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8 おやすみの儀式

 タワーホテルの屋上にエアカーが着陸する。ホテルスタッフは、最上客を待ち構えていた。アレックスはひみこを抱えるように降りる。

「大丈夫だって! もう歩ける!」

 抱えられた少女は抵抗するが、そのままスタッフが用意した電動車椅子に座らされた。



 ベッドルームで、ひみこはスタッフの手で、裾の長いワンピースに着替えさせられた。

 スタッフが去り、ソファでぼけっとしているところ、アレックスがドアの向こうから「ひみこ、入るよ」と呼びかけた。

 少女が答える前に男は入り、空いたソファを傍に寄せて座った。


「そうしていると、普通の女の子だね」と、長い腕を伸ばしやわらかな頬に触れた。

 ひみこの長すぎた髪はほどよい長さに切りそろえられ、背中に流れている。今どきの服に身を包む、日本のどこにでもいる少女。林の奥の古い家で暮らす先住民族の面影はない。


「いきなりで疲れただろう? 何か欲しいものはないかい?」

 アレックスは少女の艶やかな髪を撫でた。

 親にも頭を撫でられた覚えのないひみこは戸惑いつつも、その温かさが心地よく、ついこぼしてしまう。


「もう家には戻れないの?」

「ひみこは、戻りたいのかい?」


 少女は首をかしげてこぼした。

「親には会いたくない。でも、いろいろ置いてきちゃった」

「東京の家の荷物と同じものを、札幌で調達しよう」


「じゃ、タマ、元気になるよね?」

「タマ?」


 ひみこは、アレックスに腕時計を見せた。

「こっちに来てからタマ元気ないんだ。アレックスと話す時は出てくるけど、それだけ。話しかけても全然答えてくれない」


 彼女は、壁にかけられた大きなモニターを指差す。東京にあったモニターの倍の大きさで、横幅は二メートルもある。

「うちにもこんな感じのテレビがあって、タマの本体はそっちにいるんだ。テレビを持ってきてくれれば、元気になると思う」


「ひみこ、わかったよ。君の『タマ』は何とかしよう。それより」

 アレックスは立ち上がった。


「そろそろディナーにしよう。今日は僕と君が出会った特別な日だ。地球だって、大型脊椎動物の摂取を許してくれるだろう」


 少女は、ディナーが豪華な夕飯ということは理解していた。分厚い肉にトロトロのソースがかかっているアレだ、ドラマで見た。大型脊椎動物? 許す? の意味はわからなかったが。



 スイートルームのダイニングテーブルで、食事が始まる。

 メインディッシュはバジルを添えた蒸し鶏。オリーブオイルがかかっている。ひみこは初めて鶏肉を目にした。

 つやつやの鶏の皮が食欲をそそる。支給品のイナゴの袋詰めとは違うお金持ちの食べ物だ。

 ずらっと並ぶナイフやフォーク。いつもなら手づかみで食べるが、多分違うんだろう……向かいの男を観察する。

 男は少女の眼差しに気がつき、席を立って、後ろに回った。


「好きに食べてもいいけど、基本のテーブルマナーは知って損はないからね。外側のカトラリーから使えばいい。ああ、そんなに握りしめなくていい、力を抜いて……そう、上手だね」


 ひみこは、アレックスに手を添えられて、ぎこちなくも鶏肉を切り分ける。恐る恐る肉をフォークに挿して口に運んだ。

「柔らかい」


 彼女は、肉、というものを初めて口にした。この柔らかさは、芋や飯とは違う。柔らかいが肉の繊維がほつれて絡み合う不思議な食感。

 ひみこは夢中になり、鶏肉をカチャカチャと乱雑に切り分け、ガツガツと頬張る。


「君が喜んでくれてよかった」

 アレックスはニコニコと、少女の肩に手を添えた。


 ディナーの後、客室係の女性が、ひみこにバスルームの使い方をレクチャーする。

 ちゃんとしたバスタブにひみこの心は踊る。しかも自分専用で毎日入れるのだ。

 家に風呂はあったが給湯設備が故障し使えず、週に一度ドラム缶に湯を張っていた。もっと風呂に入りたい、と親に訴えたが「あんたが自分で沸かしな」と母に言われ諦めた。


 通訳代わりの腕時計は着けたままで服を脱ぐ。知らない人の前で裸になるのは相手が女性でも抵抗がある。

 ラベンダーのミストで満たされた空のバスタブに入る。と、茶色い泥状のソープがバスタブの側面の穴からにゅるにゅると出てきた。

 泥のソープがひみこの全身に、意志を持ったかのようにまとわりついて動く。


「やだキモい!」とひみこは顔をしかめる。

 今度は、バスタブの別の穴からお湯が張られ、また泥と同じように水が「キモい」ほどまとわりつき泥のソープが流された。


 どうにも気持ち悪い洗浄が終わると、お湯が張られる。照明が落とされ星空が映し出された。古代中国を思わせる二胡の音色が流れ、星がゆらゆら点滅する。ラベンダーのアロマ効果もあり、ひみこは眠たくなってきた。



 パジャマを着せられ、客室係に導かれるまま、ふかふかキングサイズのベッドに沈み込んだ。

 ベッドルームも先ほどのバスルームと同じように、薄暗い星空の中、二胡が静かな旋律を奏で、ラベンダーの香りが漂っている。

 客室係は「何かあったら、ダヤルさんにお願いします」と出ていった。



「このベッドで一人かあ」

 東京の古い家では、床に布団を敷いて三人で一緒に眠っていた。


『父ちゃん、あたし、一人で寝たい!』

『布団が二枚しかないんだ、我慢しろ』

『母ちゃん、布団作ってよ』

『あたしにできるわけないだろ。それより父ちゃん、役人に掛け合って』

『できるか! お前、働けよ。布団ぐらい買えるだろ』

『母ちゃん、そんならベッド買って! あたし干すのメンドクサイ』


 この大きなベッドなら、三人一緒に余裕で寝られるなあ……と、ポヤポヤ思い出していると、ベッドルームのドアがコンコンと鳴った。


「入っていいかい?」

 アレックスの呼び声で、パジャマのひみこは「ま、待って!」と声を張り上げた。


「いいよ。そのままで」

 男は、ひみこの了解を待たず入ってきた。慌てて毛布に身を包む。


「大事なことを僕は忘れていた」


 男はベッドに腰を下ろし、少女の身を引き寄せ、顔を近づけた。


「おやすみ」

 ひみこの頬で、小さな破裂音が鳴った。


 それは、そっと軽く唇を触れさせる、優しいキスだった。

 が、彼女にとってそれは全く未知の接触であり、衝撃の体験だった。


「うぎゃああああああ」


 少女は叫び、暴れ、手足をばたつかせ、アレックスの胸を突き飛ばし、唇が触れた頬をゴシゴシとこする。


「僕らはこれから家族になるんだ。家族はみんなお休み前にキスをするんだよ」

「しねーよ! 父ちゃんも母ちゃんもあたしもそんなこと、しねーよ!!」

 ひみこは、毛布を身体に巻き付け、アレックスを睨みつける。


「可哀相に、パパとママのキスも知らないで育ったなんて……」

「知りたくないよ!!」

「ひみこ、君がパパとママに愛されなかった分、これから僕が、家族として君を守り愛してあげるからね」

「いらない! 出てけ!!」


 ひみこは、手元の枕をアレックスに向かって投げつける。

 が、枕は彼に当たらない。

 男は「いい夢を見るんだよ」と告げて、ドアの向こうに消えていった。



 ひみこは生まれて初めてキスをされた。

 父と母にもされなかったことを、赤の他人にされてしまった。

 日本語族の少女は、目まぐるしい一日の終わりに混乱の渦にいた。


 キスはやばいって! 頭を撫でるとか、手をつなぐならともかく……いや、あの人はお金持ちの外国人だ。ドラマでも外国人はよくほっぺにチューしてた……でも……『パパとママに愛されなかった』……わかってる、そんなこと、何とも思ってない……タマさえ元気になれば……家に置いたテレビを持ってきてくれれば……


 ひみこの思考はそこでストップした。ベッドルームに満たされたミストの効果で少女は深い眠りについた。



 一時間後、再びアレックスがひみこの部屋に入ってきた。

 彼は、守るべき少女の寝顔をじっと見つめ、か細い手首に触れる。そこには通訳代わりの黒い腕時計が、しっかりはめられていた。

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