話12話:エルリックの工房と、衝撃の真実
エルリック様の隠れ家に転がり込んでから迎えた、最初の朝。
目を覚ますと、視界に入ったのは見知らぬ天井ではなく、煤けた石造りの梁だった。
埃っぽい空気。鼻をつく薬品と焦げた金属の臭い。
けれど、不思議と落ち着くのは、私が錬金術師の娘だからだろうか。
私は寝台の横に手を伸ばし、枕元の「宝物」を確認する。
蒼、紅、桃、紫、黒。
五色の表紙を持つ「バイブル」と、先生から借りた日本のファッション雑誌。
『これらがあれば、どんな逆境でも……先生攻略は完璧ですわ』
私は表紙を愛おしげに撫で、小さく頷いた。
この本たちこそが、私の自信の源であり、羅針盤なのだから。
身支度を整え、工房の作業場へと顔を出す。
「おはようございます、先生、レティシアさん」
「ああ、おはよう、アリア君」
作業台に向かっていた先生が振り返り、優しく微笑む。
その朝の光のような笑顔に、私の心臓は早鐘を打った。
『なんて……なんて爽やかな破壊力……! 今日も先生は素敵ですわ!』
平静を装いながら、私は今日の予定を口にする。
「まずは、レティシアさんのエネルギー効率を最適化して、それから小型ゴーレムの試作に取り掛かりたいのですが……」
言いながら、ふと工房の奥にある巨大な本棚に目が留まった。
無造作に詰め込まれた古書の中に、見覚えのある背表紙が並んでいる。
え……?
まさか。
私は吸い寄せられるように、その棚へ近づいた。
指先が震える。
間違いない。
私が18歳の時から、10年以上も穴が開くほど読み込み、研究し続けてきた、あの5冊のバイブルと全く同じ本が、そこにあった。
「エルリック様、こちらの書物は……?」
私の声は、上ずっていたかもしれない。
奥で蒸留器を調整していたエルリック様が、片目をつぶってこちらを見た。
「ん? ああ、それはワシが15年ほど前、王都で手に入れた珍しい本じゃ」
彼は懐かしそうに髭をしごく。
「確か、スヴェン殿下の5人の奥方様がたが執筆された、恋愛指南書の類じゃったかのう。あの方々、若く美しいだけでなく、才色兼備で有名じゃからな。王都では飛ぶように売れたもんじゃよ」
――時が、止まった。
スヴェン殿下の……奥方……?
スヴェン殿下って、あの?
私たちを執拗に追ってくる、あの殿下?
「まさか……!」
私は震える手で、棚の本を抜き取った。
『古代恋愛神話に学ぶ! 彼の心を永遠に繋ぎ止めるための秘術大全』
著者:スヴェン・アストリア殿下第三夫人、エリシア・ブルームハート
『英雄叙事詩に学ぶ! 彼の心を射止めるための決戦礼装大図鑑』
著者:スヴェン・アストリア殿下第一夫人、マリアンヌ・エクレール
『殿方を虜にするための日常的所作~着替え編~』
著者:スヴェン・アストリア殿下第二夫人、イザベラ・ローゼンクランツ
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
「これは……これはまさに、わたくしが成人を機に本格的に研究し始めた文献そのもの……!」
私の愛する、私の信じてきた、私のバイブル。
私の血肉となり、骨となっている教え。
それが――
先生を追い詰め、命を狙っている「敵」の妻たちが書いた本……!?
「アリア君……君が成人してから研究していたという文献は……」
背後から、先生の呆然とした声が聞こえた。
振り返ると、先生は信じられないものを見るような目で私を見ている。
「……はい」
私は消え入りそうな声で答えた。顔から火が出そうだ。
「全て、スヴェン殿下の奥方様がたの著作でしたの……わたくしが18の時、父の書斎で偶然見つけて以来、ずっと……」
『ああああああああああ!』
私は心の中で絶叫し、頭を抱えた。
あの際どい水着も。
あの「先生の好み」発言も。
あの着替えの仕草も。
あのお風呂での作戦も。
全部、先生を殺そうとしている男の、奥様直伝のテクニックだったなんて……!
「ということは……」
先生もまた、頭を抱えていた。
「君が今まで俺に仕掛けてきた……いや、実践してきたこと全部……敵の妻が書いた本に基づいているのか……!?」
その言葉に、私の乙女心(と研究者魂)がピクリと反応した。
待って。
冷静に考えましょう、アリア=セレスティア。
確かに、著者はスヴェン殿下の奥方様がた。
でも、本の内容が素晴らしいことには変わりない。
それに――
『これほど素晴らしい本を書ける女性たちが5人もいる殿下が、本当に先生を殺そうとしているのかしら…? 何か、誤解があるのでは…?』
私は、少しずつ立ち直った。
「敵だなんて! 先生ったら!」
私は思わず立ち上がり、反論していた。
「これは素晴らしい著作ですのよ!? 第三夫人エリシア様の『古代恋愛神話に学ぶ』なんて、愛の本質を神話的アプローチから解き明かした傑作で……!」
「いや、そういう問題じゃなくて!」
先生のツッコミが飛んでくる。
「君は敵……いや、殿下の妻が書いた恋愛指南書を信奉して、それを俺に試していたんだぞ!? しかも10年以上!」
「だって、内容が素晴らしかったんですもの!」
私は頬を膨らませ、マリアンヌ様の本を開いて見せた。
「第一夫人マリアンヌ様の『決戦礼装大図鑑』をご覧になって! 『身体の線が際立つ装いは、戦場における鎧のように、女性の最強の武器となる』……この一節に感銘を受けて、私はあの水着を……」
「だから! それが殿下の妻が書いた本だって言ってるだろ!」
先生は完全に混乱の極みにあるようだった。
その横で、レティシアさんが無表情に、しかし高速で何かを記録している。
【重要データを更新。マスターへの精神的負荷要因として、敵対勢力の配偶者が執筆した文献を、アリア様が長期間学習・実践していた事実を確認。人間関係の複雑性レベルを上方修正】
「ふぉっふぉっふぉ、こりゃ傑作じゃ!」
エルリック様が腹を抱えて笑っている。
「ライナスの娘が、スヴェン殿下の奥方様がたの信奉者じゃったとは! ライナスが生きておったら、泡を吹いて倒れるかもしれんのう!」
「エルリック様まで……!」
私は唇を尖らせたが、ふと冷静な思考が戻ってきた。
待って。
これほど愛に溢れ、男性心理を深く理解した本を書ける女性たちが、5人も妻にいる。
そんな殿下が、なぜあそこまで先生を目の敵にするの?
「でも、不思議ですわね……」
「何が?」
「これほど素晴らしい著作を書かれる奥方様がたです。その夫である殿下が、なぜ理不尽に先生を……」
私の疑問に、先生もハッとしたように表情を引き締めた。
「確かに……。奥方たちがこれだけの知性と愛情の持ち主なら、その伴侶である殿下も、本来は話せば分かる人物のはずだ」
「ふむ、それはのう」
笑い収めたエルリック様が、意味ありげに口を挟む。
「殿下と奥方様がたの間には、色々とあるらしいぞ。ワシが聞いた噂では、殿下は妻たちに頭が上がらんとか、逆に奥方様がたが『あの方は思い込みが激しすぎるのが玉に瑕』と嘆いておられるとか……」
「思い込みが激しい……?」
先生が顎に手を当て、考え込む。
第1話での出来事――通信妨害、「30秒後に召喚」という改竄された通知。
そしてスヴェン殿下の「3時間前に送ったはずだ!」という悲痛な叫び。
「もしかして……殿下も、誰かに騙されている……?」
先生の声色が、鋭い分析官のものに変わった。
「もし、殿下と奥方様たちの関係に亀裂があるなら……あるいは、誰かがその亀裂を利用して、俺たちを対立させている可能性もある」
「『陰謀』……ですか?」
「ああ。黒幕は……おそらく奥方様たちの著作すら悪用できないほど、王家の中枢に近い存在だ」
工房の空気が、ピリリと張り詰める。
私の「恋のバイブル」が、まさか世界の命運を左右するヒントになるなんて。
「マスター、提案があります」
レティシアさんが静かに進言する。
「この事実は、今後の戦略的優位性につながる可能性があります。スヴェン殿下の奥方様がたは、アリア様のような熱心な『読者』の存在を好意的に捉える確率は98.7%。いずれ接触できれば、殿下との誤解を解く強力なチャネルになり得ます」
先生が大きく頷いた。
「……確かに。この情報は切り札になるかもしれない。覚えておこう」
「先生!」
私は目を輝かせて、先生に詰め寄った。
「わたくし、いつか必ず奥方様がたにお会いして、お礼を申し上げたいですわ! そして、先生の誤解を解いていただけるよう、直談判いたします!」
「あ、ああ……。その日が来ることを、俺も願っているよ」
先生は少し引き気味に、でも優しく頷いてくれた。
私は、5冊の本を改めて胸に抱きしめた。
『奥方様がた……素晴らしい教えを、ありがとうございます……!』
敵の妻が書いた本。
その事実は衝撃的だったけれど、不思議と嫌悪感はなかった。
むしろ、「愛する人を振り向かせる」という一点において、私たちは同志なのかもしれない。
『これからも、参考にさせていただきますわ……! 先生を、完全に陥落させるその日まで!』
私が新たな決意を燃やしていると、エルリック様が手を叩いた。
「さて、小娘。そのバイブルとやらを崇めるのもいいが、三日後の作戦準備も忘れんでくれよ」
「あ、はい!」
私は慌てて現実に意識を戻した。
今は、闇市場への潜入準備が最優先だ。
レティシアさんのボディ強化。
潜入用の魔道具作成。
そして、万が一のための脱出ルートの確保。
やるべきことは山積みだ。
けれど、私の心の中には、今まで以上の希望が灯っていた。
5冊のバイブルの真実を知った今、私の「先生攻略作戦」は、単なる恋愛遊戯を超え、世界を救う鍵になるかもしれないのだから。
『計算通り…いえ、計算以上ですわ…!』
私は、ニヤリと微笑んだ。
――作戦決行まで、あと三日。




