侵攻準備 (上)
温めた豆乳を鍋から丼にうつし、林麗は食卓につく。同僚の施明玉とルームシェアしているアパートのダイニングキッチンはひとりで座るにはがらんとして居心地が悪い。
買っておいた揚げ麺包をちぎっては豆乳に漬け、作業のように朝食を終える。味も何も感じない。
東京出張から帰国してすぐ、明玉は機密漏洩容疑で基地司令部直属の保衛管理部員に連行されていった。
この嫌疑が明玉の功績に嫉妬した上司の王強による言いがかりであることは、同僚の林麗だけでなく、部門全員がなんとなく気づいていた。だが、今の央独では真実は人脈や権力の前では重要でない。王強が欲しいものを明玉が持っていること、そして、王強が基地司令の王偉の甥であること、それが明玉の逮捕の背景の全てだった。
同僚として尋問を受けたのち、明玉が担当していた仕事も引き継ぐことになった林麗はいままでに増して多忙となった。しばらく基地に缶詰にされていたが、ようやくこの週末にアパートに帰ることができた。
保衛管理部が徹底的に家探しして荒らしていったアパート内を片付けたら、もう昨日までの週末も終わっていた。
今朝からはプロジェクト西嵐の新しいフェーズが始まる。林麗は手早く身支度を整えて出勤の準備を終える。
§ § §
亨鋒は空を仰ぎ見る。軽い船体は、不釣り合いな大馬力のディーゼルエンジンを停止したままいつになく静かな東支那海の波間に漂っている。時折エンジンを起動して、潮流に流された漁船を指示された位置近くに戻す以外にはただ待つことだけが亨鋒の仕事だ。
亨鋒の一族はずっと漁師だった。祖父は曾祖父が乗っていた小さな漁船を独りで操って近海の小魚を網で捕っていた、大戦後、祖父から漁船を引き継いだ父も、同じように漁師として生計を立てていた。亨鋒も漁師だ。いや、亨鋒はかつて漁師だった。だが今の彼は、父や祖父と同じ漁師ではない。
央独が建国してすぐ、国内の地域による貧富の差は広まり、沿岸部に富が集中するとともに金に群がってきた有象無象どもは、ただ正直に仕事をして倹しくも真っ当に生活してきた地元民の生活空間を奪い始めた。亨鋒の祖先からの漁場にも、旧来の小さな漁船の何倍もの排水量の大型船があふれ、海の深みから海面まで、まだ育ちきっていない稚魚から成魚まで、見境なく根こそぎの乱獲で、みるみる間に漁場は枯渇した。
追い立てられた従来の漁民は、外海に出て周辺国の漁場から盗むように漁をすることを余儀なくされた。央独人民独裁軍から僅かな小遣いを得て、周辺諸国の領海や接続水域に入り込み、海賊行為・密漁・違法薬物の密輸と、ありとあらゆる種類の違法行為にも従事した。条約で保護された公海海底の珊瑚や海底資源を盗るものもあった。
それ以外に生活の手段がなかったというわけではない。ただ、周囲を塗り尽くした拝金主義に侵されて、亨鋒たち地元民も従来どおりの質素でも正直な生活に飽き足らなくなっただけである。央麗人民独裁国の発展の歴史は、その地に昔住んでいた民の生活規範であったはずの道徳・善・美徳といった文化の急速な破壊の歴史でもあった。
今日、亨鋒が船を出しているのも、漁をするためではない。
亨鋒は央独人民独裁軍から命令されて、央独沿岸の中規模都市、寧浬の東南東沖100kmほどのこの地点でただじっと漂っていた。
大陸の央麗人民独裁国から幅200kmたらずの美麗海峡を隔てた対岸には、自由主義陣営国家である美麗島がある。亨鋒が停船しているのは、美麗島の北端からさらに350kmほど北に進んだ位置にあたる。
待っていれば、何かが起こる。見たものを記録して、精確な時刻と位置とを軍に報告する。そのために、北斗衛星測位システムの受信機を貸与されている。
それが僅かな小遣いを対価として亨鋒に与えられた任務であった。
東支那海の美麗島北の海域には、今朝夜明け前から亨鋒の船と同様の漁民崩れの船が無数に漂っていた。
もう一度、雲一つない空を仰ぎ見てから、かんかん照りの陽光を避けるために亨鋒はキャビンに戻った。
§ § §
天洋第二砲兵隊基地にある4階建て本部指令塔の最上階にある展望管制室には、プロジェクト西嵐のメンバーが集合していた。
数週間前に央独初の人工知能制御式最新鋭巡航ミサイルXL−47型の試験飛行を成功させたプロジェクトである。
航行管制の実務を展望管制室で担当するのは、王強技術大尉である。
一階下に置かれた航路監視部隊は央独海軍の指揮下で東支那海各地に散開した偽装漁民船団による監視ネットワークからの報告を管理している。
王強の叔父でもある基地司令の王偉少将は航路監視部隊と王強の航行管制部隊との両部門を統括する立場にある。
央麗人民独裁国によって大々的に報道された前回の試験飛行のときと異なり、今日予定されている西嵐XL−47型の飛行はプロパガンダ放送用の見世物ではなく、間近に迫った実戦配備のための最終確認を目的とするものである。
高度な飛行制御用のAIを東京の東都工業大学の技術と計算機資源を盗用して農業用ドローンの操縦用として調整し、さらに、ミサイル西嵐XL−47型の制御系を無理矢理に改造して、その操縦入力系が受け入れる制御信号を農業用ドローンの操縦系のそれと似せるように模倣した施明玉と林麗との発想は卓越したものであった。
それによって、農業用ドローンを操縦しているつもりになっている飛行制御AIは、自分でもそうと知らないうちに最新鋭の巡航ミサイルを見事に操縦してみせることになる。それが前回の大々的なプロパガンダ試験飛行の内幕である。
しかし、やはりミサイルのために作られた制御系はそのままにして、その制御系に適した調整を施したAIで飛行させるのが本来の姿である。
この数週間、林麗は再び東都工業大学から盗用して本来のミサイル制御系に特化したAIの調整を進めてきた。
もともとこれは明玉が行なうはずの仕事だったが、さきの試験飛行で挙げた功績を妬んだ王強によって明玉が排斥されてしまったため、東都工業大学に留学している明玉の妹・施明華を央独人民独裁軍の兵器開発に協力させるのは林麗の仕事になっていた。
西嵐XL−47型の本来の目的は美麗島への侵攻作戦の尖兵となることであり、そのための準備が完了したことを郗緊缾央麗人民党総統直轄の中央保衛安全部の査察官相手にデモンストレーションするのが今日の飛行の目的である。
査察官は神経質そうな男だった。肉の薄い顔に銀縁の眼鏡を掛け、7・3に分けた髪をきちんと撫でつけている。痩せて背は高く、軍服でなく背広姿には名札も階級章もつけず、天洋第二砲兵隊基地の基地司令である王偉少将に対してさえまともに名乗りも挨拶もしない。何一つ見逃さないぞ、と言わんばかりの態度で鋭い目を巡らせ、展望管制室の中央で睨みを効かせている。
現場責任者である王強技術大尉はこの査察官の機嫌をどうとったものかと当初は悩んでいたが、相手が世辞にも謙遜にも反応しないのを見て結局、査察官の存在自体を無視することにした。おべっかを使おうがどうしようが、自分が見たことだけを元にして中央保衛安全部への報告を持ち帰るつもりなのならば、必要最小限以上にはなるべく関わらず、質問されたことにだけ答えているのが最良だろう、と判断したのである。
本日の演習では、天洋第二砲兵隊基地から2基、寧浬沖30kmに配置した蘭州級ミサイル駆逐艦西南から2基、合計4基の西嵐XL−47型巡航ミサイルが美麗島の北端から350kmほどの東支那海公海上に設定された海上目標に向けて飛行する。それに合わせて、央独空軍の攻撃作戦機40機も同時に侵攻作戦演習を実行する。
天洋から発射する2基のみならず、ミサイル駆逐艦西南から発射される2基の管制も、天洋基地に置かれたプロジェクト西嵐の管轄であった。自律型の巡航ミサイルであるから、管制とは行っても航行制御命令をいちいち基地から発するのではなく、軌道を追跡して記録する、といった、あくまで受動的な管制である。
(この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません)




