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66 記憶の扉

 アレックスの記憶。忌まわしい記憶。蘇る記憶。

 あの日の記憶──



 天才技術者ラニカ・ダヤルは、心と心をつなぐ脳情報通信装置に、夜明けをもたらす曙の女神「ウシャス」の名を付け、開発に心血を注いできた。

 前世紀から開発されてきたこの技術を高めるため、他人の脳情報を受けるチップをラニカ自身の脳に装着し試験を続けた。

 彼女の心は強靭だった。どのような怨念だろうが悪意だろうが、その脳は受け止めてきた。

 が、開発から二十年──休まることのなかった彼女の大脳は、限界を迎えた。


 医師は宣言した。


『ダヤルさんからチップを外すべきです。大脳に負荷がかかりすぎで、肉体の維持が困難になります』


 一人息子、アレックスは悲壮な顔で医師に確認する。


『ラニカはどうなるんですか!』


『あなたのお母さんは、記憶領域をチップに依存している状況です……外したら……最悪、ラニカ・ダヤルとしての自我はもう、保てないかと……』


『母は、ダヤル社のことも、僕のことも、忘れてしまうのでしょうか?』


『その可能性は大きいかと……』


 息子は覚悟を決めた。


『母がこれ以上苦しまないようにしてください』



 ラニカはダヤル社の開発チームに告げた。


『脳情報通信ウシャスは、使用者の脳を守るべきものです。みだりに使われないよう、自動制御を加えること……私のようになります』


 誰もがラニカの言葉を泣きながら受け取った。



 母と息子は、手術の前、硬く抱き合った。


『アレク、誰よりもあなたを愛してるわ』


『マンマ! 僕こそマンマがどうなっても愛してるよ!』


 傍らで、新進気鋭の女優として活躍するアイーダが、涙を流している。


『アブリエット、いい子ね……お願い……アレクは弱い子だからあなたの力で守ってあげて』


 子供時代の名を呼ばれたアイーダは力強く頷いた。



 ラニカの脳からチップが外された。彼女は人の脳情報を直接受け取れなくなった。

 意識が回復し、息子、そして彼の恋人アイーダと、面会が叶う。

 彼女は病室のベッドで身を起こしていた。


「マンマ、僕がわかるかい?」


 アレックスはおずおずと尋ねる。彼は覚悟をしていた。母は、もう今までの母ではないと。自分のことを忘れている、と。

 が、ラニカは彼を見て微笑んだ。


「当たり前よ! 愛するダーリン!」


 ラニカは息子の背中を強く抱きしめる。


「ああ! 夢みたいだよマンマ! 僕のこと覚えてくれるなんて!」


 ラニカは以前のようにダヤル社を引っ張ることはできない。でもアレックスは、母が自分を覚えているだけで望外の幸せだった。


「ええ! 世界で一番愛しているわ」


 ラニカは息子の頬にキスを繰り返す。息子も母の額そして頬にキスを返した。

 一層強く抱きしめ、ラニカはアレックスに囁いた。


「お願い、もっと強く私を抱いて」


 それは、アレックスが一度も聞いたことのない女の声だった。

 耳元からぞわぞわとした悪寒が広がる。


「マンマ……!?」


 アレックスは逃れようとしたが遅かった。唇に嫌な感触が押し付けられる。

 母は息子の唇を吸い取り、舌を侵入させ、脚を息子に絡みつけてきた。


「なっ! 何を!」


 母が息子にするキスではない。それは、アレックスがアイーダを始め、何人もの女性と交わしたキス……男と女のキスだった。


「やめろ!」


 勢いよくアレックスは母をベッドに突き飛ばし、唇を拭う。いたたまれず彼は病室を飛び出した。


「いかないでフィル! 愛しているのよ!」


 彼女が口にしたのは、フィリッポ・パレオロゴ──別れた彼女の夫でありアレックスの父の名だった。



「アレク! こうなることは覚悟してたでしょ? お母さんが可哀相じゃない!」


 アイーダは何度もアレックスをラニカに会わせようと説得を試みる。


「あれは母じゃない! 僕はあんなキス、したくなかった! マンマならここにいるだろ?」


 彼がスイッチを入れたモニターには、完璧なラニカ・ダヤルが映っていた。

 それはラニカが手術の直前にコピーした人格であり、いまや、ダヤル社の相談役を務めるAIだった。



 キングサイズのベッドで、男は放心したまま天井を見つめていた。


「あなたの夢のバリアは破壊したわ。夢が (うつつ)に戻る時が来たのよ」


 アイーダは、小さなメーキャップミラーを取り出し、アレックスに見せた。


「もう自分が見えてるわね」


「ははは。そうだな……よく見えるよ……ひどいな……見たくない顔だ」


 何の仕掛けもない小さな鏡に映っていたのは、今年七十歳を迎えた老人の顔だった。

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