禁じられたロマンス
夏の日差しが透き通った湖の水面に反射してキラキラとしている。それはまるで、小ぶりのダイヤモンドが散りばめられているかのようだ。
侯爵令嬢であるリューディア・エルメントラウト・フォン・バートベルクは、そんな湖の畔を従者を付けずに一人でゆっくりと歩いている。
(素敵ね……。このトラシュタルトの町には初めて来たけれど、大半の人が一目で気に入ってしまうと言われている意味がよく分かるわ)
リューディアのグレーの目はキラキラと光るダイヤモンドのような湖を見て、輝いている。その目はまるでムーンストーンのようだ。
トラシュタルトは小さい町だが、目の前に広がる湖が自慢の景勝地だ。リューディアが住むアトゥサリ王国の王族、貴族だけでなく、裕福な平民までもトラシュタルトの町に別荘を持っている。更には他国の王族、貴族の別荘もあるのだ。
もちろん、リューディアの生家であるバートベルク侯爵家もトラシュタルトの町に別荘を持つ。
その時、風が笛のように鳴き、リューディアが被っていたつばの広い帽子を飛ばす。新緑のような緑のリボンが付いた白い帽子である。
リューディアのシニョンにまとめられたストロベリーブロンドの髪が露わになった。
「あ……! 待ってちょうだい!」
リューディアは追いかける。
しかし風は思ったよりも意地悪で、リューディアの帽子は更に飛ばされてしまう。
リューディアと帽子の距離はどんどん離れていく。恐らくこのままでは帽子が湖に落ちてしまうだろう。
しかしその時、帽子の動きがぴたりと止まった。
風が止まったわけではなく、リューディアのストロベリーブロンドの後毛はなびいている。
湖の畔にいた青年が、リューディアの帽子をキャッチしたのだ。
身なりが良く、ダークブロンドの髪にほんの少しだけ青みがかった緑の目の青年だ。
リューディアとそこまで年が変わらないだろうと思われる青年だ。リューディアが今年十六歳なので、恐らく十六歳から十八歳辺りだろう。
リューディアは彼の目を見た瞬間、まるでジェードのようだと思った。
リューディアは思わず彼に見惚れてしまう。
そして、リューディアの胸の中には、まるで宝石のようにキラキラとしたときめきが生まれた。
それは今までリューディアが感じたことのない感覚であった。
「これは貴女の帽子でしょうか?」
青年の声は穏やかで優しげだった。
「はい」
リューディアはハッとして頷いた。
「良かった。とても素敵な帽子ですから、湖も欲しがったのでしょうね」
青年はクスッと笑った。
優しくも凛々しさのある表情に、リューディアはまた見惚れてしまう。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
リューディアはまたもやハッと意識を戻し、青年から帽子を受け取った。
「素敵な帽子が湖に取られずに良かったですね」
「ええ、そうですわね」
独特のユーモアある彼の表現に、リューディアは思わずふふっと表情を綻ばせた。
「あの、貴方はこの町の方でございますか?」
「いえ、王都エウィンから来ました。この夏はトラシュタルトの町の別荘で過ごすことになりまして」
「左様でございましたか。私も、現在トラシュタルトに来る前は王都におりました。あ、申し遅れましたわ。私はバートベルク侯爵家長女、リューディア・エルメントラウト・フォン・バートベルクでございます」
「お貴族様でしたか」
青年はリューディアの自己紹介を聞き、ジェードの目を大きく見開いた。
青年は背筋をピンと伸ばす。
「僕はエアハルト・クラルヴァインと言います。祖父と父がクラルヴァイン商会を大きくしたお陰で、このような素敵な土地に別荘を持てるようになった身分です」
青年――エアハルトは平民のようだ。
「まあ、クラルヴァイン商会……!」
リューディアはクラルヴァイン商会という名前に聞き覚えがあった。
最近アトゥサリ王国で勢いのある商会なのだ。
「あの……エアハルト様、明日もお会い出来ますか?」
リューディアは思わずエアハルトにそう聞いていた。
「明日……ですか……!」
エアハルトは驚いたようにジェードの目を見開く。
そこで自分が何を言ったか自覚するリューディア。
「あ……! 突然申し訳ありません。その……」
リューディアは頬を赤くし、エアハルトから目を逸らす。
「……構いませんよ、リューディア様」
エアハルトの優しい声に、リューディアの表情は明るくなる。
「ありがとうございます。それでは、明日、またこの場所で」
リューディアはムーンストーンの目をキラキラと輝かせていた。
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その日の夜。
リューディアはバートベルク侯爵家別荘の自室で窓から空を長めながらため息をついた。
(エアハルト様……)
エアハルトと出会った瞬間、リューディアの心には電撃が走り、宝石のようにキラキラとしたときめきが生まれた。
リューディアはその感情が何なのかを知っていた。
(私は……エアハルト様に一目惚れをしてしまったのね。平民と貴族、きっとこの恋は許されない。それに……私には婚約者もいるのに……)
再びため息をつくリューディア。
リューディアはテシェン公爵家の長男と婚約している。
それはバートベルク侯爵家とテシェン公爵家の事業を円滑に進める為の政略的なものだ。
(彼とは幼馴染で、家族のような情はあるけれど……エアハルト様に感じたようなときめきはないわ)
リューディアは胸に手を当て、エアハルトと出会った時のことを思い出す。
そのときめきは、リューディアの心に喜びと潤いを与えたのだ。
(彼は、体が弱いけれどそれ以外は完璧な方だわ。私にもとても優しいし……。思わずエアハルト様と明日会う約束をしてしまったけれど、いけないことよね。……明日会って終わりにしましょう)
そう決意したリューディアだが、胸の中には切なさが残っていた。
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翌日。
リューディアは昨日と同じ場所でエアハルトに会った。
「ご機嫌よう、エアハルト様」
貴族らしく、上品に微笑むリューディア。
(私がエアハルト様を好きになってしまったことは事実。だけど、この気持ちはここで終わらせないといけないわ。だから……せめて思い出作りくらいは……)
切ないときめきを抱えたままのリィーディア。
「こんにちは、リューディア様」
明るく優しい声。嬉しそうなエアハルトの表情。
いけないと思いつつ、リューディアの心はときめいてしまう。
その時、リューディアはエアハルトが持っている道具に目が留まる。
「エアハルト様、それは一体何ですの?」
「釣り道具ですよ。この湖は美味しい魚がよく釣れるみたいですから」
エアハルトのジェードの目は溌剌としていた。
「まあ、釣り……!」
リューディアはムーンストーンの目を輝かせる。
「ご興味ありますか?」
「ええ」
リューディアは声を弾ませて頷いた。
初めての釣り、エアハルトとの会話、リューディアにとってこの時間はとてもキラキラしていた。
どんな宝石よりも美しく輝いているのではないかと思う程である。
エアハルトとの時間に満足したリューディア。
この想いに決別する為に帰ろうとするが、エアハルトに引き止められる。
「リューディア様、まだ時間があるのなら、トラシュタルトの町の蚤の市を覗いてみませんか? 掘り出し物とかも結構見つかりますよ」
リューディアはその誘いに、思わず「はい」と頷いてしまった。
(この想いは許されることはない。分かっているけれど……やっぱりせめてもう少しだけ……)
リューディアはムーンストーンの目を切なく細めた。
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トラシュタルトの蚤の市は、人が多く賑わっていた。
掘り出し物を見つけようと皆品々を穴が開く程観察している。
(……古くても、大切に使われたことが分かる品ばかりね。きっと持ち主の思いもこもっているかもしれなわ)
リューディアは蚤の市の品々を見てムーンストーンの目を輝かせた。
「あ……」
リューディアはジェードが埋め込まれたアンティークのブローチを見つける。
エアハルトの目と同じ宝石だと、リューディアは思った。
「そのブローチが気に入りましたか?」
「はい」
リューディアは胸をときめかせながら頷いた。
するとエアハルトはそのブローチを購入する。
「では、このブローチをリューディア様に」
何とエアハルトはリューディアの為にブローチを買ってくれたのだ。
「ありがとうございます」
リューディアはそれが嬉しかった。今までの人生で一番の喜びかもしれないとすら感じた。
早速ジェードのブローチを身に着けるリューディア。
「お似合いです」
エアハルトは優しげにジェードの目を細めた。
その言葉に、リューディアの心は満たされる。
「あ、それと、このネックレスもお願いします」
エアハルトはアンティークのネックレスも購入した。
「エアハルト様、それはどなたかへの贈り物ですか?」
「ええ。……僕の婚約者に。彼女は僕より二つ年下の十六歳で、体が弱くて」
フッと苦笑するエアハルト。リューディアは聞かなければ良かったとショックを受けてしまう。
「まあ……エアハルト様にもご婚約者が……。体が弱いだなんて、私の婚約者と同じですわね」
突然、現実に引き戻されたような気がして、リューディアの心は沈んでしまう。
「リューディア様にも婚約者が……」
エアハルトはやや複雑そうな表情だった。
「ええ。家同士の事業を円滑に進める為の政略的なものですわ」
「それも僕と同じですね。僕の婚約者は、クラルヴァイン商会に巨額の投資をしてくださる方の娘でして。幼馴染なので家族としての情はありますよ」
「家族としての情……私と同じですわね」
リューディアは苦笑した。
(本当に、この想いは禁じられたものだわ。もし叶えてしまえば、エアハルト様の家族や私の家族を不幸にしてしまう。大勢の人を不幸にする恋なんて、叶えてはいけない)
リューディアは自分の気持ちに硬く蓋をして、エアハルトと別れるのであった。
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その後、リューディアはエアハルトと会うことなくトラシュタルトの町を去る前日になった。
美しい湖を目に焼き付けておこうと、リューディアは一人で湖の畔を歩く。
「リューディア様!」
その時、背後から男性の声が聞こえた。
それはリューディアが一番会いたくて、一番会いたくなかった人物。
「エアハルト様……」
振り返ると、真剣な表情をしたエアハルトがいた。
リューディアは胸に着けたジェードのブローチに触れる。
「リューディア様が明日帰ってしまうことを聞いて、いても立ってもいられなくなりました」
ジェードの目は、真っ直ぐリューディアに向けられている。
思わず目を逸らしたくなったが、目が離せなかったリューディア。
「リューディア様、僕には婚約者がいますが……初めて出会った時から貴女のことを好きになってしまいました。もし貴女が僕と同じ気持ちならば……一緒に逃げませんか?」
それは、リューディアの胸をときめかせる、魅力的な誘いだった。
「エアハルト様……私も、初めて出会った時から、貴方が好きですわ」
嬉しそうにムーンストーンの目を細めるリューディア。
「ですが、それは出来ません。もし私達が逃げたら、大勢の人が不幸になります。エアハルト様のご家族も私の家族も。それに、貴方も私も、きっと大変な目に遭いますわ。私は、エアハルト様、そして貴方の家族を不幸にしたくない。だから、エアハルト様のお誘いには乗れません」
リューディアは胸のブローチに触れたまま、ムーンストーンの目からは涙が零れる。
水晶のような涙である。
「そう……ですよね。困らせてすみません」
エアハルトは悲しげにジェードの目を伏せる。
「エアハルト様、貴方との時間は、この先の人生の宝物にします。……さようなら」
リューディアはエアハルトに背を向け、歩き始めた。
「さようなら、リューディア様。僕も、貴女との時間は一生忘れません」
後ろから、凛とした声が聞こえた。
リューディアは振り返ることなく前を向いた。
(……これで良いのよ)
ムーンストーンの目からは再び涙が零れた。
リューディアは一夏の恋を終わらせたのだ。
♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔
十数年が経過した。
リューディアは婚約者であるテシェン公爵家長男と結婚し、リューディア・エルメントラウト・フォン・テシェンとなった。
夫との間に子供を三人儲け、テシェン公爵家の未来は安泰だ。
第一子は健康上の問題がなく優秀で、もうテシェン公爵家のことを全て任せることが出来る。
そしてそんなある日、元々体が弱かったリューディアの夫は病により亡くなった。
幼い頃から交流があり、家族としての情もあったので、リューディアは夫を亡くした時大きな喪失感を抱いた。
しかし、その喪失感は時間が経つにつれて少しずつ薄れていくのである。
今となっては、夫との日々を思い出して穏やかな気持ちになることが多くなっていた。
そこから数年が経過したある日のこと。
「母上、新たに取り引きを考えている商会の方がいらしております。女性向けの品も取り扱っているみたいなので、母上もご覧になってはいかがですか?」
テシェン公爵家を継いだ一番上の息子にそう言われ、リューディアは「そうね」と頷いた。
リューディアは商会の者がいる部屋に入った瞬間、ムーンストーンの目を大きく見開くことになる。
そこにいたのは、ダークブロンドの髪にほんの少しだけ青みがかった緑の目の壮年。その目はまるでジェードのようだった。
「エアハルト様……!」
「お久し振りですね、リューディア様」
エアハルトは穏やかに微笑んでいた。
リューディアはまさかエアハルトと再会するとは思わず、固まっていた。
しかし、あの時の胸のときめきが少しずつ湧き水のように心を満たし始める。
「本当に、久し振りですわね」
リューディアは穏やかにムーンストーンの目を細めた。
「テシェン公爵家のご当主は随分とお若いですね」
「私の息子ですわ。夫は数年前に病で亡くなりましたの」
「それは……お悔やみ申し上げます」
ややジェードの目を伏せるエアハルト。
「恐れ入りますわ」
リューディアは穏やかな表情だった。
「エアハルト様は……奥様とどのように過ごされているのでしょうか?」
リューディアは興味本位で聞いてみた。
「妻は元々体が弱く、数年前に先立たれました」
「まあ……お悔やみ申し上げますわ」
「痛み入ります。ですが、息子達は健在なので、クラルヴァイン商会は安泰ですよ」
フッと穏やかに微笑むエアハルト。
お互い見つめ合うリューディアとエアハルト。
ムーンストーンの目と、ジェードの目が絡み合う。
貴族の女性は後継ぎとスペア、子を二人生んだ後は愛人を作り恋愛を楽しむ者が多い。
リューディアは既に子を三人も生み、立派に育っていた。
そして夫を亡くしたリューディアと、妻を亡くしたエアハルト。
身分差こそあれど、二人の間に障害はほとんどない状態である。
二人の間のロマンスは、再びゆっくりと動き始めるのであった。
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