは考え出すことはできないのである。 現在、人々の相互の関係は、次の三大階級の関係によって決定される。


第一は、帝国主義、封建主義、官僚資本主義、右派分子およびその代理人たちであり、かれらをやっつけなければ、 生産力を束縛することになる。右派はブルジョア分子のうちの一%ないし二%にすぎず、そのうちの大多数のものは将来変化し、転向してくるかもしれないが、それは別個の問題である。


第二に民族ブルジョアジーであり、右派をのぞいたこの階級の人々を指すのであるが、彼らはわれわれの新中国に半信半疑であり、心の半分は仕方なくわれわれの方を向いているが、他の半分は資本主義をやろうと考えているのである。整風を経過して以後すでに変化が現われており、天下を三分して、その二をたもつことが可能になった。(北京の民主諸党派は自己改造宣誓大会を開いたが、全国的に各地でこれを開かねばならない)。


第三は左派、すなわち勤労人民と労働者農民である(実際は以上の四つの階級であり、農民は別個の階級である)。 路線はすでに形成されはじめたが、まだ完成されてはおらず、[正しさが] 実証されていないから、すでに最終的に完成したとは言えない。労働者は農民にぜいたくなところを見せびらかし、一部の幹部は名誉や地位をきそっているが、これらはすべてブルジョア思想である。これらの問題を解決することなしには、生産はうまくいかない。これらの相互関係を解決することなしには、どうして労働がうまくやれよう。これまで、われわれは主な精力を革命をやることにさき、建設に心を用いることがあまりにも少なすぎた。あやまりはやはりどうしても犯すものであり、 犯さないようにするのは不可能である。


あやまりを犯すのは、正しい路線の形成に必要な条件である。正しい路線とは誤った路線とくらべて言うのであり、両者は対立の統一である。正しい路線は誤った路線との闘争のなかで形成されるのである。誤りはすべて回避することができ、正しさだけあって、誤りはないというような観点は反マルクス主義的である。問題は少しでも誤りを少なくし、犯しても小さな誤りですむようにすることである。正しさと誤りとは対立の統一であり、難免論「誤りは免がれがたいという主張〕は正しいのである。正しさのみあって誤りがないという、こういう事実は歴史上存在しなかった。それこそ対立の統一という法則を認めないことであり、これは形而上学である。男だけいて、女がいない[ようなもので]、女を否定して、どうしてやってゆくのか。誤りを犯すのを最少限にしようと努力することは可能である。誤りの多少はのっぽとちびとの関係〔のようなもの」である。誤りを犯すのを少なくすることは可能であり、また、そのようにすべきであり、マルクスやレーニンはそのようにしたのである。


三月二二日の講話


用があったから、来たのだ。問題に気付いて、意見の交換にきた。『西廂記』の中に張生と恵明の物語りの個所がある〔唐の徳宗の時、山西省蒲県に近い普救寺の西廂に、故宰相崔珏の遺族が、故人の柩を奉じて仮寓していた。時に、孫飛虎、地方の乱に乗じて、この地を掠め、崔家の姫鶯鶯を得んとして、兵五千を率いて寺を囲んだ。崔家の夫人はこの賊を退けし者に姫を与えるという。張生は喜び、盟友の杜将軍の援をかりて、危難を除くという一段である〕。孫飛虎が普教寺を取り囲んだ時、張生は彼の友人白馬将軍に手紙を送り囲みを解いてくれるよう頼もうとしたが、手紙をもっていってもらう人がいなかった。大衆会議を開いたところ、恵明が身を挺して手紙を送り届けてくれることになった。そこでは、恵明が勇敢・大胆で しっかりした人間であることが描かれている。


中国には恵明のような人がもっと多くいてもらいたいものだし、県委員会の委員以上の数十万人の幹部の間で大鳴・大放・大字報[壁新聞]活動をおこして、指導部を批判してもらいたいものである。これは一種のプロレタリア的雰囲気であり、共産主義的雰囲気である。大衆がひとしきり諸君を罵って気をはらすにしても、決して諸君の首をはねたり、職を取り上げたりする訳ではない。これはうつぼつたる戦闘的気分であり、非常に崇高な共産主義的風格である。現在、大衆闘争の風格は大変立派であり、わが同志たちの間でもこうした風格を提唱しなければならない。


陳伯達は私に一通の手紙をくれた。彼は元来出版物の刊行などを手がけようなどとは夢にも考えていなかった。ところが、今は百八〇度転回して、今年からそれを刊行することに同意した〔一九五八年六月一日、中共中央主宰の理論雑誌として『紅旗』が発刊された。編集長陳伯達〕。これは大変良いことである。われわれの党は以前『嚮導』、 『闘争』、『実話』等の雑誌を出していた。いまは『人民日報』を出しているが、理論的雑誌がない。もともと中央と上海とでそれぞれ一つずつ雑誌を出して、対立面を設定し、競争させるつもりであった。現在では各省がそれぞれ発行するよう提唱されているが、それは非常によいことであり、理論を高め、思想を活発にすることができる。各省の発行したものは、それぞれ特徴をもたなければならない。大部分はその省の実情にもとづいた問題であってよいが、 しかし全国的な問題を取り上げてもかまわない。世界や宇宙の話であってもかまわないし、太陽や銀河の話であってもかまわない。


地方で活動している同志は、将来かならず中央にやってくることになろう。中央で活動している者は、かならずいつかは死ぬか、でなければ倒れるであろう。フルシチョフは地方から上ってきたひとである。地方における階級闘争は比較的尖鋭であり、自然との闘争にもずっとちかいし、比較的に大衆にも近いのである。これが中央の同志にくらべて地方の同志が有利な条件である。秦国では王と称していた頃には、将来があったが、帝と称してからは、すぐに亡びた。


風格を高め、心を割った話をし、精神をふるいおこさねばならない。破竹の勢いを持ち、高い屋根から水をそそぐようにすさまじい気概を持たねばならない。そこまでやりぬこうとするには、マルクス主義の基本理論と活動上の基本矛盾をしっかりつかまなければならない。ところがわが同志たちは今のところ破竹の勢いで事をやりぬこうなどとは企図しておらず、精神不振の現象を示している。これは非常に良くないことであり、奴隷的状態の現われである。


賈桂[『法門寺』という芝居の登場人物〕と同様に立っていることに慣れきってしまうと、坐ろうとしなくなってしまう。古典的著作については尊重しなければならないが、盲信してはならない。マルクス主義そのものが創造されてできたものであり、書物のままをひき写したり、型どおりにもちこんだりすることはできないのである。この点では、 スターリンは比較的すぐれていた。『ソ連共産党小史』の結語は、次のように述べている―― 「マルクス主義の一部の原理で、実情に合わなくなったものは、改めてもかまわない。たとえば一国では勝利できないということである (注 社会主義は一国だけで最初に[完全に] 勝利をかちとることはできない)」。


中国の儒家は孔子に対する盲信をいだいており、孔丘などと呼ぼうとはしなかった。しかし唐の李賀〔七九〇一八一六、字長吉、河南人〕はそうはしなかった。彼は漢の武帝を直接その名前どおりに呼び、劉徹〔武帝の本名]・劉郎 [劉家の若僧]と呼び〔李賀の詩 「昼の短さを苦しむ」、「金銅仙人 漢を辞する歌」など参照]、魏人を魏娘と呼んだ。盲信があるとわれわれの頭はすっかりおさえつけられてしまい、わくから跳び出して問題を考えることができなくなる。マルクス主義を学んでも、破竹のような勢いの風格がなければ、それは危険である。スターリンも破竹の勢いを自称したが、部分的にはボロを出した。


彼の書いた『言語学』、『経済学』[『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』」、『レーニン主義の基礎』は、比較的正しいか、または基本的に正しいが、一部の問題〔の理解〕についてはなお研究を要するものがある。たとえば、社会主義の段階における、価値法則の作用はどうなのか? 労働の準備時間の消耗の多少によって賃金の高低を決めるのかどうか〔などの問題である〕。社会主義では、個人の私有財産はなおも存在し、小集団も存在し、家庭も存在する。家庭は原始共産制の後期に産まれたが、将来は消滅するだろう。


はじめがあれば、終りがあるのだ。康有為の『大同書』はこの点をみぬいていた。家庭は歴史的に生産単位であり、消費単位であり、次の世代の労働力を生み出す単位であり、児童を教育する単位であった。現在、労働者は家庭を生産単位とはしておらず、合作社における農民も大体において変化をとげ、農民の家庭は一般に非生産単位となり、部分的な副業 [生産]があるだけとなった。 機関、部隊の家庭に至っては、なおさら、何かものを生産するということはなくなり、消費単位、労働力を生み育てる単位に変っている。教育部門の主要な部門も学校にある。


要するに、将来の家庭は、生産力の発展に役に立たないものに変ってしまうかも知れない。現在の分配制度は、労働に応じて(分配し)報酬を支払っており、家庭はまだ役に立っている。共産主義になれば、分配関係は変化して、それぞれ、必要に応じて受け取るようにかわるだろう。各種のイデオロギーもすべて変るだろう。家庭が消滅してしまうには数千年、少なくとも数百年はかかるかも知れない。 われわれの多くの同志は、このような多くの問題について、大胆に考えてみようとはせず、思考が非常にせまくるしいものになっている。これらの問題は、古典的著作においてはすでにとりあげられている。たとえば、階級、党の消減などだ。このことはマルクス、レーニンの高い風格を物語っているが、われわれの風格は非常に低いのである。


[我々が]教授を恐れるありさまは、われわれが都市に入って以来、相当のものである。彼らを軽視するのではなくて、限りなく恐れているのである。他の人びとのうず高い学問の蓄積を目にすると、〔我々は〕自分がまるで何もかも駄目に見えるのである。マルクス主義者がブルジョア知識分子を恐れるということ、帝国主義を恐れないのに、 教授を恐れるということは、ふしぎなことだ。私の見るところでは、こうした精神状態もやはり奴隷制度での「君恩に感謝する」ことの残存物だ。


私は、これ以上、耐え忍んではならないと思う。もちろん、明日ただちにでかけていって、彼らをひとしきりやっつけるというのではなくて、彼らに近づき、彼らを教育し、友達にならねばならないということである。彼らは自然科学は、いくぶん多く学んでいるかもしれないが、社会科学はわれわれより劣っているのである。彼らは、われわれよりもより多く、マルクス・レーニン主義を読んではいるが、深くはいって読むことができず、理解できないのである。たとえば呉景超〔中国民主同盟中央委員、一九五七年九月、中国科学院北京座談会で『政協合刊』に発表した反共反社会主義の文章を批判された〕は非常に沢山の本を読んでいるが、一たび機会があれば、マルクス主義に反対しようとするのである。


「自分のきたない姿を恥じる」必要はない。ベルンシュタイン、カウッキー、後期のプレハノフは、われわれよりも多く、マルクス・レーニン主義について読んではいたが、彼らは本物にならず、第二インターナショナルをブルジ 『アジーのしもべに変えてしまった。


現在は事情がすでに変っている。その指標となるのは、陳伯達同志の一つの演説(「厚今薄古」について〔一九五八年三月一〇日、中央宣伝部副部長陳伯達は、科学規画委員会第五回会議で、哲学社会科学研究における「厚古海今」の傾向を批判し、厚今薄古が哲学社会科学の躍進する方法であると述べた〕)、一通の手紙(主席あての)、一つの通報(下部への伝達を準備中である)であり、破竹の勢いを示している。


しかし、多くの同志は思想戦線での闘争に真底から心を動かされていない。たとえば、胡風批判、梁漱溟批判、『武訓伝』批判、『紅楼夢』研究批判、丁玲批判などに示されている。もともと、ブルジョアジーの一掃という基本的な観点は、七期二中全会の決議にすでにもられていた。過去の民主主義革命においては、革命は二つの段階に分かれ、前者は後者の準備であると、つねづね述べられてきた。われわれは永続革命論者であるが、多くの同志たちは、いつ社会主義革命をやるのか、土地改革後に何をやるのかについて、全く考えてみようとせず、社会主義の萌芽についてよく見えているのに見ようとしなかったのである。


社会主義の萌芽は早くから誕生しており、たとえば瑞金や、抗日根拠地では、社会主義の萌芽である互助組が生まれていたのだ。


王明と陳独秀は同類だ。陳独秀はブルジョア革命成功後は、ブルジョアジーに権力を握らせた上で、プロレタリアートを成長させ、もう一度、社会主義革命をやると主張した。したがって、陳独秀は、マルクス・レーニン主義者ではなくて、ブルジョア民主主義革命の急進派なのだ。ところが、三十余年もたって、なおこれに似たような人びとが存在する。たとえば、悪質な連中では丁玲、馮雪峰がおり、善意の連中では××× [鄧子恢?]がいる。まったく、 ブルジョア民主主義者のたぐいなのだ。彼らは、「四大自由」〔一、高利貸業を営む自由、二、労働者を雇う自由、三、土地を売る自由、四、私企業を経営する自由〕を主張している。農民について言うと、人目につくのを恐れる者がおり、かれらは私とは鋭く対立している。


河南の富裕中農は、よいものがあっても幹部にはみせず、貧しいふりをし、人がいない時に、行商人から布を買う。私は大変結構だと思う。これは、貧農・下層中農の威力がとても大きく、富裕中農は人目につかなくなっていることを示しているのだ。これは、社会主義が大いに有望なことを示している。 しかし、一部の人〔農村工作部〕は大変だと考え、人目につく危険をとり除こうとして、大いに布告を発し、「四大自由」を主張するのである。指示もあおがなければ、相談もしない。これは、明らかに、二中全会の方針に対立している。彼らには、社会主義をやる精神的準備がないのだ。だが、今は説得されて、積極的になった。


昔から、新しい思想、新しい学派をつくり出す人は、いずれもみな学問の十分でない青年たちだった。孔子は二三歳で〔学問〕を始めた。キリストにはどんな学問があったのか? 釈迦牟尼は一九歳で仏教をひらいたが、学問は後から徐々に身につけたのだ。孫文は、青年の頃は、どんな学問があっただろうか? 高級中学程度でしかなかった。 マルクスが弁証法的唯物論を創始しはじめたのは、非常に若い頃だった。彼の学問も後になって身につけたものだ。




マルクスが『共産党宣言』を書いた時は、三〇歳前後にすぎなかったが、すでに学派を形成していた。著作を始めた頃は、わずか二十数歳だった。当時、マルクスが批判したのは、すべて、当時の一部のブルジョア博学者だった。たとえば、リカード、アダム・スミス、ヘーゲルなどだ。歴史的には、概して、学問の少ない人たちが、学問の多い人をくつがえしてきた。章太炎が青年時代に書いたものは、比較的生き生きとしており、反満を目的とする民主主義的革命精神にみちていた。


康有為も同じであった。劉師培が名を成した時は、まだ二〇歳にすぎず、死んだ時がやっと三〇歳だった。王弼〔三国魏の山陽の人〕が『老子』に注釈をつけた時は、十数歳にすぎなかった。頭を使いすぎて早死し、死んだ時はわずかに二十数歳だった。顔淵(第二級の聖人)が死んだのはやっと三二歳の時だった。李世民〔唐の太宗]が兵を起した時は、十数歳にすぎなかったが、総司令官となり、二四歳で天子の位につき、皇帝となった。年もそれほどとっておらず、学問もあまり多くなかった。問題は、その人の方向が正しいかどうかにかかっている。秦叔宝〔小説『説唐』の登場人物〕も若かった。若い人は一つの真理をつかむと、向かうところことごとく風脈する。だから、老人は彼らにかなわないのである。


羅成〔小説『説唐』の登場人物〕、王伯当〔小説『説唐』の登場人物〕もともに二十数歳にすぎなかった。梁啓超も若い時は向かうところことごとく風靡した。ところが、われわれは教授たちの前では、なんとまあ無力なことか。かれらから学問的に比較論評されることを恐れる。定期刊行物が出ても、方向が間違っていなければそれでよいのだ。雷海宗〔西南連合大学教授、歴史学者〕はマルクス主義の本は読んではいても、われわれにはかなわない。なぜなら、われわれはマルクス主義を信じているからだ。彼は読めば読むほど右派になっていくのだ。いまわれわれは定期刊行物 [『紅旗』]を出そうとしているが、それによってブルジョア知識分子を圧倒しなければならない。われわれは十数冊の本さえ読めば、彼らを打倒することができるだろう。


定期刊行物を出すようになれば、われわれは古典的著作を読み、問題を考え、かつ、自分で筆をとって書くことを余儀なくされるだろう。こうなれば、思想を高めることができるだろう。現在は山ほどの大量の定期刊行物のことがわれわれの注意をひきつけている。定期刊行物が出されなければ、みんなは本を読むこともあるまい。抽象的なことばかり議論していても、赤いとは言えないのだ。


各省で定期刊行物を出し、対立面をつくりだすと共に、中央の定期刊行物に原稿を送る任務をになうべきだ。各省は、一年に六篇おくれば充分だ。要するに、一〇篇以下ということにして、諸君が、この活動を組織することだ。こうすれば、きっと英雄豪傑が出現するだろう。


古来、新しい学派をつくり出したのは、いずれも十分な学問のない青年であり、かれらは新しいものをひと目で見わけ、しっかりとそれをつかんで、おいぼれたちに宣戦するのである。学問のあるおいぼれたちは必ず彼らに反対する。マルチン・ルーテルが新教を開いたり、ダーウィニズムが現われたりすると、多くの人が反対したではないか! 睡眠薬を発明したのは、医者でもなかったし、なおさら有名な医者などではなくて、一人の薬剤師だった。はじめ、 ドイツはそれを信じなかったが、フランス人が歓迎した。そこから、はじめて睡眠薬がうまれたのである。聞くところによれば、ペニシリンは染物屋の洗濯係りの人が発明したということだ。アメリカのフランクリンは電気を発明したが、彼は新聞売りの子供だった。後に、伝記作者、政治家、科学者になった。ゴリキーは小学校で二年学んだだけだ。もちろん、学校でも、ものを学ぶことはできる。学校を全部閉鎖してしまうというのではなく、かならずしも学校に行かなくてもよいということだ。方向が正しいかどうか、進んで方向をしっかりとつかむかどうかが問題なのだ。


学問はつかむものだ。これまで、学派を創設した青年は、いったん真理をつかむと、おいぼれたちを無視したのであり、彼らが何かを発明すると、博学者たちはこれに圧迫を加えたのである。歴史とはこうしたものではあるまいか?


私がはじめて革命を始めたのは、やはり赤ん坊の頃ではなく、二十何歳かになったときだった。当時の支配者は、袁世凱、段祺瑞だった。いずれも年寄り風を吹かせた。学問を重んずる点では、彼らが上だったが〔皮肉?〕、真理を重んずる点では、われわれが上だ。


私は大変愉快である。最近の時期の大字報は非常に気魄があり、批判が鋭く、生き生きとしており、無気力を一掃してしまった。われわれは、いつも安穏に、まともに歩き、「人に会っても三分通りの話しかせず、本心はさらけださない」つまり、心を割った話はしない。


王鶴寿[冶金工業部長〕の第二の文章は思い切って教条主義を批判しており、彭壽〔化学工業部長]のもすぐれていて、説得力がある。鋭さは少し足りないが、これは「他人をたたいて、自分をおしあげる」のにほかならない。しかし、個人主義的に他人をたたいて、自分をおしあげるのではない。誤った思想をたたくため、正しい思想をおしあげることは、全く必要である(もちろん、誤りには、自分の誤りも含まれている)。滕代遠〔鉄道部長」のあの一篇もすぐれているが、説得力が足りない。あれほど多くの鉄道をつくるには、理由を説明せねばならない。そうしなければ、他人をびっくり仰天させてしまう。張笑若〔教育部長〕はわれわれを「大きいことを好み手柄を喜び、手柄を急ぎ利を追いもとめ、過去を軽蔑し、将来を盲信する」ものだと批判している。


プロレタリアートこそこういうものではないのか。どの階級でも大きいことを好み手柄を喜ぶ。「大きいことや手柄を喜」ばないのは「小さいことを好み、あやまちを喜ぶ」ことではないのか? 禹王は寸刻を惜しんだ、われわれは毎分毎分を大切にする。孔子は「三日、君無くば、惶惶如たり〔不安につつまれる」」といった。孔子は「席のあたたまるひまもな」かったし、墨子は 「かまどが黒くなるひまもない」といった。これはいずれも手柄を急ぎ利を追うものだ。


われわれの規約こそ、そういう規約なのだ。水利、整風、反右派闘争と、六億の人びとが大運動をやっているのは、大きいことを好み、手柄を喜ぶことではないのか? われわれが、平均・先進のノルマをつくったのは、手柄を急ぎ利を追いもとめるのではないのか? われわれが古い制度、反動的な生産関係を軽蔑しないで、ほかに何をするのだ。社会主義、共産主義を盲信しないでほかに何をするのだ。


われわれには誤りもあるし、主観主義もある。しかし「大きいことを好み手柄を喜び、手柄を急ぎ利を追いもとめ、過去を軽蔑し、将来を盲信する」のは正しいことだ。天津、南京からの二通の手紙は私に反対しているけれども、その精神はくみとるべきであり、それは立派なものだと私は思う。そのうち天津のは、より立派なものだ。南京のは、 元気がなく、十分気骨がない。陳其通〔人民解放軍総政治部宣伝部副部長〕ら四人のうち、陳沂〔人民解放軍総政治部文化部部長〕以外はみな右派分子だが、これらの人々が、思い切って物をいおうとする精神は評価すべきだ。面と向っては話さず、かげでヒソヒソ話をするのはよくない。大体においては一致すべきだし、少なくとも基本的には一致しなければならないが、[発言は]少しばかり鋭くてもかまわないし、少しばかり婉曲にいってもかまわないが、いいたいことは言わなくてはいけない。時には、鋭く、はっきりといわねばならないが、いずれにしても、団結し援助するという態度から出発することだ。


鋭い批判が党を分裂させることはあり得ず、党を団結させるだけであり、言いたいことがあるのに、言わないのは大変危険だ。むろん話をするには、時機を選ばねばならず、戦術を考えなければいけない。たとえば、明朝の三大事件で、魏忠賢〔明の宦官、東林学派を弾圧した〕に反対した人びとのように、戦術を考えないのも、自から破滅をまねく。あの時は、それが皇帝から喜ばれないという結果になった。楊慎安という一人の四川人は、兵隊にされて雲南へ行かされた。


歴史上、本当のことを言った者、たとえば比干[股の紂王の諸父、村を諌めたため殺された〕、屈原、朱雲〔漢の成帝の時、権勢を擅にしていた佞臣張禹を切らんことを願って帝の怒りに触れた」、賈誼〔漢の文帝の時、政治改革を主張して、貴族と大臣におとしめられ、長沙王の大傅に左遷された」などのような人びとは、ことごとく志を遂げることができなかったが、原則のために闘ったのだ。思い切って物を言おうとしないのは、次の理由からにほかならない。一つには、日和見主義のレッテルをはられるのを恐れること、二つには、免職を恐れること、三つ目には、党から除名されるのを恐れること、四つ目には、妻から離婚されるの恐れること(面目丸つぶれになるから)、五つ目には監獄に入れられるのを恐れること、六つ目には殺されるのを恐れることだ。


私の見るところでは、この何項目かに充分にそなえ、浮世に見きりをつけさえすれば、何もおそれることはない。精神的な備えなしには、もちろん、思い切った物のいい方はしないことだ。まさか犠牲にまでなって、 われわれの口を封じてよいわけでもあるまい。われわれは、人々に思い切って物をいわせ、心をうちあけさせるような、環境をつくりだすべきである。ソ連共産党第一九回代表大会の報告も「環境をつくりださねばならない」と言っている。これは、大衆にとってはあたりまえのことである。先進分子は、こんなことは恐れるべきではなく、王熙鳳 [『紅楼夢』の登場人物〕の「なぶり殺しの刑にあおうとも、一身を顧りみず、敢然と皇帝を馬から引きずりおろす」 [『紅楼夢』第六八回〕]という精神を持たねばならぬ。


われわれは大衆を指導すべきだ。現在、大衆はわれわれよりも先を進んでおり、彼らは思いきって大字報をはって、 われわれを批判している。むろん、それは儲安平[『光明日報』編集長だったが、反右派闘争で批判された」のやり方とは異なる。あれは、敵がわれわれを罵っているのであり、現在〔必要なの〕は同志の間の批判だ。われわれの間には、いま、活動態度のよくない一部の同志がいる。思い切って物をいおうとせず、三分通りしか話さない。これは、 一つには、うまく泳げなくなるのを恐れ、二つには、選挙の票を失うのを恐れているのだ。これは凡庸な活動態度であり、改めねばならないし、今はもう改める可能性も出ている。


一九五六年は三つのこと――多く、速く、立派に、無駄なく〔建設すること]、促進派になること、および「全国農業発展要綱〕四○ヵ条〔の実施] ―――が吹きとばされてしまった。三種類の人がおり、三種類の精神状態があった。 一つは心を痛めるもの、他の一つはぼんやりしていて関心を示さないもの、もう一つは〔他の人の〕興味を吹きとばしてしまう〔水をさす」ものである。どっしりと石がすわっているように天下が太平になる。この三種類の人々は、 両端が小さく、真中が大きい。一九五六年には、多くの問題があり、そのいずれに対してもこの三種類の態度があらわれた。反日、反蔣、土地改革は比較的一致していたが、合作化の問題では「こうした〕 三種類の態度があらわれた。こうした評価は正しいだろうか?


今回の会議は一連の問題を解決し、協議がまとまり、政治局のために文書を用意した。しかし、欠点は、思想問題についての論議が比較的少なかったことだ。これから、あと、二日か三日の時間をかけて、思想問題について話しあい、うちわった話をしたらどうか。


同志諸君は、今回の会議は整風のための会議だというが、思想[問題]については語られず、約束を実践するという点では、矛盾があるのではないのか? 一つには、闘争せず、二つには、右派をより分けず、和風細雨「おだやかに、しっとりと」、気のおけない話をしている。私が企図したのは、人びとに、思い切って物をいわせ、気持ちを奮いたたせ、マルクスや魯迅のように、破竹の勢いで活動させようとするにあった。思い切って物をいうためには、心配をとり除かねばならない。


地区委員会の書記が、およそ二、三人の規模で、そういう空気をつき破って、一種の新しい雰囲気をつくり出すことである。鄒容[一九〇三年、上海にて『革命軍』の一書を著はす。後、章太炎と共に投獄され、監禁三年、獄死〕は、一八歳か一九歳で、『革命軍』を書き、直接皇帝を罵った。章太炎は康有為に反駁する文章[「康有為に駁し、革命を論ずる書」」を書いた。これも人びとの精神を百倍も奮いたたせた。年をとればとるほど役に立つことが少なくなるものだが、しかし、みだりに自ら卑下する必要はなく、頑張らねばならない。もちろん、年をとった者もやはり必要で、船のかじもとらねばならない。三国時代、劉備は立派な人間ではなかったが、やはり年寄り[諸葛孔明〕がうまく統率した。党内の沈滞した気分を突き破らねばならない。


若干の詩が印刷されたが、ことごとく老いぼれの詩だ。少し民歌を集めて出したらよいのではないか? 同志諸君が責任を負い、帰ってから民歌を収集してほしい。それぞれの階層、青年、子供の間には、多くの民歌があるから、 いくつかずつ試しに探してみることだ。各人にそれぞれ三枚か五枚の紙を渡して、民歌を書いてもらうことだ。字が書けない勤労人民には、誰かが代って代書してやることだ。一〇日間の期限を切って収集すれば、大量の古い民歌が集まるだろうから、次回には、一冊の本に印刷できるだろう。


中国詩の活路は、第一に、民歌、第二に、古典であり、それを基礎にして新体詩を生み出すことである。形式は民歌的なものとし、内容はリアリズムとロマンティシズムの対立の統一であるべきだ。現実〔リアル]すぎては、詩は書けなくなる。現在、新体詩はまだ形をなしておらず、また読む人もいない。私は、たいまい百元でもくれなければ、 どのみち、新体詩は読まない。民歌を収集する活動は、北京大学が大いに行った。われわれがやれば、数百万首、数千万首の民歌を探し出せるだろう。これには、それほど多くの労力はかかるまい。杜甫、李白の詩を読むよりは幾らか楽しいだろう。

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