忘れられた悪役令嬢はすでに
よくある話だった。
真実の愛を見つけた王子と男爵令嬢の恋路の邪魔をした公爵令嬢は物語の悪役令嬢のようだと言われ、断罪された。
この国で起きたそんな出来事も、よくある話だと忘れられてしまうのだった。
『おまじないだ。まだ未完成の魔法だけど……きっと君を守ってくれる……そして、またいつか……僕と……』
夢を見た。
ジュリエンヌは深い眠りに就きすぎた気がする。そろそろ起きなくては…………
◇◆◇
「なんで誰もわたくしのことを覚えていないのかしら……?」
そんな呟きが王宮の中庭の奥から聞こえた。
この時間、ここには誰もいないはずなのに誰かいる。マティアスは声の主を確認するため足を進めた。
ガサリ──マティアスが枯れ葉を踏む音に人の気配を感じたのか、きらきらと輝く金色の長い髪がふわりとなびく。
「っ……!」
秋空の柔らかな日差しを浴びながらこちらを向いた美しい女性。意志の強そうなアメジストの瞳に一瞬で見惚れた。
「殿下っ!」
彼女はマティアスを見て、安堵の表情をした。
「君は……?」
彼女はマティアスを知っているようだが、マティアスは彼女を知らない。
「殿下も……わたくしを忘れてしまったのですね……」
彼女は悲しそうに眉尻を下げ「失礼しました」と踵を返す。
「待って……!」
彼女の腕を掴んで引き止める。
「お、思い、出すから……」
何か大事なことを忘れている。
でも思い出せない。
「……………………ヒ、ヒントを……」
クイズの答えを考えるような言い方になってしまった。彼女はそれを聞きクスクスと笑う。
「では……」
彼女は少し考えてから話し出す。
「こちらの花壇には春になると毎年彩鮮やかなチューリップが咲きます。今この土の中には何が入っているでしょうか?」
「え……? …………球根……?」
王宮の中庭に咲くチューリップは種から育てるには時間がかかるので、毎年この時期に球根を植え付けている。
マティアスが答えると彼女はにっこり微笑む。どうやら正解だったらしい。
「きゅう……こん……?」
「あんなに熱烈でしたのに……」
頬に手を当て、コテリと首を傾げ困ったように小さく笑う。
「っ……! ジュリエンヌ!?」
彼女はマティアスが一目惚れをして、衝動的に求婚した公爵令嬢のジュリエンヌだった。
「やっと思い出してくださったわ」
嬉しそうにジュリエンヌが笑う。
「久しぶりだな! ジュリエンヌ」
あれだけ恋焦がれた彼女をなぜ忘れられていたのか、と不思議に思う。
マティアスはジュリエンヌと同い年。十五歳の学園入学前に王宮で開催されたガーデンパーティーで知り合い、マティアスは美しい彼女に一目惚れをした。
公爵令嬢である彼女には、婚約者候補がいたようだが、王太子であるマティアスが人目のある中で求婚したことで、マティアスとジュリエンヌの婚約が決まった。
「時間はあるかい? 茶を用意させるから少し話そう」
「はい」
マティアスは出入り口にいる侍従に中庭の四阿に二人分のお茶の準備をするよう指示を出す。
すぐにお茶と茶菓子の用意ができ、二人はテーブルに着く。
「卒業以来だな、元気にしていただろうか?」
「はい。殿下は……ちょっとお疲れでしょうか……?」
「ああ、君にはやはりわかってしまうか……そうだね。リリーシアのことでね……」
毎日執務で忙しく、ゆっくりと眠る時間が取れないのだ。もう少しリリーシアが自分の手伝いをしてくれればと思ってしまう。
「リリーシア様……ですか……」
男爵令嬢の名前を聞いてジュリエンヌが目を伏せる。
「あ、すまない。無神経だったね……」
「いえ……いいのです……」
ジュリエンヌとの出会いの後、入学した学園に途中編入してきた男爵令嬢リリーシアの存在によって、マティアスとジュリエンヌの関係にヒビが入る。
貴族令嬢はみな、髪を手入れし伸ばすもの。
だが、男爵家の庶子であるリリーシアは少し前まで市井で暮らしており、肩口でバッサリと切られたふんわりとしたピンクベージュの髪が人目を引いた。
また、彼女は天真爛漫で快活だった。前世の記憶を持つと言った彼女は、不思議な知識を持ち合わせ、食堂での火災や、学園に入り込んだ不審者への対応など、学園内での出来事にいち早く最善の方法で対処し、教師を含め皆が彼女に一目置いた。
また身分差を気にせず正論を述べる様はマティアスの目に魅力的に映り、マティアスは彼女を生徒会に引き入れた。
淑女として完璧な公爵令嬢では面白みがない。そう考えだしたら止まらなかった。
それからマティアスとリリーシアの距離は一気に縮まり、マティアスは卒業パーティーの日にジュリエンヌと婚約破棄をした。
――あれ……? そのあとはどうなったのだったか…………?
今ではリリーシアがマティアスの婚約者となったのだが、どういう経緯でそうなったのか詳細を考えようとすると思考がまとまらない。
「ところで、リリーシア様はお元気でしょうか?」
「ああ。元気だよ。元気があるのに、王太子妃教育は受けたくないと言っている。侯爵家の養女となる手続きだって済んでいるのにこのままでは……。それに執務だって……」
マティアスの執務は、ジュリエンヌが婚約者だったときには彼女が手伝ってくれていた。分厚い報告書も要点をまとめた紙が一番上に付いていたし、何かの議事録であっても、関連する資料を一緒にまとめておいてくれていた。
でもリリーシアはマティアスの執務を理解しようとしないし、手伝うなんてもってのほかだ。
「生徒会にいたころは、文化祭ではこんな衣装を着てこんな出し物がしてみたいと楽しそうに企画を練っていたのに……。彼女は今では、次の夜会はいつだ。お芝居にはいつ連れて行ってくれる。今度のパーティーではこんな衣装が着たいと、そんな話ばかりで……」
リリーシアへの愚痴が止まらない。
「殿下、お茶。少し熱めのものに入れ替えましょうか?」
「っ……! ああ。ありがとう」
ジュリエンヌがぽうっと魔法でティーポットの中の紅茶を温め、置いてあった新しいティーカップに注いでくれた。
「ふう」
一口飲むと心が落ち着く。
「ジュリエンヌは魔法が得意だな」
「ええ。昔は魔法学院へ入るつもりで勉強しておりましたので」
ジュリエンヌがテーブルの中央にある花瓶に手をかざすと、蕾んでいた花がパアアッと明るく開く。
この国の人間はみな魔力を持っており、魔力を魔法道具に流して便利な道具で生活する。
その中でも魔力を魔法道具なしで使える者が存在する。そういった者は魔法学院で魔力をコントロールする術を学び魔術師として生きていくものが多い。
彼女は魔法学院へ入るつもりだったようだが、マティアスと婚約したので、魔法より政や社交の学べる貴族学園へと入学した。
マティアスも少し魔法が使えるが、魔術師になるほどの才はない。
「学園交流のために見学に行った王立魔法学院の文化祭はすごかったですね」
話題を変えてくれたのですぐに返事をする。
「ああ。光の魔法で色とりどりにホール全体を包み込む最後の演出など、目を見張るものがあったよ」
「あれはたしか私たちと同じ年の学生が発案したと……」
「そう。ビガルド公爵家の令息の発案で、彼は魔術師としての才も目覚ましいものだったから、王宮魔術師として宮廷に上がってもらうことにしたんだ。彼はきっといい魔術師になる」
「殿下の慧眼。すばらしいですわ。わたくしもそう思います」
ジュリエンヌがうっとりとした表情でマティアスの話を聞くので、気分が良くなる。
「最近では初等部でも魔法の基礎を学ばせて、魔術師の才のあるものは早くに魔法学院に入学できるようにと取り組んでいるのだよ」
「まあ、素敵ですわ。それならマイク・ボーグストン氏の魔法入門などを参考にカリキュラムを組むと」
「なるほど。私も君に進められたあの本で魔法の基礎を学んだからな」
彼女は何を話しても楽しそうに聞いてくれるので饒舌になる。
リリーシアとではこうもいかない。
彼女はアクセサリーを贈ったり、ドレスを新調したりする話では楽しそうにするが、国の未来や国民の展望についての話になると途端につまらなさそうにするのだ。
学園時代、リリーシアはこれから起こり得る事件に対し事前の対策など一生懸命に講じてくれたが、今では「ゲーム終了後の未来のことなんてわからないわ」と意味の分からないことを言って、国の未来を考えようともしない。
今のリリーシアとの会話など不毛なもの。ジュリエンヌとの会話の方がよっぽど生産的だ。
国の今後についてなど、ジュリエンヌと議論を交わしていると、だんだんと辺りが薄暗くなってきた。
「ああ。もうこんな時間か……。ジュリエンヌ、また明日も話せるかい?」
「ええ。またここでお待ちしております」
それからマティアスは毎日中庭に足を運んだ。ジュリエンヌとの会話が楽しかった。
彼女との時間を取ろうとすると必然的に執務が押されるため、睡眠時間がどんどん削られるが、それでも彼女との時間が活力になるから平気だった。
◇
「最近、私との時間を取ってくださらないと思ったら、こんなところにいたのですね!」
マティアスがジュリエンヌと中庭で茶会を楽しんでいるとリリーシアがやってきた。
「今日の教育は終わったの?」
マティアスが確認をすると、前の生徒の方が教えやすかったと非難されたので、腹が立って抜け出してきたと言う。
「そんなことより私も一緒にお茶にさせてください!」
「はあ」
彼女が王太子妃となると思うと先が思いやられる。
――学園時代はもっと一生懸命で勤勉だったと思うのだが……
「ごきげんようリリーシア様」
ジュリエンヌが立ち上がって挨拶をした。
彼女の礼はとても美しい。所作も身のこなしも、完璧で、教師からの評判もよかった。
彼女が王太子妃になってくれたら、と思い始める。
一方ジュリエンヌに挨拶をされたリリーシアは……
「…………」
無反応。ジュリエンヌの方を見ようともしない。
「おい、リリーシア。ジュリエンヌが挨拶をしているのだから無視なんてするなよ」
「え? ジュリエンヌとは……? 挨拶って何のことです?」
「っ……! リリーシア様……」
リリーシアの反応にジュリエンヌが俯いた。リリーシアは徹底してジュリエンヌを無視しようとしているようだ。それを見てマティアスもカッとなる。
「君がそんなに性格の悪い女だったなんて知らなかったよ。君といると気分が悪くなる出て行ってくれ!」
「マティアス様っ……!」
「殿下、良いのです。私は構いませんから」
立ち上がって怒鳴るマティアスを宥めるようにジュリエンヌが言うが、怒鳴られて驚いたリリーシアは肩をびくりと揺らして涙目になる。以前は庇護欲をそそられたその表情も今では忌まわしく見えてしまう。
「リリーシア、教育を修了するまで顔を見せないでほしい」
「ひどい……!」
すぐにリリーシアは出口に向かって走り出す。
「殿下……よろしいのですか?」
「いいさ。なんで彼女と婚約してしまったのか……」
以前はよくリリーシアが「ジュリエンヌに無視された」と泣きついてきたが、今日の出来事を思うと無視しているのはリリーシアの方で彼女の言うことは真実だったのか疑わしく思う。
君と婚約破棄をしたことを後悔してると言えばジュリエンヌは何と言うだろう。そんなことを考えハッとした。
「そうか。もう一度ジュリエンヌと婚約すればいいのか」
「えっ!?」
ジュリエンヌが驚いた顔をする。
「善は急げだ! 先に陛下から許可を取ろう!」
マティアスは「行こう」とジュリエンヌの手を取り、中庭を出る。
父王はこのあと謁見が控えているはずだから謁見の間にいるはずだ。
「陛下! 私に少し時間をください」
「慌ただしい。何事だ、マティアス」
謁見の間で玉座に座る父王の前で跪く。
「母上もいらしたのですね。ちょうどいい。ぜひご許可をいただきたいことが!」
「許可?」
マティアスはとてもいいことを思いついたと言わんばかりにニコニコと笑顔で話し出す。
「はい! ジュリエンヌと再度婚約を結び直したいと考えており、ご許可をと」
「は……?」
父王の目が点になる。
「お前……婚約者であるリリーシアのことはどうするのだ……」
「リリーシアはダメです。陛下も母上も彼女の噂はすでにお耳に入っていますでしょう? 王太子妃教育もまともに受けられず、侍女やメイドにはわがまま放題で、王宮内の評判は最悪です。最近では護衛騎士に色目を使っているという報告も聞いております。リリーシアは王太子妃の器ではありません。彼女とは婚約破棄します」
父王が顔を顰めながら「それで」というので、マティアスは話を続けた。
「はい。今私の隣にいる彼女、ジュリエンヌ──ジュリエンヌ・ローゼッティ公爵令嬢と婚約を結び直したいのです。ジュリエンヌなら、王太子妃教育も修了しておりますし、公務の理解もあって、私の執務の手伝いも完璧です。何より公爵家の令嬢という身分もあるので私とは釣り合いが取れているかと」
マティアスはすっきりとした気持ちでそこまで一気に話し切る。
だが、父王は顔を顰めたままで、母は真っ青な顔で口元を押さえて震えていた。
何もおかしなことを言ったつもりはないのに、二人の表情はすっきりしない。
「マティアス……お前の隣というのはどこのことをいう? 隣の部屋のことか? それとも王宮の隣にある建物のことか?」
「は? 私の隣と言ったら、すぐ真横のことでしょう!」
マティアスが言い切ると、母はさらにガタガタと震え「いや……やめて……」と呟きだす。
「どうか、しましたか?」
二人の反応があまりにもおかしい。
「どうかしているのはお前だ」
「え?」
「お前の真横、右にも左にも誰もおらぬ。公爵家の令嬢だったジュリエンヌ・ローゼッティはお前が断罪して三か月前に死罪で処刑したではないか」
「え」
時が止まったようだった。
「誰が……誰を……処刑した、と……」
「だから、お前が、ジュリエンヌを、処刑しただろう」
一言一言刻むように告げられ全身から血の気が引く。では一体自分は誰を隣に連れてきたのだろう。
重たい首を横に動かす。
マティアスの視線の先には誰もいなかった。
「お前が断罪したんだ。ジュリエンヌ・ローゼッティは人を雇いリリーシア・ギルバルを暗殺しようとした。さらには姦通の証拠が見つかり、結婚前とはいえ、父親のわからない子を孕んだ状態で王家に嫁がれでもしたら、王家はカッコウの卵を育てることになる。彼女のしたことは国家反逆罪に値する。よって死罪に処す、とお前から報告を受け私はそれを認めたが?」
父王の言葉に大きく目を見開いた。マティアスは辞去の挨拶もなく、慌てて中庭に舞い戻る。
「ジュリエンヌ……! ジュリエンヌ……!」
庭中を探し回ってもジュリエンヌはどこにもいない。
――彼女でないと……私の隣に立つのはジュリエンヌでないと……
暗殺? 姦通? 彼女はそんな女性じゃない。美しく聡明で、マティアスの隣に立つに相応しい……
今さら何を思っても彼女はもういない。
なぜなら、マティアスが彼女を────。
胃の奥から苦いものがせり上がる。
ニコリと美しい笑顔で微笑む彼女の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
「ジュリ、エンヌ……ジュリエンヌ……うぐぅっ、ジュリ……うぁああああああわああああーっ!」
『マティアス様。これは嫌なことを忘れられるアイテムです。心優しいあなたにはつらい体験だったと思います。これを飲んで』
そうだ。ジュリエンヌ処刑後、気持ちがスッキリしなかったから、今さらだが再捜査をしようと考えたとき、リリーシアに忘却の薬を飲まされたのだ。
ジュリエンヌの罪の証拠はリリーシアが集めてくれた。リリーシアは今、部屋にいるだろうか。
彼女の部屋をノックもなしに開けようとしたが鍵が掛かっていて開かなかった。
ドアノブに手をかけ魔力を流す。マナー違反だが、今マティアスは冷静ではいられなかった。
ボンッと小さな爆発音がして扉の鍵が壊れた。マティアスは魔術師になるほどの魔法の才はないが、これくらいの破壊魔法は使える。
ゆっくりと部屋の奥へと足を進める。
くすくすと笑いあう男女の声が聞こえた。すぐそばのソファには誰もいない。これ以上奥には寝台があるだけ。マティアスはさらに足を進めた。
「リリーシア……」
「っ!? マティアス様っ!?」
声をかけると彼女は寝台の上でリネンを引っ張り胸元を隠すようにして、驚きに目を見開いていた。
肩は丸出しで、リネンの下がどういう状態なのかは想像に容易い。
「ん……リリーシア……まだ時間はあるだろ……? それとももう一回……?」
相手は護衛騎士だろうか。寝ぼけているのかマティアスに気づかずリリーシアの身体に腕を巻き付ける。
「え、なんで……かぎ……」
鍵をかけたはずなのに、と言いたそうだったので「鍵は壊した」と説明した。
「リリーシア、知ってるかい? 王太子の婚約者が姦通すると国家反逆罪で死刑となるんだ」
「これは……、ちが……」
「何も違わないさ」
リリーシアはガクガクと震えていたが、マティアスは別に驚きもしなかった。ああ、やっぱり。そんな気持ちだった。
「実際に処刑された悪役令嬢だっていたんだ。君も同じ道を辿るだけ」
「っ……!」
リリーシアの顔色が青に変わっていく様を、マティアスはただ無表情で眺めた。
◇◆◇
『私には前世の乙女ゲーム攻略の知識があるんです。だから悪役令嬢のジュリエンヌ様には絶対に負けません』
リリーシアの言った言葉の意味が分からなかった。
『私は真実の愛を見つけた! ジュリエンヌ、君とは婚約破棄だ!』
マティアスがそう宣言したときはようやく解放される。そんな気持ちだった。
ジュリエンヌはマティアスと婚約する前、別の婚約がまとまりそうだった。
臣籍降下した王弟が当主であるビガルド公爵家の嫡男セルジュ・ビガルド。
彼は魔法が得意で、魔法好きのジュリエンヌとは気が合った。よくセルジュの研究室に遊びに行き、二人で新しい魔法をいくつも考えた。
『ジュリエンヌ、魔法学院に入学したら、二人でアッと驚くような魔法を作りだそう』
『ええ。入学が楽しみだわ。セルジュ』
ジュリエンヌにとっては初恋だった。
お互い口にはしなかったが、セルジュとは確かに想い合っていたと思う。魔法学院入学前に婚約がまとまるように両親たちは話を進めてくれていた。
だが、それも十五歳のときに参加した王宮のパーティーで事態が変わる。
ジュリエンヌを見初めた王太子マティアスが何の根回しもなくジュリエンヌに求婚してきたからだ。
しかもその場を取り仕切っていた王妃であるマティアスの母が「素敵ね! この場で婚約としましょう」と勝手に事を進めてマティアスとジュリエンヌとの婚約が成立してしまった。
国王は折り合いの良くない弟のビガルド公爵家に、古くから続く名家ローゼッティ公爵家の娘が嫁ぐことをよく思っていなかった。だからマティアスの求婚を好都合とばかりに利用しさっさと婚約をまとめてしまった。
こうしてジュリエンヌの初恋は叶わず、セルジュと一緒に魔法学院へ入学する道は断たれ、マティアスと同じ貴族学園へ入学することになった。
ジュリエンヌは自分の気持ちを押し隠しマティアスの婚約者として正しくあろうと振舞った。
マティアスに話を合わせ、マティアスの役に立つよう努力した。
恋愛感情こそなかったが、ジュリエンヌにまっすぐ好意を伝えてきたマティアスに対して悪い印象はなかった。
だからジュリエンヌはこのまま穏やかな関係を築いて結婚を迎え王太子妃になるのだと思っていた。
だが、学園二年目に編入してきた男爵家の庶子であるリリーシア・ギルバルによって関係が変わる。
リリーシアは不測の事態を予想するのが上手かった。起こる事件を先回りし、解決へと導くことで、マティアスの目に留まった。彼女に興味を示したマティアスは、彼女を生徒会に入会させた。
また、彼女は高位の貴族令息の心を取り込むのが上手く、マティアスをはじめとする学園の中心となる貴族令息はみなリリーシアの取り巻きのようになっていく。
わかりやすくジュリエンヌからマティアスの心は離れていった。
マティアスとリリーシアの関係が噂になるとジュリエンヌは婚約者の義務として、二人に苦言を呈した。「そういうことをするのなら、わたくしとの婚約を解消してからにしてください」と。
至極真っ当なことを言ったはずなのに、マティアスはジュリエンヌを鬱陶しそうにし、リリーシアはジュリエンヌを見て涙目でマティアスにすり寄った。
そして、なぜか学園内でジュリエンヌは恋仲の二人の邪魔をする悪役令嬢に仕立て上げられた。
何をしても、どう反論しても、リリーシアの言葉通りジュリエンヌは悪役令嬢となってしまう。運命からは抗えないらしい。
マティアスの断罪劇が始まったとき、ジュリエンヌは抵抗をやめた。
噂によるとリリーシアは金脈を掘り当て王家に献上したという。きっと王家の意向もリリーシアの手中にある。
ジュリエンヌは自分の冤罪を晴らすことよりも家族に被害が及ばないよう、こっそりと父へ念話を送った。
急いでローゼッティ公爵家からジュリエンヌを義絶するよう話をする。嘘でいいから、周りの者にはローゼッティ公爵家内ではジュリエンヌは疎ましい存在であったと話をしてほしい、と。
家族がジュリエンヌを庇おうものなら連座して両親も弟もみな処刑されてしまう。それだけは絶対に避けたかった。
過去を思い出していると、懐かしい場所に辿り着いていた。
マティアスと婚約する前はよく通った研究室。
「なんか頭がすっきりしないなぁ……」
彼は最後に聞いた声よりも少し低い声で呟き、癖のある黒髪をがしがしと掻いて、ひたすら術式を描き殴っていた。
今でも新しい魔法を考えているのだろう。どんな魔法だろうかとわくわくした心地で彼の手元を覗き込む。
「この術式を入れ替えてみると……」
ひとりでぶつくさ呟きながらああでもない、こうでもない、とペンを走らせていた。
「こっちと術式を入れ替えてみたらどうですか?」
「っ!?」
ジュリエンヌが口を出すとバッと彼は顔を上げて驚いた表情でジュリエンヌを見た。
「あれ……セルジュ……あなたもわたくしを忘れてしまった……?」
マティアスと婚約してからは顔を合わせていなかったので仕方がないかもしれないが、忘れられてしまったと思うと悲しい。
「忘れるわけないだろう! ……ジュリエンヌ! 僕はずっと君に会いたかった」
「よかった」
彼の反応にジュリエンヌはホッと安堵の表情をした。
「でも……こんなところへ来ていても大丈夫なのか?」
最後にセルジュと別れたとき、王太子と婚約することになったからもう会うことは叶わないと説明していた。
「あ……大丈夫。もう……婚約破棄になったから」
「そう……そうか。そうだったね。そういえばそんな話を聞いた気がする」
マティアスと会話をしていたときも思ったが、みなジュリエンヌの現状把握が曖昧だ。
それはマティアスやセルジュに限らず、ジュリエンヌ自身にも言えている。自分のことなのに今どうして自分がここに存在しているのかいまいち理解できない。
「あっ、じゃあ、ジュリエンヌ! 今、早く完成させたいと苦労している未完成の魔法があるんだけど、一緒に考えてくれないか?」
セルジュに言われてジュリエンヌはパッと顔を明るくした。
「ええ。任せて!」
それから二人で何度も術式を組み替え魔法を試しながらセルジュの考える魔法を完成させようと励んだ。
「そろそろお腹が空いたよな。侍従に言ってジュリエンヌの食事も用意させるからあとで一緒に食堂へ行こう」
「あ……」
ジュリエンヌは言葉を詰まらせた。
「わたくし、お腹空いていないから……えっと、セルジュは気にせず食事に行ってちょうだい。その間にわたくしはこちらの術式考えるから」
「そう? わかった」
それからセルジュは食事に抜けて、ジュリエンヌはその間もセルジュの考える魔法を完成させるべく試行錯誤した。
「ねえ、セルジュ。わたくし、この術式に似たものを以前に王立図書館の文献で見たことがあるの。そう……たしか、ルーン・ガイザー氏の治癒魔法術応用理論……」
「ああ、ルーン・ガイザー氏の! たしかに治癒魔法から術式のヒントを得て考えた魔法だから、彼の研究とも被っているところがありそうだ」
ジュリエンヌの示唆が完成の糸口の一つになると良い。
「今日はもう遅いからこれくらいにして、明日一緒に図書館へ行って彼の文献を片っ端から読み漁ってみようか」
セルジュに言われてジュリエンヌは表情を暗くする。
「わ、わたくしは……行けないわ……。こ、ここで待ってても良い?」
なんとなく研究室から出てはいけない気がした。
「え……あ……うん。そうだね。じゃあ、ジュリエンヌはここで待ってて……」
「今日もセルジュはもう部屋に戻って休んでね。わたくしは……ここにいさせて……」
「う、うん……」
セルジュも違和感を覚えただろう。
だっておかしい。お腹も空かないし眠くもならない。こんなにも長く屋敷に帰っていないのに誰もジュリエンヌのことを心配しない。
でもその違和感の答えを見つけてはいけない気がした。
「ジュリエンヌ! 君の言うとおりだった! 治癒魔法の応用理論にある術式をここに当てはめれば!」
セルジュが術式を描いて魔力を流すと魔法が広がる。キラキラと綺麗な魔法。
「これで一気に進んだわね!」
「ああ、すごいよ! ジュリエンヌ」
セルジュの嬉しそうな顔を見てジュリエンヌの心は甘く切なく締め付けられる。
「あ……ジュリエンヌ、僕明日はここへ来ることができないんだ」
申し訳なさそうに言われた。
「そう、何かあったの?」
「いや……母方の従兄が結婚するからパーティーに呼ばれてて……」
「結婚……」
背中に嫌な汗が伝う。
マティアスとの婚約が破棄となった今、ジュリエンヌを縛るものは何もない。
ジュリエンヌもいつかするはずの結婚が、今では現実味のない言葉に聞こえる。
「ジュリエンヌ……そんな顔をしないでくれ」
「あ」
「僕と……!」
「え?」
僕と、とは?
「僕と結婚してくれ。ずっと君のことが好きだったんだ。だから……」
「っ……! セルジュ……」
欲しかった言葉を言ってもらえてジュリエンヌの目から涙が溢れ出る。
「ジュリエンヌ……! 君が好きだ」
腕を引き寄せられて抱きしめられた。
「うん……! セルジュ。わたくしも……わたくしもあなたが好き。あなたと結婚したいわ」
セルジュの温かい背中を抱きしめ返す。
翌日セルジュは研究室へ訪れなかったが、その次の日には来てくれた。
そして彼は使用人に食事を研究室へ運ぶようにと指示をし、ほとんどの時間をジュリエンヌとともに研究室で過ごすようになった。彼は睡眠もソファでとる。
ジュリエンヌは「寝台で寝ないと健康に良くないわ」と諭したが、セルジュには「少しでも君と一緒にいたいんだ」と言われた。そして彼は湯浴み以外の時間をジュリエンヌと過ごした。
ただひたすら魔法を研究して同じ時間を過ごす。
ジュリエンヌは彼と一緒に居られて幸せだった。
――このままずっと魔法が完成しなければ……
いつしかそんなことまで思うようになってしまった。
◇
「か……完成だーっ!」
「やったわね! セルジュ」
ずっと二人で研究していた魔法がとうとう完成した。
寂しい気持ちもあるが、喜ぶ彼を見ると完成してよかったと思う。
「時間魔法がキーになってることに気が付いたのが決め手だったな!」
「あの術式を見たときにもしかしたらって思ったのよ」
二人で完成した術式を眺めながら完成までの苦労を語る。
「次は発動だ」
室内で発動できるような魔法ではない。
「ジュリエンヌ……一緒に……」
外へ行こうと言うのだろう。だが……
「わ、わたくしは行かないわ」
「でも……」
「ここに居られればわたくしは幸せなの。ここでならいつまでも幸せでいられる」
外へ出ればまたマティアスの前から消えたときのようになるのだろうと想像できる。
ジュリエンヌが幸せで居られる場所はこの箱庭しかないのだ。
「魔法は完成したんだ。僕は君をここ以外でも幸せにしたい……」
「だって……セルジュ……あなた気づいているんでしょう……? わたくしはここを出たら消えちゃうの」
ジュリエンヌの言葉にセルジュはくしゃりと顔を歪める。
「わたくしは国家反逆罪で死罪になって処刑された……」
「っ……! それは……冤罪だ……!」
「でもっ……もう半年も前に刑は執行されてるの! 魔法道具の処刑椅子に座らされて王太子殿下が魔力を流したのを覚えているわ。身体中を雷撃が駆け巡ってわたくしの心臓は止まった。あのとき間違いなくわたくしは死んだの!」
不鮮明だった自分の死だって思い出してしまった。
セルジュは奥歯を嚙みしめるようにしてジュリエンヌの話を聞いていた。
「わたくしはここでしか……わたくしではいられない。ずっと……あなたと一緒にいたいの……。セルジュ、あなたを愛しているの。結婚してくれるって言ったじゃない」
「だからだ!」
セルジュが語気を強めてジュリエンヌはびくりと肩を揺らした。
「いつまでもここにはいられない。ここから出て現実と向き合わないと……」
腕を引っ張られてずるずると扉へ向かわされる。
「いや……! いやよ……いや……!」
セルジュがジュリエンヌの腕を掴んだまま扉を開いて一歩外に出た。
「ジュリエンヌ、少しの間お別れだ……」
「いやっ、いやぁぁぁあぁ……!」
研究室から引きずり出されてジュリエンヌは闇に包まれた。
――ああ、やっぱり……
ジュリエンヌは死んでしまっているのだ。あのまま、研究所で過ごすことができれば幸せなままでいられたのに。無理やり外へと連れだしたセルジュが恨めしい。
ジュリエンヌの周りはどこまでも真っ暗な闇だった。
――セルジュのばか……
心の中でセルジュへの悪態をついていると、柔らかな光が差し込む。
やはりジュリエンヌは深い眠りに就きすぎた気がする。そろそろ起きなくては…………
ゆっくりと目を開ける。
土の匂いを感じて驚いた。長いこと匂いなど感じていなかったのに。
目を開けた向こうは暗闇ではなかった。明るい。
セルジュと完成させた魔法が陣を作ってキラキラと光っていた。
「ジュリエンヌ……!」
ジュリエンヌを覗き込む顔を見て目を丸くする。
「セルジュ……?」
セルジュは「ああ」と言って目を細める。
ぎゅうっときつく抱きしめられ、彼のぬくもりを感じた。
「わたくし、またオバケになってしまったのかしら……?」
王宮の中庭にいるときも、セルジュの研究室にいるときも、普段のドレス姿だったのに、今は幽霊のような白装束をまとっている。
「オバケじゃない」
「え? では……天国?」
地獄に落ちるような、非道なことはしていないと思う。
そんなことを思っているとお腹が小さくクゥと鳴る。
「まあ」
本来ならば恥ずかしがるべきことなのだが、お腹が空いたなんて感覚が久しぶりすぎて羞恥など感じなかった。
「牢屋で碌なものを食べさせてもらってなかったんだな、可哀そうに。これからはめいっぱい美味しいものを食べさせてやるから」
「天国の食事は楽しみだわ」
「ああっと……ジュリエンヌ、ここは天国じゃないからな」
きょろきょろと辺りを見回す。
「墓地……?」
しかも自分は棺桶の中にいるようだ。
「君が処刑となったとき、僕は隣国に魔術留学していて、処刑となった話は後から聞いて……すまない。あのとき君の冤罪を晴らして助けられたらこんな辛い思いをせずに済んだのに……」
セルジュが悔しそうに拳を握りしめている。
「そんなの……」
仕方がないことだと思う。自分ですら冤罪だと訴えることを諦めてしまったほどなのだから。
「十五のとき、最後に僕がジュリエンヌに掛けた未完成のおまじない、覚えているか?」
「え……ええ……」
セルジュとの最後の思い出で、ぽかぽかと心が温かくなる魔法を掛けられた。どんな効果があるのかは知らない。
「致命傷を一度だけ防ぐ代わりに身体の時間を止める魔法だ」
「え!?」
「馬車の事故とかから守れるようにと思って掛けた魔法だったんだが……」
その魔法によって、ジュリエンヌは処刑の際の雷撃から身を守ることができたようだ。
「あれ? でも……わたくし、死んだとされて……」
「ああ。致命傷を防ぐ代わりに身体の時間が止まるから、心臓も止まって、死んだものと扱われたのだろう」
「なるほど」
それでこの共同墓地に埋葬されたようだ。
「未完成の魔法って……」
「止めた時を動かす術式が完成していなかったんだ。それに未完成だったせいか、体外離脱を引き起こしていただろう?」
あれは幽霊となってセルジュの前に現れていたわけではなく、肉体から抜け出てしまった姿で彼の前に現れていたらしい。
「わたくし……自分でセルジュの魔法の研究の手伝いをしていたのに……」
自分の現状を理解していなかったせいか、何の魔法を作っていたのか知らずに手伝っていた。
「ジュリエンヌ。家族も君の帰りを待っている。君が生きているかもって話をしたとき、泣いて喜んでいたよ。行こう」
「え? 家族?」
自分にまだ家族というものがあったことに驚いた。しかもどうやら愛されているらしい。
「義絶するようお父様にはお願いしたのだけど……」
「それも君の無事が確認出来たら元に戻すよう進めているよ」
「でも……私は国家反逆を企てた罪人で……」
こんな自分を公爵家に戻せば、家族まで罪人扱いされてしまう。
「政変はもう終わったんだ」
「せいへん……?」
「ああ。王弟だった僕の父が先導して王位を簒奪した。冤罪を認めるような腐敗した王家なんていらないだろう?」
もともとそういう動きがあるというのは聞いたことがあった。ジュリエンヌが王太子の婚約者となったことで、ローゼッティ公爵家は微妙な立場となっていたようだ。
しかし、ジュリエンヌの冤罪事件をきっかけに、ローゼッティ公爵家は王弟派に加わることとなった。
「あ、でも……金脈は……?」
王家は不思議な知識を持つリリーシアから金脈を献上してもらっていた。それによって莫大な金を手にしており、国王派と王弟派と対立しても金脈のある国王派が有利と思える。
「金脈がどこにあるかわかっても、掘り出すための鉱夫と爆薬が手に入らなければただの山だ」
どうやら鉱夫と爆薬が王家へ流れていかないように王弟派で食い止めたようだ。
「王家は粛清された。もうジュリエンヌの憂いは何もない」
「ああ……」
あれから二年も経過していたらしい。
長くつらい日々だった。
「あれ……二年も経ってたら……セルジュはもう、いい人と結婚してる?」
ふと思い浮かんだことを言葉にしてみると案外胸が痛かった。
「そんなわけないだろう。君が元王太子と婚約してから三年以上も未練たらしく想い続けてきたんだから。今だって、ジュリエンヌのことしか考えてない」
「セルジュ……」
じわっとジュリエンヌの視界が滲んだ。
「帰ろう、ジュリエンヌ……」
「ええ」
セルジュに手を差し出されて、その手を取る。
墓地には春の花が咲いていた。ふわりと風がそよいで花の甘い香りを運んでくる。
「結婚式の準備、するんだろう?」
セルジュがニヤリと笑った。
「うん」
セルジュの言葉にジュリエンヌの心臓はたしかにドキドキと鼓動したのだった。
拙い文章でしたがお読みいただきありがとうございました。
評価、感想いただけると嬉しいです。
(11/27ムーン版投稿しました!)




