前編
開口部から入る光がセピア色の柔らかなアーチを描く、放課後の渡り廊下。
吹き抜ける秋風はまだ心地好く、図書室へ向かう途中のジェリーは外へと視線を向けた。
彼女の瞳に映ったのは無意識で期待していた紅葉ではなく、義妹とジェリーの婚約者。
ふたりの仲睦まじい姿。
視界に入れたくもないそれを、目ざとく捉えてしまったジェリーの視線を遮るように、彼女の斜め前へと歩みながら、ウォーレンは場違いな程に軽い口調で尋ねた。
「問い質さなくていいの?」
「……いいのよ」
「そう、なら嫌なモノは見なくていいんじゃない? 美しい君が見るべきは、もっと素敵なモノだよ。 例えば僕とか」
ウォーレンの軽口は今に始まったことではないが、その台詞には流石に呆れた。
「まあ、随分な自信家ね?」
「まぁね。 そうでなきゃ、こんなにしつこく君に話し掛けたりできないさ。 そして今じゃ君が時折笑顔を見せてくれるまでになった。 どう? 僕って素晴らしいだろ」
基本的にウォーレンという人は、いつも誰に対してもこんな感じである。
彼は距離感と礼節を理解し弁えているので、相手により微妙に言い回しなどの諸々を細かく変えはするけれど。
「嫌だわ、それ。 なんだか私が珍獣みたいじゃないの。 大体話し掛けられれば普通に答えるわよ」
「またまた~」
これが彼なりの処世術であり、また時には気遣いでもあるのだろう。
実際、ジェリーもいつの間にか彼にはこんな風に返すようになっていた。
とはいえ、皆に塩対応で有名なジェリーがウォーレンとこうして気安く話すまでになったきっかけは、彼が愉快で気を使えることとはあまり関係ない。
ウォーレン・クレイトンは商家の青年で、国内のみならず他国……特に隣国に造詣が深い。
カバン持ちとして早くから家族の商談に付き添ってきたという経歴を持つ彼は、多岐に渡る知識と、経験で培われた審美眼に鋭い感性を持つ。
純粋に、彼からは学びが多かったのだ。
ウォーレンと会うのはいつも図書室で、長い話をする時はその隣の談話室のみ。
精々今日のように行きがけに偶然一緒になるとか、その程度だ。
彼の方も軽口は叩けど、恋愛的な下心からジェリーに近付いたわけではない。
理由のひとつに、ジェリーが美しく優秀なのは勿論あるにせよ。
実家が大きな商会を持つというウォーレンは、そちらの隣国支部を任されることになっているそう。
結婚ではなく仕事として、自分の補佐をしてくれる優秀な女性を探すのを目的に、学園に入学したらしい。
一年程前に図書室で会話したことから始まった交流の殆どは、ウォーレンの博識さに気付いたジェリーが、話し掛けてくる彼に手元の本から抱いた疑問を尋ねるというもので、その流れで話が弾むこともあるが、主に商売に関連した話だ。
その流れでプライベートなことについてや褒め言葉などが混ざってくることもあるけれど、深く踏み込むことはしてこなかった。
そんな日々を経て、ジェリーは彼に『共に働かないか』という打診を受けていた。
「とりあえずさ、留学だけでもどう?」
「そうね……」
いつも通り、曖昧に微笑むだけのジェリーにウォーレンも苦笑する。
「待ってるよ、君の心が決まるのを」
彼の提案は実に魅力的だ。
しかし、ジェリーには頷けない理由があった。
ジェリー・ベケットは子爵家の娘である。
彼女は学園で『氷の姫君』というふたつ名がつく程、他人とは一線を引いていた。
周囲もまた、礼儀は弁えるものの頑なな彼女の態度から、社交を大事にする女生徒達も、浮ついた男子生徒達も遠巻きに見ているのみ。
称賛とも揶揄とも取れるそのふたつ名は、正しく『称賛であり揶揄』である。
──最近は、揶揄の方が強いにせよ。
家に戻ったジェリーを待っていたのは、アボット子爵家の馬車から降りる義妹のマドリンと、彼女に手を貸す紳士的な男性……自身の婚約者であるモーガンの姿だった。
「あら、お義姉様……今お帰り?」
明らかな優越感と嘲りの篭った笑顔で、わざとらしく声を掛けるマドリンを無視し、ジェリーは自室のある離れへと向かう。
内心を悟られないよう、凛とした姿勢で、優雅に──そんな理由で、身に付いた筈の小さな所作を気にしてしまう自分が惨めだった。
さりげなく一瞥したモーガンは、こちらを見ようともしていなかったというのに。
子爵令嬢であるジェリーがひとり、離れに住むようになったのは、母が死に、義母と義妹がやってきてからのこと。
ベケット子爵である父、エイルマーは愛妻家で有名だった。
しかし周囲の予想に反し、妻の早逝に悲しみ喪に服した後の再婚は早かった。
後妻のグラディスは父の弟トニーの妻だった女で、ジェリーにとっては叔母でもある。
彼女はベケット兄弟と幼馴染みだった。
母の死後半年、叔父が亡くなったことでふたりは結ばれたのだ。
ふたりは元々幼馴染みで、気心も知れている。
互いに伴侶を喪った者同士、支えあったことで愛が生まれたというなら、そこまで不自然な話ではないだろう。
だがそれだけでなく、エイルマーは再婚後、娘を蔑ろにしだしたのだ。
ただし、ジェリーが離れへ追いやられた直接的な原因はこれではない。
伴侶を亡くした貴族にはよくある、類縁での再婚──とはいえ、母の死はまだしも叔父の死のタイミングがあまりに不自然だ、と不審に思ったジェリーは、叔父が亡くなった経緯を調べようとした。
なにぶん子供のすることだ。
大した調査ができたわけでもなく、叔父の死の真相については全くわからなかったが……
「そんなにグラディスが気に入らないならもういい! お前はこっちで暮らせ!」
そのことに気付いた父は激昂し、ジェリーを乱暴に引き摺り本邸から追い出した。
ジェリーがしたことは、ただでさえ蔑ろにされ出したところに『後妻に疑いを持って動いた』という、家族から排除するのに決定的な理由を与えてしまっただけだった。
もっともいくつかの事実はこの直後、義母がこっそりと教えてくれた。
そしてそれは、全くジェリーが想像もしていなかったこと。
父エイルマーと叔母であり義母グラディスは、母と叔父の生前から不貞を働いていたのだ。
「ふふ。 殺してなんかないわよ、私も彼も死んだふたりを愛していたもの。 ただの不幸な偶然。 ああでも、マドリンは貴女の本当の妹かもしれないわね?」
義母は笑っていた。
互いに平穏な家庭を大事にする一方、火遊びとして刺激を楽しんでいたのだ、と悪びれることなく告げて。
ジェリーは戦慄した。
亡き母ジャネットは、美しい女性だった。
美丈夫のエイルマーに熱心に口説かれて結婚したのだ、と生前よく話してくれていた。
母は元々伯爵令嬢だったが、それにより伯爵家からは縁を切られたという。
だからこそ、まるでロマンス小説のようだと憧れた。
政略的な思惑などなにもなく、父は母そのものを欲したのだから。
実際、伯爵家には劣るのかもしれないが、母も自分も不自由することは一切なく、それなりに貴族家らしい華やかで幸せな生活を送っていた。
父は母を頻繁に褒め、愛を囁き、贈り物をしていた。
病床に伏せった後も、献身的だった。
母の様子に影で一喜一憂していた。
死後暫くは、憔悴した様子も見せていた。
義母の言うことの全てを信じる気はないが──きっと父は、本当に母を愛してはいたのだろう。
愛と欲は別だっただけで。
そして娘である自分への愛は、母へのそれとは違い、欲よりも遥かに下だっただけで。
義母が嘲笑と共に、自分に告げても問題がない程に。
それは、12の頃。
あまりのことに気持ちが悪くて嘔吐した、離れに移された最初の夜。ジェリーは吐瀉物と涙と嗚咽と共に、無垢だった子供時代を終えた。
明るく少し勝気で、それ以上に愛嬌のあった少女は、淑女教育で教わった以上に表情を出さなくなっていった。
ただ、家族の輪からは外されたものの、ジェリーが粗末には扱われることはなかった。
エイルマーの外面の良さに加え、ジェリーに幼い頃から婚約者がいた為である。
モーガン・アボット子爵令息。
先程、義妹と一緒にいた青年だ。
出会ってから学園に入る前までずっと、彼はとてもジェリーに優しかった。
モーガンは誰にでも優しいけれど、ジェリーは特別だった……というのは彼女の願望や妄想などではない。縁あって幼い頃から交流のあったふたりの婚約が決まったのも、ふたりの仲睦まじさとモーガンの強い希望によるものだ。
ジェリーも彼といるのが好きだった。
当初それは恋愛ではなく友愛だったけれど。
離れに追いやられた時もモーガンはすぐに気付いてくれて、とても憤慨してくれた。
それは父に詰め寄らんばかりの勢いで、嬉しく感じつつも少し困ってしまうくらい。
「怒らなくていいのよモーガン。 むしろ気楽でいいわ、あの人達と家族ごっこなんて冗談じゃないもの」
「……それはそうかもしれないけど」
あの夜から変わってしまったジェリーは、モーガンだけには態度を変えることなく接していた。
そうしようと思っていた。
しかしその一方、ジェリーは彼のことも信じられなくなっていたのだ。
この年頃になるともう、自然とジェリーもモーガンを異性として意識するようになり、胸がきゅんとしたり羞恥と歓喜のないまぜになった甘酸っぱい気持ちに悶えたりすることや、彼の傍に寄ろうとする女の子に悋気を抱いたこともあった。
だからこそ、余計に信じられなくなったと言ってもいい。
義母の暴露は、恋心と、閨教育でようやく子作りとはなにをすることなのかを正確に理解したばかりの少女には、あまりに強い毒で。
最早ジェリーにとって愛とは胡乱なモノであり、特に恋愛と、肉欲を含めたそれに伴う刺激とは、区別のつかないモノになってしまっていた。
心の奥底にあるそんな気持ちが僅かに態度に出ていたのか、モーガンはそれを漠然と察していた様子だった。
だがジェリーの気持ちを慮ってか彼はなにも聞かず、ただなにかと理由をつけてはジェリーの住む離れへ足繁く通ってくれた。
そして、13の誕生日。
「──必ず君を守るよ、ずっと。 今はまだ子供でなにもできないけれど、そうできるように頑張るから……僕のことは信じて」
プレゼントと共にくれたその言葉は、彼なりの誓いだったように思う。
実際それからのモーガンの努力は、なにも知らない周囲も目を見張るものだった。
アボット家は子爵家だが、三代に渡り優秀な文官や騎士を輩出し、王家を支えている名家だ。
養子や婿、或いは嫁として高位貴族とも縁続きになっている。だがその威光を振りかざしたり、恩恵に与ろうとはしないところも含め、その評判は高い。
三男であるモーガンもアボット子息らしく武にも文にも秀でており、年齢の近い王子達に目を掛けられていたようだった。
学園に入学した14の頃には、休日に王宮の王子殿下方のもとへと呼ばれ、側近としてのアレコレを学びに行うまでになっていた。
それでもちょっと時間ができるとジェリーのところに来たし、学園の送り迎えや昼休みなどの休憩時間には、いつもジェリーのところへやってきた。
しかし学園生活が続くにつれ、段々とその頻度は減っていった。
避けられているような気がしていた。
それでもふたりきりになれば優しかったし、元々モーガンが皆に優しく、交流も増えたことを知っていたジェリーはなにも聞けなかった。
ジェリーが『そんな筈はない』『でも』と自問自答を繰り返しているうちに、いつの間にか義妹と過ごす姿をチラホラ見掛けるようになっていた。
モーガンとマドリン。
モーガンがジェリーを一番に扱っていた頃から、このふたりはそれなりに仲良くしていた。
モーガンにとってそれは本意ではなかったけれど、彼が色々気を利かしてくれていたことの中には、家族への牽制もあったからだ。
今やベケット家のお姫様であるマドリン。
モーガンは彼女と一線を引きながらも上手く躱していた。
卒業までの、ジェリーの平穏な日常を守る為に──それは嘘じゃなかった筈。
しかしいつの間にか彼等の距離は近いものへと変わり、そのうちジェリーが横にいた時間もマドリンが代わりにいるようになっていた。
ふたりきりではないが、公の場だと思うと幸いとも言い難い。
またわざわざ離れまでやってきて、こちらに聞かせてきたマドリンの話を信じるならば、モーガンの方が彼女を誘っており、彼が『ふたりでは外聞が良くないから』と言うので互いの友人を加えているだけだそう。
(……なにか、考えがあるのよね。 きっと)
『必ず君を守るよ、ずっと』
『僕のことは信じて』
そう言ってくれた彼を、信じたかった。
……信じなくてはならない、そう思った。
気付けばジェリーはモーガンが忙しいことに、安堵するようになっていた。
会えない正当な理由があれば、なにも聞かなくてすむ。今までだって、隙間時間を縫って自分に割いていてくれただけなのだ。
そもそも、ジェリーが彼を責めることなんて、できやしないのだ。
なにひとつとして。
ふたりが出掛けた後、モーガンがマドリンを送ったところに出会してから。
学園内外でも平然とふたりでいるのを見掛けるようになった。
周囲も明らかな変化に気付き、陰でコソコソ言うようになった。
勿論、居心地は良くなかったけれど、それは別にいい。
だがさも心配そうにあれこれ聞かれたりするのには、流石にジェリーも辟易した。
「いいの? 婚約者に問い質したりしなくて」
とうとうウォーレンまでがそんな風に言う。
ジェリーは他への対応と違い、不愉快さを隠さず返す。
「……貴方までそんなこと言うのね」
「そりゃそうさ。 できればさっさと決めてほしいもの」
「ああ……そう」
彼はいつも通りなだけ。
そういえば、前にも言われていた。
それはそれで不躾であり、とても失礼だ──そう思い呆れながらも、脱力感と共に肩に入っていた力も抜けていた。
「ははっ、随分余裕がないね『氷の姫君』」
そう笑う彼を睨みつけると、わざとらしく怯えてみせる。
なんだか酷く馬鹿馬鹿しくて、嘆息した時にはもう、なにもかもどうでもいいような投げ遣りな気持ちでいた。
「……余裕だったことなんてないわ、いつだって必死よ」
「ふぅん、だからなにも聞かないの?」
「そう……そうね、そういうことになるのかしら」
「そっか」
短くそう返した後、ウォーレンは少し黙ると、小さくふっと鼻で笑った。
「いつも必死で余裕がないから、自分のせいだと思って自己完結してるわけだ?」
「!」
その言葉に思わずカッとなったジェリーは、珍しく声を荒らげる。
「貴方になにがわかるの!」
「しー……ベケット嬢、ここをどこだと思ってるの?」
「……ッ」
彼と会うのはいつも図書室で、今日も勿論そう。慌てたジェリーは手で口を塞ぎ、持っていた本を落とした。
すかさず拾ったウォーレンは、軽く本についた埃を払いながら、静かに言葉を紡ぐ。
「わからないよ、僕にはなにも。 僕は君が言ったことを僕なりに纏めただけだ」
ただ事実を告げるだけの無感情な声。
そこに普段のいい加減さや、先程の小馬鹿にしたような響きはなかった。
「……」
「言葉なんてただのツールで不確かなものだよ、ベケット嬢。 それでもわからない僕だって君を怒らすくらいのことはできた。 ちゃんと相手と向き合って話したら、もっと有用に使えるんじゃない? 少なくともなにかしらの反応は見れる。 君が必死で余裕がなくて、それをぶつけただけだとしてもね」
「そんなの……」
──無理だ。
だって、彼になにが言えるというのか。
そもそも自分には、そんな資格などないというのに。
「……他人事だから言えるのよ」
「そうだよ、他人だからね。 でも、だからこそ見えるものもあるだろう? なにしろ他人は問題に携わっていないぶん、余裕がある。 当事者の君と違って」
ウォーレンは自然な仕草で本を棚に戻し、子供を諭すようにジェリーに注意した。
「ほら、てのひら緩めて。 爪の痕付いちゃうよ」
俯いたまま、知らず知らず拳を握っていたジェリーがその言葉にようやく顔を上げると、ウォーレンはニコリと微笑む。
「悪かったよ、笑って。 でも、別に馬鹿にしたわけじゃない。 ただなんか……まあいいや。 コレ、渡しとくね」
そう言って懐から出した封筒を渡すと、ひらりと片手を上げて去っていく。
その封筒は飾り気のない縦長の物。手紙というより、なにかの通知が入っているような。
呆然と立ち尽くすジェリーの心はざわめいていた。ウォーレンとの会話とその封筒により、思い出される事柄に。
──無事に、王立学園に入学することはできたジェリーだったけれど。
(『一般科』……!)
離れに持ち込まれ、開封した入学通知には、所属が『一般科』と書かれていた。
王立学園には『領地経営科』と『一般科』で分かれていた。長子であるジェリーは本来『領地経営科』な筈だった。
蔑ろにされているこの状況や、実父が誰であれ義妹がベケットの血を継いでいることから、おそらくモーガンとて予想はしていただろう。
だが彼が何を誓ってくれても、どうしても、自ら口には出せなかった。
『でも私、この家を継げるかもわからないのよ……!』
もし、あの時それを言っていたら。
モーガンは『それでも構わない』とか、きっとそんなようなことを言ってくれたに違いない。
ジェリーは入学後、勉学に励んだ。
だがいくら優秀な成績を修めても、日々の不安は消えず、色濃くなるばかり……だからこそ、なにか前に進んでいるような実感が欲しくて。
だが結局のところ、ジェリーが優秀な生徒として評判になったことで得た今までの成果は『氷の姫君』の称賛部分と、外聞を気にする父が、周囲の詮索と比較されて貶められることを避ける為、マドリンも一般科への入学にしたことくらいだろう。
「……なにを言えっていうのよ……」
そう、独り言ちる。
言えることなど見当たらなかった。
『君が必死で余裕がなくて、それをぶつけただけだとしてもね』
「他人事だから……言えるのよ」
詰め寄って問い質す?
泣き喚き、なじる?
そんなことなどできそうにないし、してはいけない。
──感謝こそすれ。
ただでさえ、モーガンがいることで生活が守られているのに。
それだけでなく、一番辛い時に傍で寄り添い、支えてくれたのに。
あんな家なんて、どうでもいい。
だがジェリーは、返すモノなどなにひとつ持ち合わせていない。
ましてや彼の献身に見合うモノなど。
立ち尽くしたままのジェリーが、拠り所なく閉じられてない封筒を惰性で開けると、その中には隣国行きの船券と小さなメモ。
メモには住所と、走り書きのようなたった一言だけが書かれていた。
『まずここへ向かうこと』
「……!」
ジェリーはそれを見て、ウォーレンを追い掛けた。
彼の打診は卒業後の話だと勝手に思っていたけれど、そうじゃなかったのかもしれない。
だけど、それより──
「クレイトンさん!」
ウォーレンに追い付いたのは、奇しくもあの渡り廊下。
あの時と違いそこからモーガンとマドリンは見えなかったけれど、ジェリーはあの時よりも、もっと泣きそうな顔をしていた。
「っどうして……どうしたら、いいっていうの? わからない、わた、私には……わからないの」
言葉が詰まってしまうのは、走って息が途切れているからだけではない。泣かないように堪えているせいだった。
「ベケット嬢」
ウォーレンはジェリーの手を引くと、渡り廊下を出て、学舎の片隅にあるベンチへと移動する。
その手は大きく骨ばっていて紛れもない男性の手だが、嫌悪感はなく……その代わり、かつて親らしかった頃の父を思い起こさせ、酷く自分が子供に思えた。
モーガンとは、13の誕生日から手を繋いだことが殆どない。彼はジェリーの気持ちを気にして、触れることに遠慮がちだったから。
記憶の中にある彼の手は、共にいる度繋いでいた頃の、小さな手。
もっと触れたら良かったのだろうか。
それとも皆と交流をすれば良かったのか。
それとも……
考えてしまうと、しなかったことの後悔ばかりが沢山浮かぶ。
いつだってそうだ。正しい選択と思ってしてきた目の前の選択と努力は、視界に入り、手を伸ばせば届くだけのものばかり。
でも……じゃあ、どうすれば良かったというのだろう。
モーガンはあまりに優しく紳士で、ジェリーにはもうどうしようもなかったというのに。
せめてひとつでも、返せるなにかを持ち合わせたなら違ったかもしれないが、ジェリーにはなにもなかった。
「自分のせいだと思って、なんかじゃない……どう考えたって私のせいじゃない。 当然の顔をして甘えて搾取しているのよ、ずっと。 離れていくとしても、彼になにを言えるっていうの? 烏滸がましいのよ、そんなの。 なのに、あんな──」
メモ書きの一言はモーガンの字だった。
「……貴方はなにをどれだけ、どこから知ってるの?」
経緯は全くわからないけれど、ウォーレンが持ってきたのだから、彼は関わっている。
言いたいままに言わせていたようなウォーレンの表情はずっと変わらないまま。質問をされて、ようやく口を開く。
「最初から? もっとも最初をどう定義するのかにもよるんだろうけど。 なにをどれだけっていうのは少し難しいかな。 君の事情は大体知っていると思うけど、パートナーにと思っている人をこの僕が調べないと思う?」
「……」
「僕は僕の必要なことしか知らない。 君に話していないことがあっても、今まで嘘は吐いてない。 信頼が欲しい相手にそれは悪手だろう?」
「私はどうしたらいいの? 自分でなんて決められるワケがないのよ、だって、なにもできなかった。 なにもあげられないのに」
「ねえ」
噛み合っていないような会話を短く遮ったウォーレンから出たのは、ひとつの質問。
「前から疑問だったことが今わかった気がしたんだけど、聞いてもいい?」
「……なに?」
「君が人を遠ざけたのは、モーガン・アボットの為?」
それだけ聞くとすっと立ち上がったウォーレンは、ジェリーの答えを待たずに小さくなにかを呟いて去っていった。先程と同じように、去り際にひらりと片手を上げて。




