第46話 赤い傷跡と、心の亀裂 ~アリア、最初の衝撃と後悔の始まり~
『古代の自動工房』内に確保した拠点で1ヶ月が経過し、私たちは工房のシステムに関する膨大な知識と、ある程度の防御体制を整えることに成功していた。
そして今、私たちはエルリック翁の地図とレティシアさんの解析が示す、工房のさらに深部――『第7研究セクター:キメラプロジェクト』へと繋がる可能性のある、未知のエリアへと足を踏み入れていた。
そこは、これまでの区画とは明らかに異なり、空気は重く、壁や床には不気味な有機物のようなものが付着し、生命の気配と同時に死の匂いが漂う、異様な雰囲気に包まれていた。
「…気を引き締めろ。何が出てきてもおかしくないぞ」
先生は、私とリリアを背後にかばうように進みながら、低く警告を発した。
私も、いつものような軽口は消え、緊張した面持ちで周囲を警戒している。
リリアは、先生の背中に隠れるようにして、不安げに金色の瞳を揺らしていた。
その時だった。
通路の奥の暗闇から、複数の赤い光点が高速で接近してきた。
「来るぞ!」
先生の叫びと同時に、それは姿を現した。
機械の骨格に、歪んだ生物組織が融合したかのような、醜悪で俊敏なキメラ型ゴーレムが三体。
その爪は鋭く、口からは腐食性の液体を滴らせている。
【マスター、危険です! あれは、おそらくキメラプロジェクトの失敗作…あるいは暴走した警備ユニット!】
レティシアさんが警告を発するが、キメラゴーレムたちは既に私たちに襲い掛かろうとしていた。
戦闘は熾烈を極めた。
先生は騎士剣を振るい、一体を食い止める。
レティシアさんは正確な射撃で残りの二体の動きを牽制し、私も魔法障壁を展開しながら攻撃魔法を放つ。
しかし、敵は予想以上に手強く、その連携は巧みだった。
一体のキメラゴーレムが、レティシアさんの射線をかいくぐり、魔法詠唱に集中していた私と、その後ろにいたリリアに鋭い爪を振り下ろそうとした。
「アリア! リリア!」
先生は絶叫し、考えるよりも早く、私とリリアの前に身を挺して飛び出した。
グシャリ、という鈍い音と共に、先生の左肩から脇腹にかけて、キメラゴーレムの爪が深く食い込んだ。
鮮血が迸り、先生の顔が苦痛に歪む。
「先生っっ!!」
私の悲痛な叫びが、工房内に木霊した。
先生は、激痛に耐えながらも、残る力を振り絞って騎士剣をキメラゴーレムのコアらしき部分に突き刺し、その動きを止めた。
レティシアさんも、残りの二体をほぼ同時に撃破した。
しかし、先生はそのまま膝から崩れ落ち、私の腕の中に倒れ込んだ。
先生の左半身は血に染まり、呼吸も浅く、意識も朦朧としている。
「先生! 先生! しっかりしてくださいまし! お願い、目を開けて…!」
私は、かつてないほどの恐怖とパニックに襲われ、涙ながらに先生に呼びかけた。
リリアも、先生の苦しむ姿に怯え、小さな手で私の服を掴んでいた。
薄れゆく意識の中、先生は私の手を弱々しく握り返した。
そして、途切れ途切れに、しかし確かな愛情と信頼を込めて、こう呟いた。
「アリア…君は…悪くない…俺が…もっと…強くならなければ…君の笑顔を…守れなかったら…俺は……」
先生の言葉はそこで途切れ、その瞳から光が失われそうになる。
先生のその言葉は、私の心に、まるで鋭い刃のように深く突き刺さった。
『わたくしは…悪くない…? いいえ…違う…! 先生がこんなことになったのは…わたくしが…わたくしが、先生の優しさに甘えて、自分勝手な行動ばかりしていたから…! 先生を困らせて、危険な目にばかり遭わせて…!』
これまでの自分の行動――『貴重な文献』に基づいた奇行の数々、先生を振り回してきた日々、そして先生の苦悩に気づこうともしなかった自分の愚かさ――が、走馬灯のように私の脳裏を駆け巡った。
先生が私を庇って傷つくたびに、先生は決して私を責めなかった。
いつも優しく、そして許してくれていた。
その優しさが、今の私には何よりも辛く、そして重い。
「先生…わたくしのせいです…わたくしが…!」
私の瞳からは、後悔と自責の念、そして先生を失うかもしれないという恐怖から、止めどなく涙が溢れ出した。
それは、私がこれまでの人生で経験したことのない、胸が張り裂けそうになるほどの痛みだった。
私の心に、最初の、そして最も深い亀裂が入った瞬間だった。
レティシアさんが、先生の傷口に緊急用の医療ジェルを塗布しながら、冷静に、しかしどこか緊迫した声で告げた。
【マスターのバイタル、危険水域です。このままでは…アリア様、マスターを安全な場所へ! そして、可能な限りの治療を!】
私は、涙で霞む視界の中、必死に頷いた。
『先生を…先生を死なせたりしない…! 絶対に…!』
私の心の中で、何かが大きく変わろうとしていた。
それは、これまでの自分との決別であり、そして、先生への本当の想いに向き合う、最初の苦しい一歩だったのかもしれない――。
◇
キメラゴーレムの強襲という悪夢の後、私とレティシアさんは、リリアを伴い、意識を失った先生を必死の思いで拠点としていた動力供給制御室へと運び込んだ。
幸い、制御室の医療ユニット(私とレティシアさんが1ヶ月かけて一部機能を回復させていた)が最低限の機能を発揮し、先生の出血はなんとか抑えられたものの、先生の呼吸は浅く、顔色は紙のように白いままだった。
予断を許さない状況が続いていた。
私は、文字通り寝食を忘れ、先生の傍らで献身的な看病を続けた。
濡らした布で先生の額の汗を拭い、レティシアさんが調合した回復薬を慎重に先生の唇に含ませる。
その間、私の頭の中では、先生が最後に呟いた言葉が、何度も何度も木霊していた。
『アリア…君は…悪くない…俺が…もっと強くならなければ…』
『違う…違うのです、先生…! 悪いのは、全てわたくしなのです…!』
私の胸は、鋭い痛みと共に、これまで経験したことのないほどの深い後悔と自己嫌悪で満たされていった。
これまでの自分の行動が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
先生に振り向いてほしくて、先生のお役に立ちたくて、必死で『貴重な文献』を読み漁り、そこに書かれた奇抜なアプローチばかりを繰り返してきた日々。
先生が困惑しているのも、呆れているのも、薄々気づいていたのかもしれない。
けれど、先生の優しさに甘え、自分の行動が先生を本当に苦しめている可能性から目を逸らしてきた。
煙幕作戦、お着替えハプニング、そして…あの、キスを迫った時のことまで…。
全ては、私の独りよがりな願望と、浅はかな知識が生み出した、滑稽で、そして何よりも危険な暴走だったのだ。
『わたくしは…先生の信頼を裏切り、先生の優しさを踏みにじり、そして…先生をこんな危険な目に遭わせてしまった…!』
かつて絶対的な指針だった『貴重な文献』の知識は、今や私にとって、自らの愚かさを証明する忌まわしい記憶の断片でしかなかった。
それらは、先生の命の危機の前では、あまりにも無力で、そして空虚だった。
【アリア様…少しお休みください。マスターのバイタルは、依然低いレベルで推移していますが、小康状態を保っています。貴女まで倒れてしまっては…】
レティシアさんが、私の消耗しきった顔を見て静かに声をかけた。
リリアも、私の悲しみを感じ取っているのか、心配そうに私のローブの裾を小さな手で握っていた。
私は、力なく首を振った。
「いいえ…わたくしには、休む資格などありませんわ…」
私は、眠る先生の顔を見つめた。
先生の頬はこけ、唇は乾き、その寝顔は苦痛に歪んでいるように見える。
その全てが、自分のせいなのだと思うと、胸が張り裂けそうだった。
『先生が回復されたら…わたくしは…』
私の中で、一つの悲しい決意が形作られていった。
『先生のそばにいれば、わたくしはまた、先生を傷つけてしまうかもしれない。先生を不幸にしてしまうかもしれない。先生には、もっと穏やかで、もっと賢明で、先生を本当に支えられる、素晴らしい女性がふさわしいはずだわ…』
『わたくしのような、自分のことしか考えられない、独りよがりで愚かな女は…先生の隣にいるべきではないのだ…』
『先生の幸せのためにも…わたくしは、先生の前から…姿を消さなくては…』
それは、先生への深い愛情と、先生をこれ以上苦しめたくないという切なる願いから生まれた、私なりの結論だった。
しかし、その決意は、私自身の心を鋭く切り裂き、止めどない涙となって頬を伝った。
私は、そっと先生の額にかかった髪を整え、静かに、しかし固い意志を込めて呟いた。
「先生…どうか…どうかご無事で…。そして…お幸せに…」
その言葉は、誰にも聞かれることなく、工房の冷たい空気に溶けて消えた。
私の瞳からは、かつての天真爛漫な輝きは完全に消え失せ、深い悲しみと、悲壮なまでの覚悟の色が浮かんでいた。
私は――決めた。
先生が回復したら――
私は、先生の前から姿を消そう。
それが――先生のためなのだから。




