第7話 日常の中の恋心と、紅の書の教え
街での騒動から数日が経った。
私たちは、工房での生活に慣れ始めていた。
幸い、追手が隠し通路を見つけることはなく、工房は安全な隠れ家として機能していた。
そして、私は――新しい服を着ていた。
街で購入した、シンプルなワンピース。
そして、作業用に動きやすい長ズボンとシャツも手に入れていた。
「よし、これで作業もしやすくなりましたわ」
私は、長ズボンとシャツ姿で、作業台の前に立った。
水着姿よりも動きやすく、そして――
『でも、少し残念ですわね。先生の視線を引きつける効果は、水着姿の方が上でしたもの…』
私は、少しだけ寂しい気持ちになった。
「アリア君、その服、よく似合っているよ」
先生が、作業台の向こうから声をかけてくれた。
「あ、ありがとうございます、先生!」
私は、顔を赤らめながら答えた。
『先生が褒めてくださった…!嬉しい…!』
「マスター、アリア様。本日の作業計画を報告します」
レティシアが、いつものように淡々と言った。
「工房の修復作業、完了率:78%。残りの作業は、防御結界の再構築と、魔力供給システムの調整です」
「順調だな。レティシア、君のおかげで作業が捗る」
先生が、レティシアの頭を撫でた。
レティシアは、最近、頭を撫でられると微かに微笑むようになった。
「どういたしまして、マスター」
私は、その様子を見ながら、少しだけ複雑な気持ちになった。
『先生が…レティシアさんの頭を…!』
いえ、違う。
レティシアさんは、コロさんの魂を受け継いだ、先生の大切な相棒。
私が嫉妬するなんて、おかしい。
でも――
『でも…私も…先生にもっと構ってほしい…!』
私は、自分の心の声に気づいた。
そして――
『そうですわ!バイブルには、こういう時の対処法が書いてありましたわ!』
私は、紅の書の「積極的なアプローチ」の章を思い出した。
「先生」
私は、作業台から顔を上げた。
「ん? どうした、アリア君?」
「少し、休憩しませんか? ずっと作業をしていると、疲れますわよ」
私は、優しく微笑んだ。
これは、桃の書の「気遣いで心を掴む」テクニックだ。
「そうだな…確かに、少し休憩するか」
先生は、工具を置いた。
「では、お茶を淹れますわ」
私は、工房の片隅にある簡易キッチンへと向かった。
日本から持ち帰った物資の中に、先生が大切にしていた緑茶があった。
私は、それを丁寧に淹れた。
「先生、どうぞ」
私は、湯呑みを先生に差し出した。
「ああ、ありがとう、アリア君」
先生は、湯呑みを受け取り、一口飲んだ。
「…懐かしい味だ」
先生の表情が、どこか遠くを見つめるような、優しいものになった。
「日本を、思い出しますか?」
「ああ…22年間過ごした場所だからな。色々と思い出がある」
私は、先生の隣に座った。
これは、紫の書の「距離を縮める」テクニックだ。
「先生…日本での生活は、どんな感じでしたの?」
私は、興味深そうに尋ねた。
実は、私は先生のことをもっと知りたかった。
先生の過去、先生の思い出、先生のすべてを。
「そうだな…最初は大変だった。言葉も文化も違う世界で、一人で生きていかなければならなかった」
「一人で…」
「ああ。でも、日本の人々は優しかった。俺を受け入れてくれた」
先生は、懐かしそうに語った。
「特に、俺を雇ってくれた会社の上司は、俺の父親代わりのような存在だった」
「父親代わり…」
「ああ。彼は、俺に日本語を教え、仕事を教え、生き方を教えてくれた」
先生の瞳が、少し潤んでいる。
「でも…彼は、3年前に亡くなった」
「…そうでしたか」
私は、先生の手をそっと握った。
これは、桃の書の「悲しみを共有する」テクニックだ。
先生は、驚いたように私を見た。
「アリア君…」
「先生…辛かったのですね」
私は、優しく微笑んだ。
先生は、私の手を握り返してくれた。
「ああ…でも、もう大丈夫だ。今は、君やレティシアがいてくれるからな」
私は、先生の言葉に、心が温かくなった。
『先生が…私を必要としてくれている…!』
これは、チャンスだ。
私は、紅の書の教えを思い出した。
「相手の心が開いている時こそ、大胆に攻めるべし」
「先生」
私は、先生の目を見つめた。
「私は…先生のお役に立ちたいのです」
「アリア君…君は既に十分、助けてくれているよ」
「いえ、それだけではなく…」
私は、少し身を乗り出した。
先生との距離が、近づく。
「私は…先生の心も…癒やしたいのです」
先生は、一瞬固まった。
私の顔が、先生の顔に近い。
先生の息遣いが、聞こえる。
『これが…紅の書の「至近距離での囁き」…!』
私の心臓が、激しく鳴り響く。
でも、私は引かない。
5冊のバイブルで学んだ、完璧な恋愛テクニックを、今こそ発揮する時だ!
「アリア君…」
先生が、私の名前を呼んだ。
その声は、少し震えている。
『これは…効いていますわ…!』
私は、さらに顔を近づけようとした。
その時――
「マスター、アリア様」
レティシアの声が響いた。
私は、ハッと我に返り、慌てて先生から離れた。
「な、何かしら、レティシアさん!?」
私は、顔を真っ赤にしながら答えた。
「防御結界の再構築が完了しました。確認をお願いします」
「あ、ああ…分かった。今行く」
先生は、立ち上がった。
その顔も、少し赤い。
私は、一人残されて、深くため息をついた。
『ああ…もう少しで…もう少しで先生に…!』
でも、同時に――
『でも、これで先生の心は、確実に私に傾いているはず…!紅の書の教えは完璧ですわ!』
私は、自信満々にそう思った。
その後、私たちは防御結界の確認作業を行った。
レティシアが再構築した結界は、完璧だった。
「さすがだな、レティシア」
先生が、レティシアを褒めた。
「ありがとうございます、マスター。これも、アリア様の設計図のおかげです」
「アリア君も、素晴らしい仕事をしたな」
先生が、私の方を見た。
その視線は、先ほどよりも優しい気がした。
『先生…私を見てくださっている…!』
私の心が、高鳴る。
夕方、私たちは簡単な食事を取った。
先生が作ってくれた、野菜スープ。
日本の調味料で味付けされたそれは、今まで食べたことのない美味しさだった。
「美味しいですわ、先生」
「気に入ってくれたか。良かった」
先生は、微笑んだ。
食事の後、私たちはそれぞれの作業に戻った。
先生は、日本から持ち帰ったデータの整理。
レティシアは、工房のシステムの最適化。
そして、私は――
私は、作業台の前で、リカちゃん人形を見つめていた。
この人形から学んだ「引き算の美学」。
それは、レティシアの設計に活かされただけでなく、私の考え方にも影響を与えた。
『複雑なものが良いとは限らない…シンプルだからこそ、美しい…』
私は、そう思った。
そして――
『恋愛も、同じかもしれませんわね』
5冊のバイブルには、様々な複雑なテクニックが書いてある。
でも、本当に大切なのは――
『先生を想う、この気持ち…』
私は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、温かく鼓動している。
「アリア君」
先生が、声をかけてくれた。
「はい?」
「今日は、ありがとう。君がいてくれて、本当に助かっている」
先生の言葉に、私は顔を赤らめた。
「い、いえ…私こそ、先生に助けられていますわ」
「そんなことはない。君は、俺にとって…大切な仲間だ」
大切な仲間――
その言葉を聞いて、私の心は複雑な気持ちになった。
『仲間…ですか…』
嬉しい。
でも、同時に――
『私は…仲間以上の存在になりたい…!』
私は、そう思った。
その夜、私は自分の布団の中で、5冊のバイブルを読み返していた。
特に、黒の書の「最終段階」の章を。
『次は…もっと大胆に…もっと直接的に…!』
私は、決意を新たにした。
黒の書には、「最後の決め手は、直接的な告白」と書いてある。
でも――
『今は、まだその時ではありませんわね。もう少し、先生の心を掴んでから…』
私は、慎重に計画を練った。
と、その時――
工房の外から、何やら物音が聞こえた。
私は、ハッと起き上がった。
「先生!」
私は、小声で先生を呼んだ。
「聞こえた…誰かいるな」
先生も、既に起きていた。
レティシアも、起動状態に戻った。
「マスター、工房の外に3つの生体反応を検知しました。おそらく、追手です」
レティシアが、冷静に報告した。
私たちは、息を潜めた。
工房の外から、兵士たちの声が聞こえる。
「この辺りに、アリア=セレスティアの隠れ家があるはずだ」
「でも、どこにも見当たらないぞ」
「もっと探せ! スヴェン殿下の命令だ!」
私は、先生の方を見た。
先生は、私の目を見て、静かに頷いた。
そして、私の手を握った。
『先生…』
私は、先生の手を握り返した。
この手の温かさが、私を安心させてくれる。
しばらくして、兵士たちの声が遠ざかっていった。
「…行ったようだな」
先生が、小声で言った。
「でも、また来るかもしれません」
私は、不安そうに言った。
「大丈夫だ。この工房は、そう簡単には見つからない。君が巧妙に隠してくれたからな」
先生は、私を励ますように微笑んだ。
私たちは、再び布団に戻った。
でも、私は眠れなかった。
先生の手の温かさが、まだ残っている。
『先生…私を守ってくださった…』
私の心が、温かくなる。
そして、私は思った。
『やはり…私は、先生が好きですわ…!』
この気持ちは、もう止められない。
5冊のバイブルで学んだテクニックも大切だけれど――
一番大切なのは、この気持ち。
先生を想う、この心。
『必ず…必ず、先生に私の気持ちを伝えますわ…!』
私は、そう心の中で誓いながら、眠りについた。
枕元には――5冊のバイブルと、日本のファッション雑誌が、しっかりと置かれていた。
私の戦いは、まだ終わらない。
いや、これからが本番だ――。




