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バレエに恋して

作者: asklib

ある冬の日、妻の姿勢改善のためのバレエ教室に、単なる付き添いとして足を踏み入れた健太。「男性も参加できますよ」という講師の一言で、渋々参加することになった。


最初は恥ずかしさで顔を赤らめていた健太だったが、バーレッスンの基本姿勢で背筋を伸ばした瞬間、不思議と体が軽くなる感覚に驚く。「これが正しい姿勢か」と初めて気づかされた。


帰宅後、姿見の前で無意識にファーストポジションを取る自分に気づいて苦笑い。翌日、筋肉痛に苦しみながらも、バレエの美しさが頭から離れなかった。


「もう一度行ってみようか」と妻に提案したのは健太の方だった。


週に一度のレッスンを重ねるうちに、デスクワークで丸まっていた背筋が伸び、歩き方にも変化が現れた。同僚たちからは「最近、何かしてる?」と聞かれるように。


三ヶ月後、初めて鏡に映る自分の姿に驚いた。肩の力が抜け、無駄な動きがなくなり、一歩一歩が意識的で美しくなっていた。体重も減り、筋肉のラインが整ってきていた。


中学一年生の娘・美咲は、徐々に変わっていく父親の姿を静かに観察していた。学校では友達にバレエの話題が出ると、固まってしまう。「うちのお父さんがバレエやってるなんて、絶対に言えない」と思いながらも、密かに父の変化に驚いていた。


ある日、美咲は下校途中、大通りに面したガラス張りのバレエ教室の前で足を止めた。中では小学生の女の子たちが真剣な表情でバーレッスンに取り組んでいる。美咲は道の向かい側から、誰にも気づかれないようにその様子をじっと見つめていた。


次の日も、そしてその次の日も、美咲は同じ時間にバレエ教室の前を通りかかった。「遠回りしてるって、友達に気づかれたらどうしよう」と思いながらも、足は自然とその場所へ向かっていた。


発表会当日、美咲は結局、遠くの席で帽子とマスク姿で隠れるように観覧していた。舞台上の父の姿に、驚きと誇らしさが胸に広がる。「うちのお父さん、こんなに変われるんだ...」


健太はステージから客席を見渡し、後方に娘の姿を見つけた気がしたが、知らないふりをした。


次の週末、美咲は勇気を出して駅前の別の街まで電車で出かけた。誰にも会わない場所で、こっそりバレエショップに入る。店内のレオタードを見つめる目は真剣そのもの。しかし、値札を見て驚愕する。「こんなに高いの...」月のお小遣いでは到底買えない金額だった。


それでも諦めきれず、美咲は週末ごとにそのショップに通い、試着だけをさせてもらうようになった。最初は「今日は買わないと思うけど、試着だけ...」と恥ずかしそうに店員に頼み、試着室に入る。


レオタードの着方も分からず、最初は前後逆に着てしまい、背中が大きく開いて慌てる。袖に腕を通そうとしたら、それは脚を通す部分だった。何度も試行錯誤しながら、ようやく正しく着ることができた時の嬉しさといったら。


四回目の訪問の日、いつもの優しい店員さんが「ねえ、あなたバレエ始めたいの?」と聞いてきた。恥ずかしそうに頷く美咲に、店員は奥から一着のレオタードと一足のバレエシューズを取り出した。


「これね、サンプル品だから売れないの。試着用に使ってたんだけど、もう新しいのが入るから処分するところだったの。よかったら安くあげるわ」


美咲の目が輝いた。月のお小遣いを少し超えるけれど、貯金を崩せば何とか...。思い切って購入を決めた。


家に帰ると、袋をベッドの下に隠し、両親がいない時間を見計らってレオタードに着替えようとした。しかし、またしても悪戦苦闘。「あれ?どっちが前...?」と混乱しながらも、なんとか着こなした。


シューズのリボンの結び方も分からず、インターネットで調べながら何度も挑戦する。やっと全部整えて鏡の前に立った時、胸が高鳴った。


「これだけじゃ全然上手くならない」と思いながらも、スマホでバレエの基本ポジションを検索し、こっそり真似してみる毎日。


レオタードを手に入れてからも、美咲は週末になるとバレエショップに通い続けた。買えなくても、ただ見ているだけでテンションが上がる。色とりどりのレオタード、繊細なチュチュ、優雅なスカート...すべてが憧れの世界だった。


ショップの店員さんも美咲の熱心さに気づき、「今日も来たの?またレオタード見る?」と笑顔で声をかけてくれるようになった。


ある日、店員さんは楽しそうに提案してきた。「色々組み合わせてみない?このスカートとこのレオタード、合うと思うよ」


試着室で様々なコーディネートを試す美咲の顔は、どんどん輝いていく。鏡の前でくるりと回ってみると、まるで別人のよう。「バレリーナみたい...」と思わず呟いた。


出てきた美咲を見て、店員さんはにっこりと微笑んだ。「一緒にプリエしてみる?ただ試着してたら商品汚れるから私服でね!」


「えっ、プリエって何?」と美咲は戸惑った。窓ガラス越しでバレエレッスンを見ていただけで、どういう動きなのか分からない。それでも「はい」と答えた。


「しまったー、よりによって動きにくい服装で来ちゃったな」と思いつつ、店員さんの動きを見守る。


店員さんは私服だったが、プリエをし始めると一気に姿勢が綺麗になった。背筋がすっと伸び、顎が上がり、肩が下がる。そして何より、表情が生き生きと輝いていた。


「本当は足の方とか色々あるんだけど、お試しだから屈伸運動と思えばいいよー」


反射する窓ガラスを鏡代わりにして、店員さんと一緒に膝を曲げ伸ばしする。「うーん、どうなんだろう。私、綺麗になったんだろうか」


いや、それは言い訳だ。言われるがままに屈伸していて窓ガラスを見る余裕がなかったというより、綺麗な店員さんの動きに見とれていたというのが正解だった。


ほんの1、2分だったが、ほんとに楽しい!けど恥ずかしい。「このプリエってやつ、レオタードでしたらバレリーナかな」と思い、自宅でやってみようと決意した。


ところが、この日に限って家では一人になれない。妹が部屋に入ってきたり、母が洗濯物を持ってきたり。ベッドの下のレオタードすら出せない。


結局この日は、一人になった時にはもう疲れ果てていて、夢の中で素敵なレオタードを着ながらプリエをするしかなかった。


翌朝、美咲はバレエの夢を見たことをはっきりと覚えていた。夢の中では、自分が大きな舞台で踊っていて、客席には父が誇らしげに見守っていた。


「いつか...」と美咲は思った。いつか、夢と現実が重なる日が来るかもしれない。


一方、健太は朝のストレッチをしながら、娘の部屋の前を通りかかった時、かすかに聞こえてきた「プリエ...」という呟きに気づいた。しかし、思春期の娘の秘密に踏み込むことはせず、にっこりと微笑んで通り過ぎた。


親子の間に、言葉にはならない新たな絆が静かに育っていた。

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