シーとカングー
澄み渡った青空のもと、納車されたばかりのGreenish blue(緑がかった青)のルノー・カングーで、東部自動車道路の東仙台港インターチェンジのETC専用のゲートを通過した。ポーンという機械音が鳴った。
カーブをスピードを抑えて我慢し、本線に合流した。日曜日でも、さほど通行している車輌はない。小さめのアクセルを大きく踏み込むと、外観からは計り知れないスムーズさで加速した。
日差しが、Greenish blueのフロントボディを賛美するように輝かせる。スピードメーターは、はやくも100キロを指した。フランス車特有の、強く柔らかな足回りがしっかりと路面を掴む。まるで4つの脚が地面を駆けているように……
カッ カッ カッ!
路面をしっかり掴む。
カッ カッ カッ!
吸い付くように……
流れるように……
カッ カッ カッ!
思わず笑みが溢れる。
なんという軽快な走り心地……
まるで生き物に乗っているような……
4本の頑丈な脚が、しっかり地面を蹴り躍動する。
バスのような大きなフロントガラスと、Greenish blueの鉄板がむき出しになった室内。飛行機の客室のようなたくさんの収納スペース。フランスの洗練されたフッションセンスが、あらゆる面で備わっている。
フランス自動車メーカーのルノーの、メタリック塗装でGreenish blueのカングー。最高の相棒になりそうだ。
もはやオレには、このルノー・カングーが単なる自動車ではなく、生命のある存在に感じられた。地面を大きな脚で掻くあの王蟲のように……
7年間も恋人でも友だちでもなく、不思議な関係を保った美沙と、いつもの居酒屋の個室のような席で向かい合いながら、よく外国車中心のファッション雑誌ENGINEのページを捲った。
ENGINEには、定期的に自動車評論家が選ぶ自動車のランキングが掲載されていた。ポルシェやフェラーリが上位を占める中、スポーツカーでもなくミニバンにさえ見える外観のルノー・カングーが必ずベスト10に食い込んでいた。
オシャレで外観からは想像できない上質な走り……
自動車評論家のおおよその評価だ。
価格もポルシェやフェラーリに比べれば格段に安く、普通の日本車と変わりない。
貯金をすべて叩けばなんとか買える。しかも、もう時期モデルチェンジしてしまう。
最後のチャンス……
購入を決意した。
王蟲カングーは、通勤に使った。仙台市内へ向かう国道4号線バイパスは、通勤時間帯はひどく渋滞する。
オレは、渋滞を避け国道と並行して走る有料の東部自動車道を利用した。こちらはスムーズに走れる。
朝陽が昇り、まっすぐ伸びるアスファルト道路はあたたかなオレンジ色に輝く。
まるで光の路を走るかのように……
エンジン音だけが、静かな朝に響く。
路面を掴んで走る王蟲のように……
カッ カッ カッ!
職場の近くの晩翠通りにある5階建の「大仙台駐車場」を利用していた。朝の7時から夜の19時の間なら、ビジネス料金で900円。螺旋階段を登るような屋内駐車場なので、冬場に雪が降っても影響はない。フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェ、メルセデスやBMWなど多くの外車も停まっていた。
一度いつもの居酒屋で飲む前に、「大仙台駐車場」で待ち合わせをして、ルノー・カングーを美沙に紹介した。とても美しいGreenish blueの小さなバスのような外観。大きなフロントガラス、鉄板がむき出しになった室内。たくさんの収納スペース。
美沙は、驚いた様子だった。
──とてもキレイなブルー。不思議な車。ユッキーらしいオシャレな車! アハハハ。
美沙の感想だ。
その年の秋が深まった11月……
オレの誕生日祝いを最後に、美沙はオレの前から姿を消した。しかし、いつかこのような別れが訪れる予感は、ずっとあった。
おそらく初めて出会った時から……
美沙の勤める夜のお店で、エレベーターの前まで見送りに来てくれた刺繍のある白いドレスの美沙の顔に、決意がみられた。
──ユッキー、またね!
美沙は美しい笑顔で手を振った。しかし、それはほんとうのサヨウナラのバイバイだった。
──美沙は白いドレスがよく似合った──
美沙が姿を消して最初の年を越した。
そして、ようやく冬の厳しさがいくぶん和らいだ3月11日……
未曾有の大地震が、東北地方を襲った。
オレは職場のデスクで、パソコンに向かっていた。初めは普通の地震だろうと思ったが、それは間違いだった。
激しく大きくあらゆるものを揺らした。天井の繋ぎ目からプレートが落下した。
悲鳴が聞こえ、身の危険も感じた。とてもとても長い時間だった。
地球が怒りをあらわした瞬間だった。
地震がようやくおさまったあと、ただちに外に飛び出した。
隣のビルの看板が落ちていた。尋常でないことを悟った。
すぐ近くの定禅寺通りには、たくさんの人たちが避難していた。ざわざわと人々の声で満ちていた。火事でもないのに、あたりが異様に煙っていたのが印象的でだった。
オレはごったがえす定禅寺通りを渡り、晩翠通りを南へ向かった。途中、古い木造家屋が屋根だけを残して崩壊していた。
急いだ。
寒さのため息は白い。
「大仙台駐車場」の王蟲カングーが、心配だったのだ。
──駐車場の天井が崩壊し潰れていないか?
5階建の「大仙台駐車場」のエレベーターは、当然使えない。螺旋階段のような駐車場を、駐車していた4階まで走って登った。
照明の消えた薄暗い中、ぼんやりとカングーは浮かんでいた。どうやら何事もないようだ。天井からの埃が、いくぶんフロントボディに落ちていた。
ホッとした。無事だった。
安心して、ふたたび晩翠通りに出ると、暗灰色の空からひらひらと細かな雪が舞っていた。3月でも雪の舞うとても寒い日だった。
そして、巨大な大津波が東北地方を襲った時刻が迫っていた。
世紀末のような異様な雰囲気の中、多くの人々は寒さに震えながらた佇んでいた。急ぎ職場に向かった。
定禅寺通りの欅並木の下には、やはり大勢の避難した人たちで溢れていた。交差点の信号機の明かりも消え、通りの車は渋滞し始めていた。そんな人たちの合間を縫って、白い息を吐きながらオレは急いだ。
職場に戻ると、すぐ帰宅するようにとの指示だった。充電式のポータブルテレビからは、リアルタイムでテレビ局のヘリコプターから撮影された映像が映し出されていた。同僚と黙ったまま、ポータブルテレビを囲んだ。
それはちょうど仙台市近郊の太平洋沿岸沿いの閖上地区が、大津波に呑まれる瞬間だった。
点在する人家が次々と呑まれ、人が走っていた。まるでスローモーションのようだった。田んぼや畑も呑まれ、道路に立ち往生した自動車も呑まれた。
映画だと思った。セットした模型に見えた。
しかし違った。映画ではない。現実だった。
黒い怪物が大きな口をあけていた。人が人家が車が大津波に呑まれる。地上のあらゆるものが呑まれた。
遠い未来……
キリストの再臨とともに「最後の審判」が行われ、すべての人々に天国か地獄かの裁定が下される。
しかし今起きている惨状は、「最後の審判」により、地球を我がもの顔で独占した身勝手な人間への神からの罰ではないのか?
すべての人間は神の怒りに触れた。
人類が滅びる光景……
信仰のないオレでも、ふとそんなことを感じた。
職場から外に出ると、やはり暗灰色の曇り空から小雪がちらついていた。
あたたかな太陽は、閉ざされたままだった。
ふたたびカングーの停めてある「大仙台駐車場」まで晩翠通りを南へ歩いた。
定禅寺の欅並木は、暗灰色の空の下無言だった。いつものように彼らの声を聴こうとした。
すごい揺れだった。
巨大な津波に人々が呑まれている。
真っ暗な冷たい水に堕ちて行く。
これはどういうことなのか?
いったい何が起こったか?
自宅までは、どの道路も大渋滞だった。ほとんど進まない車の中でラジオをつけた。大地震の状況が報道されていた。
CDに切り替えた。
The Beatlesの「Let it be」が流れた。ポールの歌声が聴こえて来た。
苦難の時には
聖母マリアが僕のもとに現れ
知恵のある言葉をかけてくださる
あるがままに
暗闇に包まれている時
彼女は光とともに僕の前に立ち
大切な言葉を投げかける
あるがままに
何事もあるがままに
無理にかえようとしてはいけない
知恵のある言葉をつぶやいてごらん
あるがままに
心に傷を負った人々が
この世界で生きるための
道がある
あるがままに
雲に覆われた夜に
僕の頭上に輝く光がある
明日へと導く光
あるがままに
音楽とともに目覚めると
聖母マリアが僕のもとに現れ
知恵のある言葉をかけてくださる
あるがままに
「あるがままに」は、「身をゆだねなさい」と訳す方もいるようだ。
困難な時に聖母マリアが現れて、知恵のある言葉をかけてくださる。
あるがままに
身をゆだねなさい
雲に覆われた夜に
僕の頭上に輝く光がある
明日へと導く光
オレはカングーのバスのような広いフロントガラスに身を乗り出して、暗灰色の曇った夜空を見上げた。
僕の頭上に輝く光がある
明日へと導く光
しかし、どこまでも暗灰色の曇った夜空の中に、光は見つけられない。
──聖母マリアは、本当に現れてくれるのだろうか?
美沙の顔が浮かんだ。
翌年、自宅からすぐの介護施設「しんせん長春館」に入居していた父が亡くなった。若い時から腎臓を患い、50代で週3度の人工透析を余儀なくされた身体は限界だった。
父は仙台市内の社会保険病院で、壊疽のため片脚を膝上から切断する手術を受けた。葬儀屋がやって来て、切断した片脚をを供養すると言った。
しかし父は、そのまま肺炎になり片脚を供養するとともに本人の葬儀になった。
退院したあと、片脚を失くした父をどう慰めるか苦慮していたが不要となった。
ルノー・カングーを購入したもうひとつの理由……
それは車椅子生活の父を、運べる車が必要だったのだ。
オレはもう一台、メタリックシルバーのMINIクーパーも所有していた。車椅子を乗せることは不可能なスポーツカー。
大きな存在意義を失った王蟲カングーを、万感の思いで売却することにした。大切なものを失う悲しさがあった。
しかしその売却代金で、ほんとうに待ち望んでいたものを得ようと決めた。
聖母マリアを……
仙台市近郊の名取市にある巨大なイオンモール「名取エアリ」。そこのペットショップ「ペットプラス」は、いつも買い物ついでに覗いていた。
兄の幼いひとり娘が、シーズーが一番かわいいといつも言っていた。いつの間にかシーズーがオレの心の中で大きくなり、かけがえのない相棒として迎えたい願望が強くなっていた。
夏の激しい日差しが弱まった頃。
メタリックシルバーのMINIクーパーで、イオンモール「名取エアリ」に向かった。澄み切った空に、太陽が輝いていた。
そこには聖母マリア。
そして
僕の頭上に輝く光がある
明日へと導く光
が待っているはずだ。
ペットショップ「ペットプラス」の大きなウインドウガラスの中に、白とゴールドの体毛の小さな小さな聖母マリアがいた。
つぶらな瞳。
シーズーのメス。
お店の若い女性店員に頼んで、ぬいぐるみのような小さな身体を抱っこした。命のぬくもりを感じた。顔を近づけると、すぐにピンク色の小さな舌でペロリとオレの顔を舐めた。
シーだった。
今日は休みだ。
気温がマイナスまで下がっている。東窓の古びたベージュのカーテンが、冬の朝陽で仄かに明るくなっている。
エアコンの暖房がついた部屋で、朝ご飯を食べたあと布団に入ると、すぐにシーが胸に登って来てオレの顔を舐め始める。いつもの儀式だ。しかも執拗に舐め続ける。
その瞳は何よりもまばゆい輝きだ。
──これからもよろしく、シーちゃん!
僕の頭上に輝く光がある
明日へと導く光