58 接近
結婚すれば、親に会える──ひみこがアレックスからのプロポーズを受けたのは、それが大きい。
しかし、いつ会えるのだろう? 彼らはもう、自分が結婚しようがしまいが、どうでもいいのでは?
以前のように講演会に呼ばれれば気も紛れるが、アレックスと婚約してから、全くなくなった。
もし、このまま親が会ってくれなかったら? ただ、ホテルで過ごすだけなのか? それなら……やはり、東京にいたときのように、下らないドラマを見て、親と喧嘩する日々の方が……ひみこはホテルの部屋で、鬱々と同じ問いを繰り返す。
「結婚前になるとどんな女性も迷うもんですよ」
ロボットのフィッシャー先生が、ひみこを慰める。彼の今の仕事は先生ではなく、結婚前の女性の愚痴を聞くことだった。
「でも、結婚に賛成なのは、研究センターの皆さんだけですよね」
ひみこは、時計台の前で、ベスに言われたことがずっと引っかかっていた。自分を育てた金持ちと結婚する女……それも普通の金持ちではない。世界の富豪の一人なのだ。
「普通、セレブの夫人となると社交などが大変なんですよ。でもあなたにはそんな必要はない。ホテルで気楽に過ごせばいいんです。ひみこさんも、アレックスの何かに惹かれるものがあって、結婚を選んだのでしょう?」
ひみこがプロポーズを受けた理由は、親に会いたいから。そして、母に会えないアレックスが可哀相だから。
が、何に惹かれた? と聞かれても、彼女には答えられなかった。
「ひみこ、不安なのはわかるが、僕らはずっと家族だった。何も変わらないよ」
夕食の席で、アレックスに気遣われた。今日の食事は、なんとイナゴの佃煮がライスにまぶしてある。アレックスは昆虫食を好まないが、幼い時から食べ慣れているひみこにとっては、大豆ミートよりは好きだった。
「アレックスは、虫、嫌いだよね?」
「君の好きなものだ……ああ、見た目はグロテスクだが美味しいよ」
この人、本当にセレブだとひみこは感心する。フォークでイナゴの佃煮を丁寧に口に運ぶ姿は、紳士そのものだ。
歴史の教科書に載るような伝説の人物を母に持つ人──。
「アレックスは、お母さんが好き?」
「もちろんだよ。世界一だ。おっと、これからは世界で二番目と言わないとね。世界一は君なんだから」
「いいよ。無理しないで」
食事の最中だが、アレックスが立ち上がって、ひみこの前にしゃがみ込む。椅子に座るひみこの膝に頭を乗せてきた。
「ちょっと、アレックス、やだよ」
「君のそういうところが好きなんだ」
おずおずとひみこは、アレックスの黒髪に手を添える。
ねえ、違うよね? あたしたちの結婚は、普通のカップルの結婚とは違うよね?
あたしは、アレックスがお母さんを一番好きで構わないし、その次がアイーダさんだっていいんだよ。あたしたちはずっとこのままだよね……
ひみこは信じていた。言い聞かせていた。信じたかった。
翌日、ノックの音を聞くまでは。
「ひみこ入るよ」
アレックスが、もう帰ってきたらしい。
毎日彼は、アジア文化研究センター日本支部に通っていた。そして夕方の五時半に帰ってくる。
まだ三時。
と、入ってくる男を見て、ひみこは納得した。
アレックス本人ではない。彼を宿したロボット・パーラだ。一目見て、ひみこは彼が分身だとわかった。
四年前、彼が恋人と過ごしていたとき、わざわざロボットを寄越した。
その時の恋人アイーダとは別れたと言っていたが、ひみこは疑っている。たまに彼は、「アイーダを呼ばないと」と呟くから。
「ひみこ」
ロボットが手を伸ばし、ひみこを抱きしめてきた。
「また? 大丈夫だよ。私は寂しくないよ」
留守の時、寂しいだろうとアレックスはロボットを寄越してキスする。
ひみこは習慣の一つとして、目を閉じ頬を差し出した。
が、いつまでまっても頬には何も感触がない。
「あれ? ンム!!」
唇に生暖かい物体が押し付けられた。息ができない。
彼女の唇は、ロボットの唇に覆われてしまった。
ひみこの初めてのキスは、ゴムの味だった。
「やめろ! 気持ち悪い!」
思わず、ひみこは反射的にロボットを突き飛ばす。中身はほぼ水風船のため、ぼよんと嫌な感触を覚えた。
「やば! ごめん!」
アレックスから散々聞かされていたが、ロボットは身を守るため、少しでも強い力を加えると、アプリがフリーズしてただのゴム風船に固まってしまう。
ひみこが初めてロボット先生に会った時、その様子が面白くてわざとぽかぽか叩いていた。
が、今、それよりもっとすごい力で押したのに、アレックスの分身は、形を保ち近づいてくる。
「ひみこ……ちゃんと結婚について教えてあげるね」
じわじわとひみこは追い詰められ、両手首を捕まれた。
「変だよ!! 離せ! う、ムムム」
男の分身がひみこをベッドに押し倒し、再び唇を、ゴム風船の唇を押し付けてくる。
「ぎゃあああ、やめろおお!!」
散々な格闘の上、ようやく分身は「キケンサッチ、ログアウトシマス」と機械声を出し、固まった。




