神の裁定(アニエス)
山の家の暮らしで、アニエスは家事をし、糸を紡ぎ、機織りをした。レオナールは、ヤギ二頭とヒツジ四頭を飼い、冬用に干し草を作り、チーズと干し肉を作り、薪を作って貯えた。犬のトマスは、レオナールを手伝ってヤギとヒツジが迷子にならないよう気を配り、幼いエステルの遊び相手になった。
「レオナール、麓の村へ行って、この布と小麦を交換してもらってきてくれないかしら」
女神アニエスに言われ、七色に輝く布をしょいこに乗せたレオナールは山を下り、村で人びとと交渉したのだが、誰も応じてくれず、むしろ管理人の使用人たちに追い払われてしまった。
「すみません。売ることができませんでした」
しょんぼりと帰ってきたレオナールに、女神は慰めの言葉をかけた。
「しかたないわ。そろそろパンがなくなりかけてきたので、焼きたかったのだけど」
と、言ったあとで、つぶやいた。
「役に立たない村は、いらないわね」
それは考え込んでいるレオナールには、聞こえなかった。
「そうだ、山の尾根づたいに行けば、私がいた修道院があります。そこで分けてもらえるかもしれません」
「まあ、それはいいわね」
女神は、レオナールを送り出した。
彼は尾根づたいの道を歩き始めたのだが、それは女神が彼のために作った道とは知らなかった。
彼が行ってしまうと、女神はエステルを相手に山の家の前の花畑で花の冠を作って遊んだ。
エステルは五歳の頃に戻り、モンドールでの悲惨な記憶を忘れ、もう一度人生をやり直していた。
彼らがそこにいる間、麓の村では突然、井戸水が枯れ、なにをやっても復活しなかったので、暮らしていけなくなった村人たちは、その地を棄てた。
管理人の男は、レオナールたちに唾を吐きかけたときから、よだれが止まらず、牛のように垂れ流し続けていた。その上、話すときは罵り言葉しか出て来ない。
村人が土地を捨て、税が送られてこなくなったため、クレメンス伯爵家から監査の人間がやってきた。それに対しても、管理人の男は罵声を浴びせたので解雇され、収入が途絶えた男に家族も愛想をつかして離れて行った。
男は、よだれを垂らしながら流れていき、王都のスラム街で凍死するのは、このあとの冬のことである。
一方、クレメンス伯爵家では、仲の良かった長男と次男がささいなことで口論となり、剣をとっての殺し合いのあげく、二人とも刺し違えて死んだ。さらに、この二人の葬儀のとき、長男と次男の子どもたちも幼いながらナイフを持って殺し合い、全員が死んでしまった。
この事態に、クレメンス伯爵夫妻は、ぼう然となって引き籠ってしまい、長男と次男の妻たちは実家へ帰ってしまった。
そして兄たちの葬儀のために隣国の婚家からやってきた妹は、帰路、馬車の事故で亡くなった。
王都では、クレメンス家の悲劇に戦慄し、さまざまな噂が飛び交った。「呪いだ」という者、「悲惨な偶然だ」という者。ただ、「後継は死ぬ」という話も流れ、分家から養子に来る者もなく、いずれ爵位と領地は王家へ返上されるのだと、誰もが思ったのだった。
しかしこれは、エステルとレオナールが知らないこと。女神だけが知っていることだった。
レオナールは山道をたどって、かつていた修道院にたどりついた。
彼は今、山で平民として暮らしているとだけ話し、小麦を分けてくれるよう頼んだ。修道院長は快く小麦を布と交換し、ワインももたせてくれ、その荷物持ちとして、下僕をつけてくれたのだが、何故か下僕は道の上にあがれなかった。
「どうしたんでしょうか」
レオナールにも分からなかったが、ワインを丁重に断り、彼は家路を急いだのだった。
この妙な現象に、修道院長は考えを巡らせ、ある結論にたどりついた。
彼は祭衣を脱いで、粗末な修道衣に着替え、王都へ出掛けた。中央神殿の大神官に会うためだった。
その頃にはレオナールは山の家へ着き、アニエスとエステルに迎えられて、楽しい食卓を囲んだ。
平穏な山の暮らしに変化が起こったのは、それから三日後のことだった。
遠くからラッパの音が聞こえ、様子を見るため外へ出たレオナールは下から華麗な行列がやってくるのを目撃する。
ラッパ手、国王の軍旗を持った小姓を先頭に、騎士たちに護られて、マントをはおってきらめく王冠をかぶった壮年の男性が白馬に乗って坂道を上がってくるのだった。
王と並んで、白い祭服と法冠を身に着けた老人が輿に乗っている。
「あれは、なに?」
エステルが外に出てき、レオナールに尋ねた。
「テルミナールの王様と大神官様だよ」
レオナールが答えたとき、一行は互いの顔が見えるほど近くに来た。
行列の最後尾には、粗末な道着姿の修道僧がいる。
「修道院長様も、いらっしゃるな」
レオナールがつぶやいたとき、アニエスも外に出てき、エステルの横に並んだ。
「偉大なるテルミナールの大神官・ブルネスキ様。テルミナールの太陽、オヴィディウス国王陛下が行幸されました!」
先頭の小姓が馬を降り、叫んだ。
彼ら貴人を見、小姓の言葉を聞いたエステルが目を大きく見開き、身体を震わせて大声を上げた。
「いーやあああっ」
「エステル?」
驚いたレオナールが傍らをみ、アニエスはとっさに抱き上げた。
「ころされるっ。あのひとたちが、わたしをころすの!」
「大丈夫。落ち着いて、エステル。誰も、あなたを傷つけることはないわ」
アニエスが喚いて暴れるエステルをきつく抱きしめ、鋭い眼差しを王と大神官に向けた。
そして右手を差し伸ばし、人差し指でピンと弾くと、王と大神官、その取り巻きは一瞬で姿を消した。
「ね? もう誰もいなくなったわ」
言われて、おそるおそる振り向いたエステルが見たのは、草地に一人の老いた修道僧がひざまずき、頭を垂れている姿だけだった。
「あのひとは?」
「かあさまのお客様なの。中へ入って、レオナールと遊んでいてね」
しゃくりあげながら、エステルはうなずいた。
それに微笑みかけ、アニエスはエステルをレオナールに渡した。
エステルをだっこしたレオナールが家の中へ入ってドアを閉めると、アニエスは修道僧へ向き直った。
「ドメニコ修道院長、そなただけですね、礼儀を知っていたのは」
「恐れ入ります」
と、修道院長はさらに深く頭を下げた。
「新たに我がテルミナールを守護されることになった女神アニエス様に、ご挨拶申し上げます。わたくしは神のしもべ、ドメニコ・アクィナス。ご尊顔を拝することができ、身に余る光栄でございます」
「よい。おもてを上げよ」
修道院長が顔を上げると、そこには先ほどまでいた地味な女性ではなく、黄金の髪をした光り輝く女神がいた。
女神は、地面から伸びた草のつるがたちまち編んだ玉座へ座った。
「シエルの代わりにテルミナールを守護することになった、アニエスです。よろしく」
と、そのとき二人の間に、突然、空中から少年が姿を現した。
金色の髪をして緑色のチュニックを着ている。
「やあ、アニエス」
「サラザールのアレス。何の用かしら? 今、取り込み中なの」
「それは悪い」
と言いながら、少しもそうは思ってなさそうに、アレス神が続ける。
「君とシエルがいない間にまた会議があってね。実は、シエルが大空にモンドールの裁きの様子を映し出していただろ? それを見た各国の人間たちが騒ぎ出し、自分たちの国の王と神官をよくよく調べたら、似たようなこと、つまり聖女を都合よく利用していたことやさまざまな不正が発覚して、他の神々も大騒ぎさ。で、話し合って、もう聖女はつくらないことになった。今、生きている聖女を最後に、神はヒトに干渉することを止めると決めたんだ。それを伝えに来たのさ」
「聖女が……もう、生まれない?」
ドメニコが、ぼう然とつぶやいた。
それを耳にしたアレスが二人に告げる。
「だってさ。聖女を通じて手助けしようにも、ヒトは私利私欲に聖女を使って、大切にしようとしないじゃないか。モンドールのエステルほどひどくはないけど、意地悪したり監禁したり、金儲けや権威づけの道具にしたり。これじゃ、聖女になった子が、かわいそうだよ。これからヒトは、ヒトの努力で何とかするさ。神助は、それにふさわしい者に対してする」
「そのほうが、いいかもしれないわね」
二柱の神の言葉に、修道院長が絶望の表情をした。
「直接、神意は届けないけど、見守ってはいるよ。……ということで、じゃね」
来たときと同様に、アレス神は唐突に消えた。
「アニエス様、我らはどうすればいいのでしょう。これまで聖女によって防がれてきた魔獣の害を、治癒の魔法を無しに、どうやって生きていけば……」
「そうねえ。この場に、あなたがいたのも、何かの運命ね。私に出来ることを考えておくわ」
答えたアニエスが手を振ると、修道院長の横に、きらびやかな服装をした王と大神官が現れた。
「あなたたち、わたくしに挨拶に来たのよね? このドメニコのように」
アニエスが言うと、王と大神官はひざまずき、うなずいた。
「でも、わたくしは仮装行列を見たかったわけではないの」
「そ、それは……女神さまがここにおいでと修道院長から聞き、ご挨拶にまかり越した際には、正装をするのが礼儀かと」
「あら、うちの子は、その地位ある正装をしたヒトたちに殺されたのよ。シエルが自分の聖女の過失だと言って、命の一部を分け与えて生き返らせたけど。あなたたちヒトの間での正装って、あなたたちの取り決めでしょう? 王や大神官に貴族や平民がまみえるときの。あなたたち、わたくしを下に見たのよね。守護神にとって、その国の民は等しく愛しい子ら。わたくしからすれば、ヒトの身分なんて関係ないの。巡礼のとき、身分にかかわらず、同じ服装をするでしょう? 神に相対するときの服装は、ドメニコが正解」
女神の言葉に、王と大神官は頭を垂れた。
そのとき、王太后がその場に姿を現した。
「グエン、テルミナールの聖女よ。命永らえたいがために、次代の聖女を追放した愚か者。安心するがいい。そなたのあとに、もはや聖女は生まれぬ。生き永らえたいという、その願い、聞き届けた」
女神アニエスが告げると、安堵の表情を浮かべた王太后は消えた。
「母が死なずにすむとは、まことですか」
王が勢い込んで言った。
「まことだ。しかし、王よ。次代の聖女を棄てた、そなたの血筋が王となることを、わたくしは許さぬ。帰って他のものどもと協議せよ」
驚きの表情のまま、王も消えた。
「大神官ブルネスキ、そなたの信仰心と行いは、シエルも満足するものであった。が、神殿内に不正があるな。見逃した罪は問わぬ。だが、不正をただしたのち、引退せよ。そなたは長くその地位に居すぎた」
「はっ、仰せの通りに」
頭を下げた姿で、大神官は消えた。
「さて、ドメニコ修道院長。先日は小麦粉をありがとう。おいしいパンが焼けた。わたくしはしばらくエステルを育てるために、ここへ留まります。このことは口外せぬように」
それだけ告げて、アニエスはまた地味な女性の姿に戻り、家の中へ入って行った。
それへ一礼した修道院長は、一度レオナールに相談を持ちかけようと思いながら、山を下ったのだった。
この一週間後に、またレオナールが山の道伝いに修道院へ赴くと、そこには修道院長と共に、王と大神官と二人の同僚が待っていた。同僚とは、『銀のレオナール』と呼ばれた頃の三騎士の他の二人、『金のローラン』と『赤銅のグレン』だった。ローランはその美しい金髪から、グレンは燃えるような赤髪からの呼び名だ。
「レオナール、どうか女神さまへとりなしてもらえないだろうか」
修道院長が懇願する。
神殿においては、現在、不正をただしている最中なのだが、次の大神官には誰が良いか、という相談。
大神官は、五人の候補者の名を羊皮紙に書いてきて、それを見せた。
次に王が語るには、貴族たちを招集した大会議を催して、女神の神託を報せたのだが、神罰をおそれて誰も名乗り出ず、次の王が決まらない。
「そなたをないがしろにしたクレメンス家のことを皆が知っておるからな」
と、そこでレオナールは実家で起こった悲劇を知った。そして両親が爵位と領地を返上して、修道院に入り、祈りの生活を送っていることを。
「そうですか。兄たちと妹が……」
ショックを受けたレオナールが黙り込む。
「そこで、僕たちではどうか、と他の貴族たちが言い出したんだ」
と、ローランが言う。
「ぼくとローランは騎士として民に人気があるから、いいだろうって。それはないよな。陛下のまつりごとに、落ち度はなかった。ぼくらに政治なんて、できないよ。三騎士からっていうんなら、レオナールがなればいい。君は女神さまに気に入られているんだから」
と、続いて、グレンも言う。
「いや、私はエステルについていたい。王なんて、私も務まらないよ」
レオナールは即座に断った。
「わしは王を辞めたら、平民になろうと思う」
王の言葉に、レオナールは顔をそちらに向けた。
「陛下、そこまでご決意なされましたか」
「母の王太后は、女子修道院へ入った。わしらは大罪を犯したのだからな」
「お止めしたんだ。下々の暮らしをなさったことのない陛下が耐えられるか。また、お命を狙う奴らがきたら、どうされるのか。お妃様は実家へ戻られるからいいけれど、王子たちと幼い姫はどうなさるのか、と」
ローランの危惧に、レオナールは考え込んだ。
「不遜ながら、アニエス様にお伺いを立てよう。私は罰を受けてもかまわないから」
と、レオナールは小麦と布を交換したのち、帰っていった。そして、アニエスに訊くと、意外にも答えをくれ、次の大神官は羊皮紙にしるしをつけ、王は貴族になろうが平民になろうが、かまわない、との言葉を告げ、次代の王はローランとグレンが十年交代ですること、他の者は彼らを助けること、と助言した。
レオナールは再び修道院を訪れ、女神の言葉を伝えたので、次の大神官が決まり、王は土地をもらって裕福な平民となり、テルミナールでは二つの王家が交代で王となって統治し、会議を開いて広く人びとの声を聴く国となった。