第33話 天才の横顔と、騎士の秘めたる好意(と、やっぱり続くアリアの勘違い)
『貴重な文献』という名の心の支えを失い、一時は涙に暮れた私だったが、先生の真っ直ぐな励ましの言葉と、目の前に立ちはだかる新たな試練は、私の中に眠っていた本来の力を呼び覚ましつつあった。
私たちが進んだ先に現れたのは、通路全体を覆うように複雑な魔法陣が刻まれた巨大な石壁だった。
微弱ながらも強力な魔力が流れ、不用意に触れればただでは済まないであろうことが見て取れる。
「これは…古代の高度な結界術式ですわね」
私は、先ほどまでの涙目の少女の面影はなく、理知的で鋭い光を宿した瞳で石壁を見据えた。
私は、リュックから小型の魔力探知機と、数本の金属製のプローブを取り出すと、慎重に魔法陣の解析を開始する。
その横顔は真剣そのもので、研ぎ澄まされた集中力を漂わせていた。
先生は、スヴェン殿下の追手を警戒しつつ、そんな私の姿を静かに見守っていた。
「…先生、レティシアさん、分かりましたわ」
しばらくして、私は顔を上げた。
「この結界は、複数の属性魔力を特定の順番で、かつ正確な量だけ注入することで中和・解除できるようです。ただし、一箇所でも間違えると、術式が暴走し、この通路全体が…おそらく大変なことになりますわ」
「…その順番と量は分かるのか?」
「はい。レティシアさんのスキャンデータと、わたくしの知識を照合した結果、おそらく三つの属性…炎、水、そして風の魔力を、この順で、それぞれ『純度97.3%以上の魔石相当量』『一ドラムの湧き水に含まれる精霊力相当』そして『春一番のそよ風が持つ運動エネルギー相当』だけ、正確に注入する必要があります。かなり繊細なコントロールが要求されますわね」
私は、こともなげに言った。
「俺にできることはあるか?」
「はい、先生。炎と風の属性魔石は、エルリック様から頂いたものの中に適合するものがあります。問題は水の魔力ですが…これは、わたくしのこの魔道具で、周囲の大気中の水分から精霊力を抽出し、調整することが可能です。先生には、わたくしが魔力を注入する間、結界の安定を監視し、万が一暴走の兆候が見られたら、即座にわたくしをここから引き離していただきたいのです」
私は、小型の円筒形の魔道具を取り出しながら、先生に真剣な眼差しを向けた。
先生は頷き、剣の柄を握りしめた。
「分かった。君を信じよう」
「ありがとうございます、先生!」
私は嬉しそうに微笑むと、再び石壁に向き直り、全神経を結界の解除に集中させ始めた。
数十分後、石壁の魔法陣は静かに光を失い、重々しい音を立てて左右に開いた。
「やりましたわ、先生!」
私は、額に汗を滲ませながらも、達成感に満ちた笑顔で振り返った。
「ああ、さすがだな、アリア君」
先生は、心からの称賛と安堵の言葉を送ってくれた。
しかし、私は先生のその言葉に、どこか自信なさげな、そして少し不安そうな表情を浮かべた。
「…本当でしょうか? わたくし、文献がなくても…先生のお役に、少しは立てましたでしょうか…?」
私は、心配だった。
「文献」という虎の巻なしで行動したことへの不安と、先生からの評価を気にしている。
先生は――私のその不安を、どう思っているのだろうか。
◇
新たな通路の先には、さらに深く、そして未知なる気配が満ちている。
やがて、私たちの目の前に――強大な古代戦闘ゴーレムが、重々しい金属音を響かせながら迫ってきた。
その圧倒的な威圧感に、先生は額に冷や汗を滲ませた。
しかし、私は冷静にその動きを見極め、瞬時に弱点を発見した。
「先生! レティシアさん! あのゴーレムの右肩関節部の装甲、そこだけ僅かに接合が甘いですわ! あそこに集中的な衝撃を与えれば、内部の動力伝達系を破壊できるはずです!」
レティシアさんが即座に反応し、精密なエネルギーブラストでゴーレムの左腕の動きを牽制、同時に数体のプチアリアンズがゴーレムの足元に群がり、その巨大な機体をわずかにふらつかせる。
まさに千載一遇の好機!
私は、キラキラと期待に満ちた瞳で先生を見上げ、満面の笑みで言い放った。
「先生! ここまで完璧にお膳立ていたしましたので、あとは先生が、あの亀裂に渾身の『愛の一撃』を叩き込んで、チャチャッとやっちゃってくださいまし!」
先生は、私のあまりにも無邪気な要求に眩暈を覚えたようだった。
「ま、待てアリア君! まだ早い!」
「え? 早いとは、何がですの? これ以上の好機はありませんわよ?」
私は不思議そうに小首を傾げた。
先生は、苦し紛れに叫んだ。
「そ、それにだ! ここで俺が手柄を独り占めしてしまっては、君がいつも言っている『淑女の嗜み』というものが、おろそかになってしまうのではないか? 君のその…ええと、日頃熱心に研究している大変貴重な資料にも、そういった記述があったはずだろう?」
私は、先生の真剣な剣幕と、『淑女の嗜み』という初耳だが何やら高尚で重要な響きを持つ言葉に、目をぱちくりとさせた。
「……え? わ、わたくしが…『淑女の嗜み』、と…? そ、そうだったかしら…? う、うーん…わたくし、あの文献は何度も何度も熟読いたしましたのに…で、でも、先生がそこまでおっしゃるのでしたら、きっとどこかのページに、そのような重要な教えが記されていたような気も…しなくも…ないような…? 寧ろ、書いてありましたわよね、きっと!?」
私は、少し困ったように眉を寄せ、真剣な表情で先生を見つめた。
「でも先生…その…『淑女の嗜み』とは、具体的にどのような行動や心構えを指すのでしょうか…?」
先生の額からは、滝のような汗が流れ落ちた。
彼は、追い詰められ、もはや支離滅裂な言葉を口走ってしまった。
「そ、それはだな、アリア君! 非常に奥深く、そして崇高なものでだな…! そ、そうだ! と、とにかく、この門番を倒したら、その…俺にできることだったら何でも言う事を聞いてやろう! だから、今はまず、この危機を乗り越えることに集中するんだ!」
その瞬間、私の大きなアイスブルーの瞳が、信じられないほど大きく見開かれた。
みるみるうちに潤んでいく。
頬は、熟した果実のように真っ赤に染まった。
「……え? い、今…何と…おっしゃいましたの…? わ、わたくしに…な、何でも…言うことを聞いてくださる、と…? そ、そんな…ほんとうに…? ほんとうに、何でも、ですの…??」
私はゴクリと唾を飲み込み、震える声で、しかしどこか決然とした表情で言葉を紡いだ。
「で、では…い、言っちゃいますわよ…? よ、よろしいのですか…? あの、その…わたくしと…けけけけ…」
私は一度、大きく深呼吸をした。
そして、意を決して、先生の目を真っ直ぐに見つめ、はっきりとした声で言った。
「けっ…結構です!」
「…………え?」
先生は、一瞬、耳を疑ったようだった。
私は、自分の口から飛び出した言葉にハッとし、顔面蒼白を通り越して土気色になった。
「ああああああああああ! ち、違いますの! そうではなくて! わたくしは『結婚ですか?』と、先生のお考えをお伺いしたかっただけで、その、断ったわけでは決してなくて、むしろその逆で、あああ、もう、わたくしのバカ! お馬鹿さん! お馬鹿さんですわーっ!!」
私は頭を抱えてその場にしゃがみ込み、激しく自己嫌悪に陥った。
「わたくしのせいで…先生に誤解を…ああ、もうダメ…お嫁に行けない…」
私は、ぶつぶつと何かを呟き始めた。
その時、それまで猛威を振るっていた門番ゴーレムが、突然、ピガガガ…ガション…プスン…と奇妙な音を立て始めた。
そして、ゆっくりと膝から崩れ落ち、完全に機能を停止してしまった。
「……え? な、なんだ…? 今、一体、何が起こったんだ…?」
先生は、動かなくなったゴーレムと、床に蹲って「うぅ…先生に嫌われた…」としくしく泣き始めた私を交互に見比べ、そして力なく天を仰いだ。
レティシアさんが、いつもの冷静な口調で報告する。
【…原因不明ですが、対象エネミーの全機能停止を確認いたしました。アリア様の行動、及び発せられた音声パターンとの直接的な因果関係は、現時点では特定不能です。しかし、結果として脅威は排除されました。極めて…非論理的かつ効率的な勝利、と結論付けられます】
私は、床に蹲ったまま、「わたくしのせいで…先生に誤解を…もうお嫁になど行けませんわ…」と自己嫌悪の淵に沈んだままだった。
◇
【マスター、アリア様。対象エネミーの完全なる機能停止を確認。現時点において、この区画における直接的脅威レベルは0.01%未満と判断されます】
レティシアさんの冷静な声が、重苦しい空気を破った。
先生は、私のそばに膝をついた。
「アリア君…その、さっきのは…色々あったが、君の行動が結果的に俺たちを助けてくれたのは事実だ。それに、君の力はそんなものじゃないだろう? 顔を上げてくれ」
彼の不器用ながらも誠実な言葉と、目の前に開かれつつある未知の世界への入り口が、私の心をわずかに揺さぶった。
ゴーレムが守っていた重々しい石の扉が、先ほどの戦闘の余波か、ゆっくりと内側へ開き始めていた。
扉の隙間から漏れ出してくるのは、柔らかな青白い光と、微かな機械の駆動音、そしてこれまで嗅いだことのない、清涼で金属的な、それでいてどこか神聖な香りだった。
私は、吸い寄せられるようにゆっくりと立ち上がり、その光の先を見つめた。
「……これは……」
開かれた扉の奥に広がっていたのは、私たちの想像を遥かに超える光景だった。
地底深くに存在するとは思えないほど広大な、ドーム状の巨大空間。
壁面や天井は、見たこともない滑らかな金属で覆われ、そこを無数の青白いエネルギーラインがまるで血管のように脈動している。
空間の中央には、天を衝くかのような巨大な水晶の柱がそびえ立ち、その表面からは星屑のような光の粒子が絶えず放たれ、周囲を幻想的に照らし出していた。
「…すごい……これが、『古代の自動工房』…!」
先生もレティシアさんも、その荘厳で圧倒的な光景に息を呑んでいる。
しかし、誰よりもその光景に心を奪われたのは私だった。
先ほどまでの落ち込みが嘘のように、私の瞳はみるみるうちに強い輝きを取り戻し、技術者としての探究心と興奮で頬を紅潮させていく。
「まあ…! この壁面に使われている金属、未知の合金ですわ! なんという魔力伝導効率…! そしてあの中央のクリスタル…あれは単なる光源ではありません! 膨大な情報処理とエネルギー供給を同時に行う、複合型のセントラルコアに違いありませんわ! この光の粒子は…超高密度の情報伝達媒体…!? なんて素晴らしい技術なのでしょう!」
私は、まるで水を得た魚のように、あるいは長年追い求めていた理想郷にたどり着いた巡礼者のように、目をキラキラさせながら工房の内部へと足を踏み入れた。
その姿には、もはや「貴重な文献」を失ったことへの悲嘆も、言い間違いへの自己嫌悪も微塵も感じられない。
そこにはただ、純粋な知的好奇心と、未知への探求に燃える一人の天才技術者の姿があった。
そして――私は気づいていなかった。
先生が、そんな私の姿を――とても優しい目で――見つめていたことに。




