69 旅立ち
逃走劇は振り出しに戻った。ひみこの目の前に、鬼が立っている。が、彼女は覚悟を決めて、向き直った。
「ごめんなさい! 私、アレックスを可哀相と思ってるし、感謝もしている。でもね、やっぱり結婚は無理なの!」
ひみこはアレックスに頭を下げた。そこへフィッシャーが割り込む。
「冗談じゃない! 私の五年間を返せ! やりたい研究は全くできず、そっちの教育と警護ばっかりだったんだ!」
「フィッシャーさんもごめんなさい! 私はいなくなるから、これから好きな仕事してください!」
「私の失われた五年間は取り戻せないんだよ! そちらが結婚してくれない限り」
口撃が止まらない秘書の肩を、上司がポンと叩いた。
「アーン、ここは僕に任せるんだ。僕の部屋でアイーダが一人で待っているから、相手をしてほしい」
フィッシャーは耳をピクっとさせる。アレックスの部屋にアイーダ? なぜ? が、秘書はそれ以上考えることはせず、上司の指示に素直に従い、屋上を後にした。決して大女優の名前に惹かれたわけではない。
アレックスは秘書が去ったことを確認すると腕を伸ばし、ひみこの頬にそっと触れた。
「アタリマエダ。キミハ、ワカイ」
ひみこは、またアレックスの日本語を耳にした。
初めて聞くが、彼の言葉は驚くほど流暢だ。
「君はこれから、いくらでも君に相応しい男に会える」
男の微笑みは穏やかで、普通にいい感じの……おじいちゃんだ。
「アレックス、日本語話せるんですね」
ひみこは、彼が『カタカタした原始人みたいな言葉、好きじゃない』と言っていたことを思い出す。
「僕のウシャスは特別だから、どんな言語も簡単にマスターできるんだ。君はこれからどうするつもりだい?」
ひみこは、この人、あたしよりきれいな日本語を話すな、と、感心する。
「東京に戻って親を待ちます」
「わかった。その前に、君にプレゼントだ」
アレックスは、ガウンのポケットから、指輪を取り出した。イエローゴールドのリングに大きなルビー。彼がひみこへ贈った婚約指輪だ。
「ごめんなさい! そんなすごい指輪、受け取れません!」
「そうか。残念だな。では、こちらはどうかな?」
老人はポケットから、今度は黒いリストバンドを出した。
「あれ? タマみたい」
「君の左腕を出してごらん」
アレックスは、黒いバンドをひみこの左手首に重ねた。
と、彼の持つバンドがキラキラ光りだした。
「にゃあ」
本物の猫に近い鳴き声。バンドにはリアルな三毛猫が表示されている。
「え? タマ? でもカッコよくなっちゃってる」
「デザインが気に入らなかったら、このボタンを押すんだ。オリジナルモードになる」
ポチっとボタンを押すと、ひみこに馴染みのゆるキャラのタマが表示された。
「ニャア」
声もぎこちない。
「へへ、コッチの方がいいかな?」
アレックスは、ひみこの腕から古い時計を外して、ほとんど見かけは変わらない黒いバンドを着けた。古い時計も彼女に渡した。
「さすがに五十年前のデバイスではいつ壊れてもおかしくないだろ? ダヤル本社に作らせた。このバンドの中にサーバー本体全てが組み込まれている」
「……アレックスは、タマが戻ったの知ってたの?」
「君がいつも話しかけていたじゃないか」
男はくしゃっと笑った。
「それと少しだけサービスだ。君がしたいことを、タマに言ってごらん」
「えーと……お腹すいたなあ」
するとひみこの左手がキラキラと光り、空中に地図が表示された。
「にゃに食べたい?」
パワーアップしたタマが尋ねた。
「え、えーと、ステーキとか?」
「それはダメだにゃ」
アレックスがカラカラと笑う。
「ひみこ、僕と結婚すれば、マグロもステーキも食べ放題だよ」
「いい! いらない!」
少女は首をフルフルふった。
「ははは、またフラれたな。そう、君のアクセス制限を解除したよ。IDを使って、警察だろうが今まで知り合った人間だろうが、自由に連絡するがいい。君のタマが方法を教えてくれるよ」
「アレックス、ありがとう」
「公式サイトに来た君宛てのメッセージも自由に読める。日本語族保護局からのメッセージは先に見た方がいい」
老人が顔をエアカーに向ける。扉が開いた。
「君がエアカーを自由に使えるようにした。距離ごとに料金が加算されるから気をつけるんだ。口座の管理も君のタマが教えるだろう」
アレックスはふいにひみこの体を抱き寄せた。
「あ、あたしは!」
「わかっているよ。でも、少しだけこうしていたいんだ」
二人の上に、雪が降り積もる。
ふいに、男は少女の身体を離す。と、唇をひみこの唇に近づけてきた。
「ぎゃあああ、やめろおおお!」
「ははははは、君のその顔が見たかったんだ」
そういって、少女の小さな頬にキスを送った。
少女はエアカーの入り口で立ち尽くす。
いろいろとこの老人には困らされた。脅迫され結婚させられるところだった。が、彼に出会わなければ知ることがなかった世界がある。
ふと、腕を伸ばしてみる。アレックスがその腕を取り手の甲に唇を寄せた。
ぼんやりと……このおじいちゃんのほっぺにキスしたら、喜ぶかな? と思う。
いや、それはダメだ。
ひみこは、彼に取られた手を引っ込めた。
「今までお世話になりました。本当にありがとうございます」
ひみこは最後の日本語族の誇りをもって、深々と頭を下げた。
「もう、行くんだ」
トン、と、アレックスがひみこの背中を軽く押す。エアカーの中に彼女は転がった。
扉が自動的に閉まる。車は上昇し、札幌の雪空を飛んでいった。
男は大きく手を振って、結婚するはずだった少女の旅立ちを見送った。
「ひみこ……よかったよ。君に最後のプレゼントを渡せて」
彼は、日本語でも共通語でもなく、父から受け継いだ言葉で、ぼそっと呟いた。
最後のウシャスの力を、彼は日本語の超短期学習に費やした。ものの五分で言語をマスターできるが、ラニカが与えた特別な力を消費する。
全ての力を使い果たした彼の体を、強烈な睡魔が襲う。その場で崩れ落ち、雪が積もるホテルの屋上で眠った。
駆け付けたアイーダとフィッシャーがホテルスタッフを呼び、彼の身は担架で運び出された。




